文字数: 30,472

Anchor me, never let go



 燕夏準は人生の内でまたひとつ、新たな道具を得ることになった。

 難解な問題には公式が、混沌とした情報には係数が、やむを得ない利益の衝突には戦略があるように、物事にはそれをひと手間で整理させる便利なツールというものが原理原則として存在する。そして当然のことながら、道具を多く持つ者は何においても有利だ。

 さてここで、アレンから得た筋の通らない情報をもう一度並べてみよう。そしてこれに「アレンが想っているのは自分」という定規を当てる。

 ──アレンは夏準がアレンの想いに気づいたと思い込んでいる。
 ──それによって、アレンは夏準の行動が普段と違う、からかわれていると考えている。
 ──アレンは夏準がアレンの持つ感情を受け入れられず、嫌う可能性があると考えている。

 なんとびっくり、途端に理解が簡単になる。むしろ何故ここまで簡単なことに気付けなかったのか。らしくもなく愚かな真似をしてしまった。その可能性を考慮したことすらなかったことをアレンに詫びてやりたいくらいだ。

 だがそれもしょうがないことだと思う。まさかそんなことがあるわけないと思っていた。アレンとアンには傷ついても苦しんでも誰かを愛すことを恐れない強さがある。事実として、夏準でなくてもいいはずだった。たまたま最初に傘を傾けたのが夏準で、たまたまあの教室にアレンと共に居た。財や権力はもちろん、たゆまぬ努力で得た成果でもない。そんな幸運をどう離さずにいられるか未だに分からない。

 しかし、今この手には素晴らしく美しく甘美な道具が凶悪な武器として転がり込んできた。

 何がどうなってそんなことを考え始めたのか知らないが、思えばアレンの性的指向なんて話題になったこともない。どうせHIPHOPが対象と認識していたせいだろう。容姿にはそれなりに自信があるのでそのあたりが効いたのかもしれない。

「なんか楽しそうだね? 最近」

 知らず笑っていたらしい。正面に座ってスマホをスライドしていたアンがいつの間にかこちらを見上げていた。大学のカフェテリアは最も混雑する昼を避けてもそこそこ人が集まっている。夏準よりもよっぽど機嫌の良さそうな笑い声が遠くから上がった。

「ええ、まあ。容姿に恵まれると得だなと思いまして」
「急に何考えてんの? まあ、そのカオに言われたら何も言えないけどお……」
「アンも本当にボクの顔が好きですね」
「顔はいいんだよねえ。顔は。スタイルも抜群だし。何着せても似合っちゃうからさあ」

 嬉しいことにこの容姿はアンにインスピレーションを与えもするらしい。満面の笑みを振舞ってやるが、アンは呆れたように半笑いを返すだけだ。何も言わずスムージーを手元に引き寄せる。夏準も同じものに口を付けた。レポートを手伝ってやった見返りでアレンにおごらせたものだ。本人は今、期日に遅れたレポートを何とか受け取ってもらうため、提出先の教授に必死に頭を下げている頃だろう。

「ああ、そうだ」
「ん?」
「アン、手を出してください」
「え? なに? はい」

 アンは不思議そうにしつつも全くためらわずに手の甲をテーブルの上に乗せた。筋張った白い手はしっかり手入れされていることが一目で分かる。近づいてきた冬らしく暗めの色に塗られたネイルはラメが雪のようだ。不摂生のせいで少しだけささくれた、指先の硬い指とは全く違う。その気安さも全く違う。ルビコン川を渡るカエサルもあんなに決死の顔ではないだろう。

「いえ、これ。塗って差し上げようかと思いまして」
「ええ? なんで!? いいよいいよ、僕自分でやってるから! なんか怖いし!」

 さっとテーブルから浮き上がった手に我慢できずに笑ってしまう。何がそんなにおかしいのかアンには当然伝わっていない。不思議そうな表情は怪訝そうな表情に変わってしまった。

 ステージを終えて数日、夏準は段々「コツ」を掴みつつあった。どうやら普段、アレンは意外にも器用に──無意識でそうしているようだが、スイッチを切っている。本人も自覚していないのが肝で、あまりにも普段通りなので気づけなかったわけだと納得した。けれど根が素直なアレンに対してスイッチを入れるのはそう難しくない。近く、甘く、普段とは明らかに違う空気に引き寄せようとする度アレンは分かりやすく動揺した。

 アレンは本当に、夏準のことが好きなのだ。

「ねえー……本当に何? 僕夜怖い夢見そうなんだけど……」
「失礼なひとですねえ。ただボクは気に入ったものには手間暇をかけて大切にする性分なんです」

 ただでさえ笑みが止められないのに、不気味そうに見上げられているので更に笑ってしまいそうだ。ひとつ息を吐いて呼吸を整える。アンの表情がまた変わった。呆れるような、照れるような、嬉しそうな、くすぐったそうな、なんとも言えない顔だ。

「それだけですよ?」
「なんか……言い方があ……」
「尽くす男、なんかのほうがいいですか?」

 ブハッと今度はアンが豪快に噴き出した。ツボにハマったのかテーブルをバシバシ叩いて笑っている。肩を揺らしながら、やはり躊躇わずに両手が差し出された。

「いい! それいい! 夏準に尽くされるって最高! やってやって!」
「アンは単純でいいですね」
「それは余計!」

 アレンにしてやったのと同じように、チューブから押し出したハンドクリームを入念に塗り込んでやる。アンの手のひらはすっかり夏準に気を許してリラックスしていた。ちょっと指同士が滑り合うだけで息を詰めているアレンとは全く異なる反応にまた笑えてしまった。

 さて、道具は得た。あとはこの道具をいかに有効に使うか。文明の利器を開発してきた人間に常に突きつけられてきた問いだ。正直なところ、そういう扱いには自信があった。圧倒的有利が逆に生み出す隙についてもよく熟知している。失敗は無い。そう、そのはずだったのだが。

「夏準」
「……なんですか?」

 武雷管のインタビューが掲載された雑誌を読むというアレンの肩に頭を乗せ、夏準も本を読んでいるところだった。正直なところ読みづらくてしょうがない姿勢だが、武雷管の記事を過ぎてから全くページが進まなくなったアレンが面白くてたまらないので耐えていた。アレンも別の何かを懸命にこらえていたようだが、とうとう我慢ならなくなったらしい。

「重かったですか?」
「そういうことじゃなくて……」

 白々しく顔を上げる。肩先なのでかなり距離が近くなった。アレンは物言いたげにきゅっと眉根を寄せている。

「夏準」

 アレンは雑誌を閉じてテーブルに置いた。きゅっと唇を引き結び、身じろいで夏準に体を向けたので、夏準も体を起こしてその強い視線を受け止める。こういうのは好みではなかったか。まだまだ調整が必要なようだ。加減が難しい。

「アレン?」
「どこから話せばいいか分かんないんだけどさ」

 アレンの表情はやたらと深刻だ。まさかもう心変わりでもしたのだろうか。せっかくのアドバンテージが……などと打算を巡らせている内にアレンの両手が両腕を軽く掴んでくる。アレンから触れてくるのは久々だとふと思う。

「俺、お前に嫌われたくないんだよ」

 予想から大きく外れる言葉に思考がすぐに追いついてこない。嫌われたくない。ということは少なくとも好かれたい気持ちは残っている。だが、何故突然そんなことを真剣に宣言しているのかが全く分からない。ぎゅっと手の力が縋るように強くなる。

「嫌いませんよ?」

 何も知らない時にも思っていたが、どうもアレンは夏準に対する感情に過剰な恐れを抱いているように見える。実際こうして難なく受け止めているというのに、夏準がそれを受け入れられないとどこか固く信じているようだ。なんだか侮られているような気になって少し不本意が声に乗ってしまう。

「アレンがアレンでいる限り。ボクはアナタを嫌ったりしません」
「何しても?」

 またも予想外の言葉。しかし夏準よりも言った本人のほうが明らかに動揺している。どうやら反射で出てしまった言葉らしい。あ、いや、と言葉にならない声がもごもご口元で蠢いている。

「何をするつもりなんですか?」
「え」

 一瞬表情ごと体を硬直させたアレンは、そこで初めて自分が夏準の腕に触れていることに気づいたかのような素振りで慌てて手を離した。そんなに何かまずいことがしたいのだろうか。しかしアレンに限って何か悪意があることができるとも思えない。少しも不安な気持ちにならなかった。

「い……や、別に、特に何かってわけじゃないけど……」
「じゃあ大丈夫じゃないですか? まあ……程度はありますが、何でもいいですよ。ボクの手を離さないでるつもりなら」

 いつもの良く通る声はどこに捨ててきたやら、ボソボソ歯切れの悪い早口に呆れる。アンの言うように「そういう経験が少ない」のか、珍しく自信がないのかもしれない。そんなことを呑気に考えていたが、一度離れていった手がまた伸びてきた。思いのほか強い力が不意にかけられる。完全に油断していた。

「夏準」

 ソファに背中を打ち付ける。起き上がろうにも、腕に力をかけているアレンの顔があまりにも苦しそうで動くに動けない。アレンのほうが明らかに優位な体勢で何故こんなに傷つかれた顔をされなければならないのか。

「そういうことじゃないんだよ」

 苦しげのくせ、瞳の色や声は夏準を気遣うように優しい。アレンは誰かを否定することを何よりも嫌うので、それに近い言葉を使う時はことさら慎重に、丁寧になる。鋭い顔の印象に似合わない心根の柔らかさが表情に滲む。

「俺ばっかりだ、これじゃ」

 右手を外して自分の胸元をぎこちなく撫でたアレンは、ひとつ弱く笑う。らしくない自分を嘲る笑みだった。そしてその手を夏準の胸元に軽く乗せた。呆然とその腕の先を見上げる。

「見返りじゃない。何もしないでいいから、俺は、お前がほしいよ」

 何を言われたのか全く理解できない。だが、体が勝手に反応した。心臓がどくり、とひとつ大きく跳ね、急に忙しく血液を運び出した。薄い部屋着の向こう、その感触をアレンも感じたらしい。驚いたように目を丸め、それからくしゃりと表情を笑みに変えた。

「聞こえたか? 少しは」

 何か、まずい理解が心臓の動きに追いつこうとしている気がした。このままではすぐに追いつかれる。夏準は己の頭の回転の速さにも自負があった。とにかくここでじっとしていてはいけない。部屋の中に居る小さな子どもがけたたましく警鐘を鳴らす。

「그만해」
「え? うわっ、夏準!?」

 腹筋で起き上がりアレンを弾き出す。アレンはなんとか体勢を立て直してソファから離れた。その隙に立ち上がり、何かごまかす言葉をかけることも忘れ早足でリビングを歩き去る。自分の部屋──は遠い。それにアレンに追いかけられたくない。とにかくここから抜け出して思考を止めなければ。目についたアンの部屋のドアノブを思いっきり回す。

「ちょっと勝手に入らないでアレ、夏準!?」
「今日はここで寝ます」
「は!?」
「使いたければボクのベッドを使ってください。ここでもボクは気にしませんから。먼저 잘게요」
「ちょ、ちょっとお!?」

 SWANKに新作を出すのだとデスクに齧りついているアンには悪いが、有無を言わせずにベッドに滑り込む。普段なら落ち着かないはずの、自分の部屋とは違う匂いと気配に少し安堵する。

 いい道具を得た、そのはずだった。けれどそれは同時に凶悪な武器、諸刃の剣。多分、手を引き留められる確率が上がることばかりに浮かれていた。アレンが夏準をどんな風に想っているかを正しく理解していなかった。胸板にアレンの手の感触が残っている気がして落ち着かず、自分の手を重ねた。心臓が走っている。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。