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Anchor me, never let go



 朱雀野アレンはまだ言い足りない。夏準はやっぱり、全く分かってない。

 アンが夏準の部屋へ向かってリビングを出ていくと部屋にはまた静寂が戻った。高層マンションの分厚い壁や窓は外にある気配の全てを一切遮断する。そのせいで、頭の中に渦巻く音と言葉が実際に空気を震わせていると錯覚しそうだ。BPMは100くらい、夏準に伝染したアレンの鼓動の速さ。ふ、とまた一人で笑ってしまった。見たこともないような驚いた顔。何も取り繕わず逃げ出す後ろ姿。

 ソファからそっと立ち上がり、アンの部屋の扉の前に立つ。普段ならアンの怒りを恐れて常に一歩くらいの間隔を空けて通行しているが、今日は歯止めが壊れてしまっていた。ドアノブに手をかけ、部屋の中に体を滑り込ませる。アンらしい物がアンらしく並べられた空間をできるだけ壊さないよう息を潜め、ベッドのすぐ傍まで近づいた。

 胸元──アレンがちょうど手を置いていたあたりを軽く掴んでいる。穏やかな呼吸の度に上下して、アレンの言葉が打ち込まれたことを証明しているみたいに見えた。すう、すう、少し開いた唇から呼吸が漏れている。

「……呑気だな」

 人が何考えてるかも知らないで。

 アレンは気づいてしまった。夏準は変わった。けれど、それよりも大きく変わったのはアレンのほうだ。だから夏準の身振り手振り、呼吸ひとつですら気になり始め、とうとう隠しきれなくないところまできてしまった。夏準の心の奥深くに触れた時、きっと体のほうが先に理解したのだろう。

 アレンにとって、夏準は自分を証明するための起点だった。クレフに似ているかもしれない。そこにあれば、アレンは記譜で音に迷わない。その決まりは不変で疑いようもないと思い込んでいた。

 けれど、今ならもっと近いのだと分かっている。触ってはいけない、完璧に完成された理論じゃない。自分と何も変わらない、弱くて、怖くて、脆くて、でも足掻きながら生きている誰かだと分かってしまっている。触れたらきっと、アレンの言葉が、想いが、熱が夏準に伝わってその心を動かせることを知ってしまった。今、まさに。

 アンの言う通りだ。何かする前から諦めなくたっていい。気長に、少しずつ、けれど全力で想いを伝えられる。人を信じることが難しくなってしまっているその壁を、アレンは想いというツルハシひとつで地道に壊していける。

 硬いと言われた指先で夏準の手の甲に軽く触れてみた。少しも起きる気配がない。ふ、また笑ってしまった。これくらいでアンのところに逃げ込んで大丈夫だろうか。これから長期戦が待っているっていうのに。

 なんてことを思っていた矢先。その心配は早速的中した。

 アレンの目や声を無視しようとしてできない、アレンのせいで心を揺らす夏準が見ていたくて、加減が効かなくなっていたらしい。今まで見たことも無いような乱雑さで荷物をまとめ、スタスタと教室を歩き去る背中を呆然と見送る。夏準の近くに座る健気なファンたちの心配そうな視線が束になってその背に追い縋っていた。

「ちょっと?」

 どすどす、という擬音が聞こえそうなくらい強い力でつつかれて振り返れば、反対側に座るアンがじっとり疑いの目を向けている。

「何かした?」
「……うん、やった」

 どう考えても悪いのはアレンだ。夏準だって散々好き勝手やってただろ、という気持ちも無くはないのだが、アレンの気持ちなんて知らずに心を許していただけなので今回とは比較にならない──そうこの時は信じ込んでいた。

「センセーの講義はちゃんと聞いて」
「はい」

 今度はじろり、西門の大ファンであるアンの視線が更に厳しくなる。ここで下手を打つとアレンまで教室から引きずり出されそうなので、大人しく反省しておく。

「それから。……早くいつも通りに戻ってよ?」

 神妙な顔をしているアレンに呆れたようなため息を吐きかけて、アンはもう一度拳でアレンの肩を小突いた。そして険しかった表情を苦笑に変える。

「分かってる。ちゃんと話すから」

 笑顔で返した、までは良かったのだが。その後も一悶着あって、結局アレンは一人で先に家に帰ることになってしまった。さすがに最初からトバし過ぎたかな、多分ちゃんと順を追って話していかないとダメだよな、でもこの時間だと夏準ってもう寝る時間だしな──悶々と悩みつつ、コーヒー豆にかけた手を引っ込めて牛乳を温めたわけだ。

 そして今、アレンは夜の風に弄ばれてぱらぱら浮き上がる夏準の細い髪を眺めている。うつむく夏準はどこを見ているかも分からない。ただ呆然と、自分で言ったことで自分を傷つけている。そんな風に感じてアレンも苦しくなった。

「夏準」

 両肩を掴んでいる手からも、声からも、表情からも力を抜く。できるだけ角を落とした声に夏準の瞳が動いた。安心させるように笑みを浮かべる。

「一回入ろう」

 夏準と自分のマグカップを回収し、開けっ放しだった窓からリビングに戻った。テーブルにカップを隣り合わせて並べ、ソファにどっかり腰を下ろす。夏準、もう一度名前を呼ぶと、複雑そうな表情のままだが後に続いてくれた。パタリと窓が閉じられれば風の音が消え、部屋は二人の気配だけになる。

 夏準はゆっくりと歩み寄ってきて、また一人分空けたところに静かに腰を下ろした。座面から伝わる振動は小さい。

 さすがに今はアレンの頭の中も静かだ。ただ夏準の悲痛な声だけがリフレインしている。胸の痛みを宥めたくてカップを持ち上げ、口をつけてみた。思わず「ぬるっ」と声が出る。夏準に苦笑を向けるが、その顔はやはり俯いたままだ。

「忘れてください。さっきの言葉」

 代わりに部屋の中に沈んでいった冷たい囁きは、温い牛乳よりうまく呑み込めなかった。カップをゆっくりとテーブルに戻す。夏準は寄った眉根を隠すように額に手を当てた。

「少し、時間をください。そうすれば……」
「無かったことになるか?」

 別に何か責めたり傷つけたりしたかったわけじゃない。そうしたいのだと分かってしまったので声にしただけだ。けれど夏準の反応は思っていたよりずっと大きい。そんな顔をさせるだけの会話を続けたくないのに。

「あのさ」

 どこから、どこまで話せばいいか未だに全く分かっていない。でもここで出し惜しみするなと頭の中のアンが背中を思いっきり押し出した。腰を浮かし、思い切ってすぐ隣まで移動してみる。講義中と同じように、夏準はその距離を許してくれる。許そうと耐えてしまう。そこをもっと慎重に進めるべきだったんだなと、また今更に気づく。

「最初からなんだかんだいい奴だって分かってたけど……でもそれがどういう意味で好きかとか考えてなかった。考える余裕もなかったし。そんなこと考えないだろ? 俺たちだぞ?」

 ここをまだ自分の家だと思えていない、居候を始めたばかりのぎこちない距離感を思い出しておかしくなってしまった。何か大きなきっかけがあったわけじゃない。一日が重なる度に小さな発見と信頼が降り積もっていった。

「なんでだったか全然覚えてないけど、俺が言ったことものすごく笑われたことがあって……ずっと笑ってて、ムカッときたけどさ。さすがに。でもその時に気づいたんだよ。好きなんだなって」
「……変わった趣味ですね」
「うるさいな」

 険しい表情が少し緩んで返事が返ってくる。それだけのことが嬉しくなって文句を言いつつ笑ってしまう。

「お前が俺の行きたいところに一緒に行くつもりなら、俺はそういうなんでもないことでお前のことが好きになる」

 本当は笑わせたきっかけを覚えている。放課後の教室で、拙いフリースタイルの仕掛け合いの最中、あっという間にアレンと肩を並べ、時には超えてくる夏準に感動して褒め称えるリリックになってしまったせいだ。もう音に乗ることさえ最後には忘れていた気がする。

 今より少し幼い顔の夏準はきょとんと目を丸めて、それからクスクス、クスクス喉で笑いを転がしていた。何故こんなに記憶が鮮明なのか今なら分かる。それが初めての経験だったからだ。アレンが差し出す何かが夏準の心を揺り動かした。

「無かったことにならないよ、夏準」

 夏準の顔を見つめる。宣言でもあったし、懇願でもあった。最初にアレンを認めたこの男に、これだけは否定されたくない。理屈をつけて無視されたくない。

「気づいたんだ。俺の言葉がお前に響いてるって。言う前から諦めなくてもいいって思えた」

 膝の上に乗る拳のすぐ近くまで自分の手を差し出して夏準の顔を覗き込む。迷うように目が揺れたが、根気強く待つと手のひらが開いた。冬の空気が入ったせいで冷えたリビングの中、重なった手の中に熱が生まれる。それを逃がさないようにぎゅっと握った。

「何かしたいなら俺のことまた見つけてくれ」

 引き換えるように求めたくない。アレンの本当にほしいものはそれじゃない。何も無いところから無限に音や言葉が溢れ出て止まらなくなるように、夏準にもアレンから何かを感じていてほしい。

「……なんでもないことで俺のことも好きになってくれよ」

 これが夏準に何かを強制させる願いじゃないことが伝わるだろうか。それが不安で言い淀んでしまった。夏準はただじっとアレンの言葉を受け止めている。

「余計なこと考えられないくらい、俺にどっぷりハマってくれ」

 夏準の目がいつかも見たように丸くなった。

 それから猫の目のようにシャープな目尻が少し下がる。握っていないほうの手で口元が抑えられた。その表情の変化があまりに「きっかけ」と似ているのでまじまじ眺めてしまう。

「アレンはやっぱり、駆け引きには向いてないですね」
「なんだよ、それ」
「おかしな口説き文句」

 甘い色をした夏準の目がじっとこちらを覗き込んでいる。口元が隠れているので表情が読みづらいはずなのに、笑っているのが分かってしまう。

「くど……」
「違うんですか?」
「違……わないけど」
「ボクも相当趣味が悪いですね。こんな言葉で。何も解決なんかしないのに」

 わざとぼかすような言い方をするせいで、すぐに理解が追いつかない。どうしても良いように解釈してしまうそれを持て余している内に、夏準がぎゅっと手を握り返してきた。

「アレン」

 口元から手が外れた。表情にも声にも何の飾りもない。素のままの表情がこちらを見ている。

「触れたいです」

 言うなり、夏準がアレンの腕を引いた。意味を量りかねて動けずにいると、さらに手の力が強くなって体が傾く。乗り出された体を肩で受け止めた。

「ボクが触れたいんです」

 繋いだ手が離れてアレンの背中に回る。迷いつつ、恐る恐るアレンも夏準の背に腕を回した。先ほどあれだけ遠くに感じた細い髪が今は首筋をくすぐっている。

「安心したいから」

 広いリビングの中、二人の間に生まれたほんの少しの隙間とその熱に夏準の頼りない囁きが溶けていく。思わず腕の力を強くした。夏準もアレンの服をぎゅっと握り込んで引っ張る。

「好きです」

 小さな囁きなのに、効果は絶大だった。さっきの言葉もこれくらいこいつに響いていたらいいのにと思うと悔しいくらいだった。背中から駆け上る甘い痺れに頭がぐらつきそうだ。目元が熱い。夏準の肩にその感情を擦りつけてごまかす。

「言われなくてもとっくに。だから不安なだけです」
「……ばかだなあ」
「조용히 해」

 何を言っているか分からないが、どうせ「うるさい」とかその辺りだろう。でも言わずにはいられない。夏準はやっぱり何も分かってない。アレンがどれだけその言葉を欲していて、そんな自分をどれだけすり潰して殺してきたか。ばかは俺もだな、と自分に呆れる。

 どれくらいそうしていただろうか。ほんの数分だったような気もするし、数十分は経ったような気もするし、もう何時間でもそうしていたい気もする。けれど密着した熱からわずかに香る自分のものでない匂いに落ち着かない気分になってきた。とんとん、と弱く夏準の腕を叩いてみる。

「なあ、やり直していいか」

 ぴくりともせず縋るようにアレンを抱きしめていた夏準の体が少し動く。ゆっくりと体が起こされ、近い距離で見つめ合う。夏準はアレンが何をやり直したがっているか既に察しているようだ。いつものからかうような笑みに甘さが滲んでいる。

「どうぞ?」

 覗き込むように顔を傾けられた。触れるくらいのところに鼻先がある。先ほどとはまるで違うリラックスした表情に心が浮つく。寝ぼけてこんな顔を見たら間違ってキスくらいはするかもしれないな、と改めて自分の罪を認める。少し距離を詰めてみたが夏準の目は開いたままだし、アレンも今ひとつ目の閉じ時が恥ずかしくて分からない。なんとなく笑いが生まれてしまった。その勢いのまま口に触れ──

「ただいまー!!」

 ──ようとしたところで元気なあいさつがリビングに響き渡った。ソファの端と端に咄嗟に体が離れる。

「ちゃんと仲直りした? 二人がなんっかヘンって話したらそういう時はやっぱ酒やろーって、これもらって帰されちゃった! 依織さんってやっぱ最高~! ってかなんかこの部屋寒くない?」

 アルコールが入っていつもに増してご機嫌なアンがずかずかとソファに近づいてきた。そして座面に倒れ込むアレンと背もたれに預けた腕で頭を支える夏準を見つける。

「何してんの?」

 沈黙。いや、何をしていたかというと、結局何もできていないのだが。

「……おかえりなさい、アン。何かつまむものが要りますか? 付き合います」
「え、うん、ただいま……今から? 大丈夫?」
「ええ。その口ぶりだと、あの人たちと飲んできたんでしょう。なのにボクとは飲めないんですか?」
「もー、そういうのいいから……この時間夏準って飲んだり食べたりしないじゃん」

 さすが夏準、こういう時の立て直しは一流だ。ソファから未練なく立ち上がる姿を恨めしく見つめる。

「なに……なんか……邪魔しちゃった?」
「いえ? いいタイミングでしたよ。とても」

 戸惑うアンに向けた笑みがアレンにも向けられる。その表情の柔らかさに不満な顔を維持できなくなってしまった。

「丁度飲みたい気分でした。今日くらい」

 ね、アレン。

 恋は惚れたら負けと言うが、それならアレンは完敗だ。だが、たった昨晩長期戦を覚悟したばかりと思えば悪い負け方じゃない。これからも夏準との時間はアンと共に続いていく。続かせていく。はあ、喉元に詰まっていたがっかりした気持ちを思いっきり吐き出して一旦捨てた。

「そうだな。飲むかあ」
「いいねー! 飲も飲もー!」

 言い足りないから、これからも何度も何度も、目で、手で、言葉で、音楽で、使えるものはなんでも使って伝えたい。もう分かったから要らないと言わせてやるくらいに。

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