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Anchor me, never let go



 燕夏準の手の内にあった道具は、その日を境にひとつとして役立たなくなった。

 動力源を失った文明の利器がただの鉄塊に変わるのに似ている。素晴らしい道具がたちまちただの重荷になって人生に沈殿する。

 ふっ、ふっと耳障りな息遣いが闇の中に生まれる。嗚咽に引きつる呼吸を必死に押し殺す音だ。もう何度も何度も何度も何度もうんざりするくらい記憶の中で再生された豪奢な部屋の中、しかしそこには忌まわしい「家族だったもの」の姿は無かった。ただ一人がテーブルの端、小さな背中を震わせている。弱く脆く、無知で愚かな自分の象徴。退屈な夢。

「何故泣いているんですか」

 抑えきれない苛立ちが足元から這い上り、言葉に棘を生やした。もうこちらはとっくに立ち上がり歩き出している。いつまでも泣き止まないその姿を詰らずにいられなかった。

 少年の顔が上がる。そしてゆっくりとこちらを振り返った。信じられないものを見るように目を大きく見開き、目尻に溜まった涙がぼろぼろと零れ流れていく。

「네가 바보라서야」

 情けない泣き言が返ってくると思っていたので不意を突かれる。驚きを隠せないこちらに少年も苛立ちを露にしている。椅子から立ち上がり、足の裏で茨でも踏むように苦しそうにこちらへ近寄って来た。これは夢だ。まともに取り合う必要もないのに体が動かない。

「あの人たちとは違います。あの二人は……アレンは」

 それは少年だって分かっているはずだ。あの二人が飛び込んできて、手を取ってくれたから夏準は今まだここに居る。だが何故だか自分の声が少年の嗚咽よりも情けなく弱く響く。すぐ正面に立った少年は怒りに表情を歪めた。

「잊었어? 잊었어!?」

 ドン、と小さな拳が少年自身の胸を叩く音が痛々しい程大きい。そしてその拳は自分にも容赦なく向けられた。怒りに満ちた拳が鳩尾のあたりに打ち付けられる。当然、子供の力は大した衝撃ではない。けれど拳の届かない胸に、つきりと針を打ち込まれたような痛みが走る。顔をしかめ胸元を押さえると、アレンの手の感触をまた鮮明に思い出してしまった。少年の拳がそれを打ち消すように振り下ろされる。呆然とその──自分の稚拙な感情を受け止めていた。

 はっと息を呑む。開けた視界に薄暗い部屋が飛び込んだ。アンらしいインテリアや私物が小綺麗にまとめられた部屋。自分のものではない、何かの香料の匂いがここが夢の中ではないことを教えた。膨らんだ胸からゆっくり息を抜く。胸元を掴んでいた手の力を緩めた。

 体を起こし、顔を手で覆う。最悪の目覚めだ。

 そこからはとにかく、平静を装うことに全身全霊を注がなければならなかった。アレンもアンもそれを察しているらしい空気が却って居心地が悪い。反射的にアレンを避けてしまっても、アレンはただ困ったように眉を下げて笑うだけで文句ひとつ言わない。そこに自分の不出来さを見る気がして自分を許せない。

 12月に入って一日中冷え込むようになり、大教室には薄く暖房が入っている。窓から入る昼下がりの陽光が埃っぽい乾燥した空気を輝かせていた。眠気を誘うシチュエーションだが、熱心なファンが多い西門の講義で舟を漕ぐ学生は少ない。教育者としても熱心な彼が学生の姿勢を率直に評価することが知れ渡っているせいでもあるだろう。

「人間だけが何故言語を持っているのか。そう考えたことはないかな? もちろん、この時代の学者たちも同じことを考えた」

 スライドにレーザーポインターを当てながら低い声が滔々とフロウを紡ぐ。西門のファン筆頭のアンはその姿に釘付けだ。邪な想いに囚われずノートもきちんと取っているところに性根が出る。そしてその隣、アレンも普段は他の講義と比較すればHIPHOPの誘惑をなんとか振り払えていることが多い。特に今は一曲作り終えた後だ。だが、盗み見た視線がこちらを眺める視線と真正面からぶつかってしまった。

「人間も動物もコミュニケーションを取る手段なら持っている。そういう意味ではどんな動物も言語を持っていると言えるかもしれない。私たちもそうだろう? アイコンタクトで分かり合ったり、表情や触れ合いで相手のことを知ることもある」

 いつかと同じように頬を手のひらで不細工に押し潰しているが、驚いた様子はない。鋭い目つきが緩んで笑みになるだけだ。言い訳も何もない。堂々と夏準を見ている。その眼差しの柔らかさを見ていられなくて手元に視線を戻した。

「ただ、人間だけがそれを高度で複雑なものにした。何故だろう? この論で言うとそれは……物の感じ方や能力、就く仕事や住む場所、それが全くバラバラだからだね。バックグラウンドもできることも全く違う相手に何かを強く伝えたい時、言語はどんどん発達していった、と言っているわけだね」

 無関心を装う夏準を追うように手のひらが視界の端に入ってきた。夏準の左手に指先が触れるか触れないかのところにアレンの右手が置かれた。見られている。反応を。

「特に何か、見たこともない、聞いたこともないことを美しく表現したい時、つまり芸術とともに言語もまた美しく羽化していくと言うんだね。私はこの点が気に入っていてね。言語は神様に上から突然与えられたものではなく、君が理性を持って何かを考える時に自然と寄り添っている。そして君が何かを表現したい時に進化する」

 少しささくれた爪先の指が左手の縁をなぞるように少し触れる。夏準が何も反応しないことを確認するように。ペンを持つ右手に少し力が籠る。それがアレンにまで伝わったかは分からない。西門の声も学生たちの気配も何もかもが遠くなり、触れられている手の感触だけが優先されている。アレンの手が動いた。手の甲に自分でない体温が重ねられて体が浮く。

 気づけばアレンの手を振り払って立ち上がっていた。目を丸くした西門と学生たちの視線を集めている。

「……すみません。少し気分が悪くなってしまって」
「それは心配だ。必要なら休んでおいで」
「はい。邪魔をしてしまいました」
「いいんだよ。そうだ、いいタイミングだね。資料をもう一部共有しよう」

 前の座席に居るファンたちが率先して席を立つ。教室内の空気が緩んで退室しやすくなった。西門らしい配慮だ。敵にまで情けをかけられる始末。道具を失った夏準はまるで敗走兵のように無様だ。アレンとアンの顔は見なかった。どんな表情をしているか想像もできない。したくない。振り返らずに教室を出て、そのままベンチで呆然としていた。

 シンプルに信じる──具体的にそれはどういう行為を指すのだろうか。アンのおかげで少し引き戻せた平静を自分の部屋で培養する。アレンとアンのことはもう信じている。疑うのも馬鹿馬鹿しいくらい情深く義理堅いともう知っている。だから夏準も彼らに惜しみなく与えたいと思う。彼らのその気持ちがまた消えてしまわないように。では、何もしなくていいと言われたら?

 コンコンコン、扉が控えめに叩かれた。思考のために口元に添わせていた指から離れ顔を上げる。アンはバイトに出かけて行ってまだ帰っていない。扉の向こうに居るのはアレンの他にいない。

「ちょっと話せないか」

 今日の自分の振る舞いが八つ当たりに近いものだったことはよく分かっている。BAEのことを考えてもこのまま有耶無耶にしていいわけがない。ただ、夏準には時間が必要だった。自分なりの理屈が通るまで、あとほんの少しでもいい。それまではできれば放っておいてほしかった。

「この時間だし……ホットミルクにしたんだけど」

 アレンの声はいつもより随分弱い。夏準がそんな声を出させている。ふざけるなとむしろ怒ってしまえばいいのに。アレンにはそれができないことをよく知っている。ふー……息を潜めたまま長く吐いた。ベッドから立ち上がる。腹を括って勢い良くドアを開けると、わっと驚かれてしまった。不本意だが、あの時のような長期戦を予想されていたのだろう。同じ轍をまるまる踏むほど愚かではない。ちらりとアレンの手元を見たが、カップも盆も無さそうだ。

「……部屋入るの嫌かと思って」

 弱い笑みになんと返せばいいか分からず黙り込む。こっち、アレンがリビングに歩き出したので後に続く。ダイニングテーブルに置かれたカップを両手に取ったアレンは更に奥へ進んだ。ソファーを使うのかと思ったが目的地はその更に向こう、バルコニーらしい。窓の前に立ってこちらを振り返ってくるので、ソファーの隅に折り畳んであるブランケットを手に窓を開けてやる。それだけのことが心底嬉しそうなアレンは、満面の笑みでカップを差し出してきた。冷たい空気に肌を舐められながらそれを受け取る。

 街の明かりは星の光より強いのに、その喧騒は遠く風の音ばかりが強い。一人分の間隔を空けたままそれをただ見下ろしていた。

 ごめん、切り出したのはやはりアレンだ。

「俺、やっぱりあんまり人とこう……うまくやるの難しいみたいだ。アンとか、夏準みたいにはいかないよな」

 何を思って講義中にあんな触れ方をしてきたのか分からないが、夏準のように相手を量るような意図は無かっただろう。単純に真似をしたというのなら自業自得でもある。

「誰とでもうまくやれる人間なんて居ませんよ。必ずしも、そうである必要もありません」
「珍しいな、もっと言われると思った」
「一般論です」

 アレンは自分のコミュニケーションスキルを低く見過ぎている。うまくいかないのは相手にとって取っ掛かりが無いだけだ。良くも悪くもまっすぐで嘘が無いので、何も意識せずとも相手に自分を強く認識させ引きずり込むところがある。それを危ぶみ避ける者も居れば、気づけば抜け出せなくなっている者も居る。

「でも、夏準には嫌われたくないって言っただろ?」

 夜景を見下ろしていた目を思わずアレンに合わせてしまった。また苦い笑みがこちらに傾けられている。

「……ボクも嫌わないと言ったはずですが」

 本当に、少しで構わないから時間が欲しかった。それだけなのだ。アレンが何か悪かったわけではない。ただ夏準が道具を失っただけ。何を使ってその笑みを測ればいいか分からなくなっただけ。

「昔、ここで一緒に飲んだよな。コーヒー」

 その時のことを思い返しているのかアレンの視線がカップに落ちた。声も目も穏やかで相槌ひとつ返せない。喉に何かが詰まって肺から吐息を押し出せない。

「夏準にとっては大したことじゃなかったかもしれない。けど、俺にとっては意味があった。あの時からずっと、お前じゃなきゃダメなんだ」

 遠い街明かりに薄く照らされたアレンの目がまっすぐにこちらを見ている。その場を立ち去りたい衝動を留めるためにカップを塀の上に置き温い温度を両手で強く握り締める。

「好きなんだよ」

 追い縋るように囁かれた言葉にぐっと胸が重くなった。アレンを最初に見つけた夏準をアレンが強く心に刻みつけていることは知っている。だから手が差し伸べられているのだということも。

「それで」

 詰めていた息をなんとか押し出してようやく一言落とす。どく、どく、早くはないが、心臓から血が送り出されている音が何故だか大きくなって息苦しい。

「どうしたらいいんですか? ボクは」
「……やっぱり夏準、驚かないな」
「今更では?」
「え!? でも、アンは夏準は知らないって……」

 お互いに怪訝な顔を見合わせてしまった。一瞬前まで空気に満ちていた緊張感が急に緩む。自分に正直で居たいアンのこと、口止め──もとい、アレンへの配慮が長続きしないことは想定していたが。だとしたらアレンの行動に説明がつかない。夏準に隠せているつもりの行動だったとは到底思えない。そもそも──

「この前の曲ができた時自分で白状したでしょう。それからキスしてきましたよね」

 アレンがぎょっと目を剥いた。目玉がそのままころころ転がり出してきそうだ。微妙な距離感もすっかり忘れられて身を乗り出してくるので半歩下がる。

「はああ!? 俺がか!? キ、え? う、嘘だろ!?」
「まあ限界のようでしたし。そんなことだろうとは思っていましたけど……」

 咄嗟に躱したので鼻先にはなっていたが。あのままじっとしていたら間違いなく唇が重なっていただろう。ロシア系の血が入っているとはいえ、未だかつてアレンがそんな親愛表現を使ったところを見たことはない。それまでの行動から考えても解は一つしかなかった。

「はああ……? マジなのか……? ってお前っ、じゃあやっぱりからかってたな……!?」
「何のことですか? 人に無遠慮に触れておいて綺麗さっぱり忘れるのはからかったとは言わないんですかねえ。弄んだ? もしくはボクの知らないもっと悪い日本語でしょうか?」
「うっ……」

 カップを叩き割る勢いで置いたアレンは頭を抱えてしばらく自分と葛藤していたが、あああ、と情けないため息を吐いて拗ねた顔を上げた。自分の行いのせいで文句も言えず、罪悪感も入り混じった情けない表情に仕上がっている。

「……別にいいよ。いつも通りで」
「いいんですか? ボクがほしいんでしょう?」
「っあれは! そういうのじゃなくて! 俺の気持ちとか関係ない話だよ。俺は別にお前に何かもらえるから一緒にやってきたいわけじゃないってことで」

 薄暗い中でも、リビングからの光にほのかに照らされ、アレンの耳が赤くなっているのが分かった。信じられないって分かるけど! なんで俺はそんなこと……一人でブツブツ呟いて盛り上がっている。

 本当のところ、そんなことはとうに分かっている。夏準を見下ろすアレンの目にはただ穏やかさだけがあった。尽きない親愛と慈しみ。目的も理由もない「無償の愛」に似ていた。

「とにかく! ただ変わらずここに、隣に居てくれ。ごめんな、黙っとけなくて」

 一通り騒いで開き直りまでようやく到達したらしいアレンが、またソファの上に居た時と同じような顔で笑う。また胸につきりと針が刺さる。子供が拳を振り下ろす。

「アレン」
「……何だよ」

 照れをごまかすためにしかめられた顔を無視してその手を強く掴んだ。すぐに表情がぱっと驚きに染まる。自分の胸元にもう一度それを引き寄せ、あの時のように撫でさせる。

「本当に何も要らないんですか?」
「夏、」
「何をしても嫌わないのに?」

 強張る指を逃がさずに離れた半歩分戻る。握った手を今度は頬に当てた。いつかのように触れた瞬間に指が跳ねる。それを少し笑って今度は指先に唇の先を付けた。ちらりと送った視線の先で慈愛だけでない感情が揺らいでいるのを確認して少し安心する。唇で手の甲をなぞると、夏準! アレンが怒鳴り声を上げた。手を振り解かれる。

「俺はお前が好きなんだぞ」
「だったら……」
「俺のために耐えてくれって意味じゃない」
 
 いよいよその言葉が、両肩を掴む強い力が、夏準に最後の道具を捨てさせた。それに気づいてしまって絶望する。カッと頭に血が上り理性で制御できない。口が勝手に開く。

「じゃあボクは、どうアレンを信じればいいんですか」

 アレンの顔が怪訝そうに歪む。信頼を確かに分け合った実感が互いにあるから、夏準の言葉をすぐに飲み込めないのだろう。分かっている、これは恩に仇を返す稚拙な感情だ。

「何もできないのに、どうやって」

 いっそのこと顔や、もっと即物的なものを求められていたなら話は簡単だった。だがアレンが愛そうとしているのは夏準という存在だ。そこにはどんな努力も工作も介在しない。ただ息を吸って、吐くだけ。そうしてどうなったかの結末をもう知っている。

 アレンが触れた時、ほしいと言われた時に気づいてしまった。夏準はもうとっくにアレンが見せる世界の全てを愛している。そしてそれを繋ぎ留めていられる方法が無いことが途方もなく苦しい。何でもいいから求めていてほしかった。

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