「천……이백、십오……년…………」
囁き声がとうとう途切れた。今回はちょっと挑戦してホームグッズなんかどうだろ!? なんて意気込んでいたはずなのに、手元では夏準によく似た体形の人体デッサンがリラックスして座ったポーズを取っている。よく眠れる部屋着でもデザインしてやるべきだろうか。
ベッドに潜り込んでしばらくすると、夏準は何かを呪文のように囁き始めた。あまりにも普段と違う様子に恐れおののきつつ「何それ」と聞いてみると、「世界史年表です」という全然親切じゃない答え。羊の変わりに数えているのだと気づくのに十分くらいかかった。それまでは何を言っているか分からないせいで軽くホラーだった。一切途切れないのも悪魔に憑かれた感じがあって怖い。全部覚えているらしい。
すう、すう、いつもは一人の部屋に誰かの寝息が響くのはなんだか不思議な気持ちになる。音を立てないように椅子を回し、忍び足でベッドの脇まで近づく。右手だけ胸元を掴むように握りしめているが、それ以外はピッシリ仰向けなところに性格が出る。アンが言うのも何だが、夏準も相当アンドロジナスな顔立ちをしていると思う。眠っているとそれが際立った。
「夏準って……寝るんだ」
そりゃそうだ。
アレンの作曲作業に付き合ってうたた寝しているところなんて何度も見ているのに、何故だかそんなことを考えてしまった。「人のベッドに潜り込んで眠る夏準」というのがあまりにも現実離れしているせいだろう。
「っていうか、夏準が寝たらもう定員オーバーじゃない?」
パッと見の印象はスラっとしているが夏準は結構背が高い。それに合わせて、カッチリした服装も完璧に着こなせる程度には肩幅もある。どんなつもりでアンに「ここでも気にしない」と言ったのか分からないが、頑張って壁際に追いやったとしても密着しないと眠れそうにない。アンも別に夏準なら構わないと言えば構わないけれど、せっかくスヤスヤ眠れたところを邪魔するような真似はかわいそうな気がしてしまう。
「……しょうがない、sleeping beautyに譲ってあげますか」
何ががどうしてこうなったかの聴取は明日に回すとして。アンにとって自分の部屋は自分だけの世界をいくらでも組み上げられる城だ。半分主の座を常に誰かに明け渡しておかなければならなかったあの頃とは違う。誰であれアンの許可なく入城できない。けれど夏準はそんなアンの城を最初に守ってくれた相手でもある。だったらアンも、夏準の危機には逃げ込み先くらいにはなってあげたいし、そうなれているなら嬉しいと思う──ほぼ遅刻しないで済んでるのも夏準の健康美容生活のおかげだし。
「最近はちょっと甘えんぼだもんね?」
起きていたら二、三倍で口撃を返されそうな囁きも今は寝息の中に紛れて消えるだけだ。忍び笑いしつつ部屋を抜き足差し足そっと部屋を出る。音をなるべく立てないように神経を使ってドアを開閉し、安堵のため息とともにリビングに向き直り思いっきり肩を跳ねさせてしまった。てっきり誰も居ないと思い込んでいたが、ソファにアレンが座っている。
「……何してんの?」
作業をしているのかと思ったがいつものセットが見当たらない。ローテーブルには雑誌が乗っているだけ。それを開くでもなく静かな空間にただ座っているように見えた。テレビもレコードプレーヤーも動いていない。
「アン」
人が入ってきた気配に全く気づいていなかったらしい。アレンは声も表情も魂でも抜けたみたいにどこかぼんやりしている。こちらもこちらで様子がおかしいが、さっきよりは納得感がある。夏準が悪魔に憑かれた原因が自分に無いなら後はもう一人しかいないのだから。
「ケンカ? 夏準ならもう寝ちゃったよ。僕のベッド取られちゃった」
親指で後ろのドアを示すが、アレンの反応はやっぱり鈍い。こちらを見ているのにちゃんとアンの話が耳まで届いている気がしない。怪訝に眉をしかめ恐る恐るソファににじり寄る。人を仲間外れにして二人でホラーやらないでほしい。つまらないから。
「俺……ずっと、勘違いしてたかも」
「……何を?」
「夏準を」
アレンが視線を自分の手元に落とした。膝の上に乗った手のひらをじっと眺めている格好だ。全然話を整理する手がかりが掴めない。とにかく二人の間に何かがあったことだけは間違いないらしい。ただ、アレンは夏準ほど切羽詰まった感じはしないし、怒ったり悲しんだりしているようにも見えない。とにかくフラットで、何を考えているのかがいつもみたいに推し量れない。
「アンの言う通りだな」
「……僕?」
「決めつけちゃダメだよな」
「そんなこと言ったっけ? まあ、そうなんじゃない?」
とにかくこれまでの人生、色んなことを決めつけられてきたし、今もやっぱりそういうものと隣り合いつつ暮らしているから、何か似たようなことは言っているとは思う。どちらかと言うとダメというより損だと思うけど。決めつけないほうがその人や物を一から始められる。
「スッ……キリした」
はあー、大きなため息と共にアレンの肩から力が抜けた。口元には笑みが浮かんでいる。何が何やら分かっていないアンにも嬉しげな笑みが向けられたので、とりあえずは笑い返してやる。
「ケンカ……じゃ、なさそうだね?」
「うん、心配要らない」
どこかぼんやりしていた声にいつもの自信に満ちた音が戻ったので、本人の要望通りそれ以上の心配はしないことにした。もう少し詳しく何があったか言ってくれないとこちらは全くスッキリしないのだが──そんな表情が伝わったのか、恐らく伝わってはないが、気分良さそうなアレンは一応言葉を足してくれた。
「アンもさ、夏準にちゃんと伝わってるか、確認しといたほうがいいと思う」
「あー……」
なんとなく分かったような、やっぱり分からないような。夏準は自分から相手に様々な姿を決めつけさせて、それをうまくコントロールして楽しむドSだが、困るのは夏準自身も本人に対して決めつけている「何か」があるらしいことだ。本人も意識せずにそうしているから、アンもアレンもその決めつけを信じ込んで裏にある本当に気づけなくなってしまう。アレンはそういう「何か」に一つ気づけたのかもしれない。そして今、一から夏準をまた始めようとしている。だとしたら嬉しい気持ちも分かるし、ちょっと羨ましい。
「そういうとこあるもんねえ」
「ああ。そういうとこあるんだよな。夏準にも、多分俺にも、アンにも」
急に笑みが向けられて目を丸くしてしまった。だが、素直なアレンらしい受け止め方でもある気がする。最初からアレンがアンのことを窮屈な型にはめ込んでくるなんて思っていないのに。とにかく、アレンと夏準の間には夏準自身も気づいていない何かがあって、アレンはそれに気づいたということだと思う。間違っていてもいい。今は眠りにつけるくらいの納得がほしい。アレンの肩をポンと叩いて手を挙げた。
「よく分かんないけどさ、気づけて良かったね。今日は邪魔されちゃったし僕ももう寝るよ。おやすみ~」
「え? なんでそっち……」
「だから夏準、僕のベッドで寝てるんだって」
やっぱり聞いてなかったのか。呆れて振り返ってみると妙な表情とぶち当たった。苦手なグミを口に流し込まれて飲み込めないみたいな顔だ。
「……なにその顔」
「いや、なんか……俺も分かんないけど」
「じゃあアレン夏準の部屋行く? 僕アレンのベッド使うから」
「はあ!? なんでだよ!?」
「そんなに嫌がらないでもいいじゃん」
「寝れるわけないだろ……」
「そっち? こだわりあったんだ。どこでも寝落ちできるのに」
HIPHOP以外にこだわりがあったなんて驚きだ。レコードと同じくらい枕にこだわるアレン──面白くなってしまいそうなので深い想像はやめた。
正直なところ気持ちは分からないでもない。ベッドを貸した借りがあるアンならともかく、何も無い上に一悶着起こしたアレンが夏準の部屋で寝相を解放して私物でも壊そうものなら次に何が来るやらだ。いくら待ってもタイヤグミを飲み込みきれない様子なので、アンがさっさと夏準のベッドを使うことにした。
そうしていつも通りの朝──とは、やっぱりならず。
「夏準、なんか……変じゃない? ずっと」
SWANKの運営をお願いしている会社のオフィス、そのリフレッシュスペースのテーブルに肘をついたアンはとうとう切り出した。丸椅子の脚にヒールをカツカツ当てながら、腕を組んでわざとらしく目を逸らしている夏準をじっと見上げる。大学が終わってからの時間なのでブラインドから漏れた夕陽が夏準の白い頬を照らしていた。パーティションと自販機で区切られた狭いスペースの向こうでは人びとが忙しく、しかし楽しそうに行き交っている気配がする。
元々経営に興味がある夏準は、会社と事務的なことを話す時に何も言わず付き合ってくれる。特に首を突っ込むでもなく、問題が無いかひとつふたつ質問を投げたりするくらいだが、充分過ぎるほど心強い。おまけに一番最初に商品を渡すことと引き替えに広告塔まで引き受けてくれるのだから頭が上がらない。気づかないフリ程度ならしてやってもいいくらいではあるけれど、付いて来たそうだったのにばっさり「アナタが来て何か役に立ちますか?」と切り捨てられて苦笑するアレンがさすがにかわいそうだった。
今日は朝からずっとそんな調子だ。夏準も懸命にいつも通りを心がけているのは感じるのだが、アレンが近づけば体の向きを変え、何か話し出そうとすれば用事を思い出し。もちろん何も言わなくたってアンがそんなことを考えているのは分かっているはずだ。夏準はブラインドの向こうを無表情に眺めたまま額に軽く指先を当てた。
「自省しています」
「え?」
「完全にボクが目測を見誤っていました」
「はあ……そうなんだ? 明日にはブタが空飛んでそうだね」
もしくは地獄が凍り付くとか空から槍が振ってくるとか、まあとにかく思いもしない言葉に呆気に取られた。未だに詳しくはよく分かっていないけれど、アレンがたまにやるコミュニケーションの失敗で怒り心頭なのかと思っていたのだが。夏準は珍しく自分が悪いと思っているらしい。
「それがどうして僕のベッドに潜り込んでくることになるわけ」
「そうするしかなかったからです」
「うーん……全然分かんない」
パーティションからぎょっとした顔の人が頭を出してきて驚いてしまった。その向こうに居る人に頭を引っ叩かれてすぐに見えなくなったが一体何だったのか。いつかカフェテリアで夏準と居た時もやたら見られていた気がする。幸い、夏準は「自省」に忙しいのか全く気付いていない。やっぱり次はアレンも必要だと提案しよう。三人でわいわいやっていたら人目なんて気にする暇なんて無い。一秒だって惜しい。
「多分さあ、夏準は難しく考えすぎだよ」
眉根を少し寄せた夏準の目がようやくこちらを向いたので緩く笑みを傾ける。悪く言いたいわけじゃないことを伝えたかった。
「それがいいところでもあるけど、僕たちのことはもっとシンプルに信じてよ」
寄っていた眉根ほどけたが、あまり納得している表情には見えない。しばらくアンの顔をじろじろ眺め、夏準は額に触れていた指先をアンの方へ開いて見せた。
「シンプル、が一番難しいのでは? デザインの上でも」
「うっ、まあ……それはそうだけど……」
さすが夏準、こんな時でも痛いところを突いてくる。好きなものをありったけ詰め込んだデザインも悪くはないし、たまにはそういうスタイルを選ぶ時もあるが、特にステージ衣装なんかは着せる相手や曲との組み合わせで考える必要がある。場合によってはもっと要素を減らして、一点で見る人に訴えかけるデザインがどうしてもしたくなったりもする。そこで何を選んでどう見せるかはいつも苦しい選択だ。それが楽しくてたまらないところでもあるけれど。
「んー……でも、言ったでしょ? 夏準は何でも似合うって。好きなだけ足したり引いたりできるってことだよ」
考えながら口を動かしてなんとか見つけた言葉だったが、思わぬ掘り出し物を探り当てた気がする。嬉しくなって少し身を乗り出した。極端な話、夏準なら布一枚巻いてもファッションと言い張れそうだし、夏準らしい世界に染められそうな気がする。想像するとおかしくてちょっと笑ってしまった。
「ファッションとかライフスタイルで言うなら、自分がいいと思えるか。それだけじゃない?」
いつの間にかいい感じの結論に辿りついてしまった。指を一本立ててウインクすると、こちらをただ眺めていた夏準の顔にとうとう笑みが滲んだ。降参するように組んだ腕が解かれる。
「アンは本当に単純で羨ましいです」
「せめてシンプルって言ってよ!」
少しはいつもの調子に戻ってきたようだ。だが、余裕のある笑みを口元に滲ませた夏準はまたブラインドに目を向けた。少し目が伏せられて目元に睫毛の影が落ちる。
「時間が欲しいです。少し」
何も飾らない、何かを決めつけさせない、シンプルな呟き。
夏準ももしかしたらアレンに何かを見つけて、一から始めようとしているのかもしれない。それなら嬉しいし、そしてやっぱりちょっと羨ましい。「そっか」、思う以上に柔らかい声が出ていた。テーブルに乗せられた夏準の左手に触れる。
「ゆっくりでいいと思うよ。夏準のペースでさ」
瞬きひとつ、それから夕陽になぞられた顔がゆっくりとこちらに向けられた。重ねられた手に視線が落ちて、最後に夏準はアンの好きな種類の笑みを微かに浮かべた。