ビルの木々が鬱蒼と生え茂るシュテルンビルトの中で、ぽっかりと公園の面積分の空がキースを見下ろしている。軽い水音を重ね合わせて噴水が夕方の公園に提供するのは静寂だ。薄い雲が夕日から夜空にかけてのグラデーションに染められているのをいつものように観察しつつ、時折退屈そうなジョンの相手をする。
そうしていると、あまり間を置かずにすっかり見慣れた影が公園に入ってくる。だが、お互い気づいているはずなのにまだ声はかけない。無言でバーナビーがキースの隣に座って、それから初めてキースは彼に――バーナビーに挨拶をする。同じことを繰り返している内に、いつの間にかそれがルールになってしまった。
「やあ!」
「今日も待ちぼうけですか?」
「うん。おかげで今日も楽しい時間を過ごせているよ」
退屈にほんの少しだけ変化を見出したソウルメイトは、のそりと身を起こしてバーナビーに近づく。職業上毎日というわけにはいかないが、タイミングが合う度こうして顔を合わせる彼にジョンもすっかり慣れていた。頭を撫でてやっているバーナビーの表情は柔らかい。昔、犬を飼ってみたいと駄々をこねて両親を困らせたことがあるらしい。その表情を見るたび、この場所で聞いたその話を思い出す。
あまり長い時間ではない。日没までの間、何をするでもなくこうやって横に並んでいる。
「そう言えば」
「うん?」
「どんな人なんですか?」
「えっ、誰がだい?」
「貴方の待ち人ですよ」
「あれ?もう言っていなかったかな。随分前に聞かれたような……あれはファイヤー君たちだったかな……」
「……聞いてませんよ。聞く気にならなかったんです」
バーナビーが少し苦い表情で何かを囁いたが、噴水の水音がそれを拾わせてくれなかった。大抵こういう時、バーナビーが言葉を繰り返してくれることはない。諦めきれずバーナビーを見つめていたのだが、ついにはキースが折れて口を開いた。彼にキースの恩人について話したくて仕方なかったということもある。キースがバーナビーのさり気なく零す話を何度も思い返すように、キースもバーナビーに何かを伝えたいのだと思う。
「笑わないで聞いてくれると嬉しいんだが……」
彼女との出会いと、かけてくれた言葉と、その容姿や声色まで。キースが持っている言葉の限りを尽くしても、ほんの数分で話は終わってしまう。それはやっぱり少し寂しいことだ。名前ぐらいは聞いておけば良かったのにね、自嘲気味にバーナビーに笑みを向ける。バーナビーはじっとキースを見つめていた。笑うでもなく、呆れるでもなく、ただ食い入るようにキースを夕日に染まったグリーンの中に収めている。
「バーナビー君?」
「『彼女』に会えなくなったのはいつ頃からですか?」
「いつ頃?そうだな……少し恥ずかしい話だが、一年以上はこうして待っているよ」
虎徹やバーナビーがヒーローを一度引退するよりも前の話だから、確実に一年は経過しているだろう。何か具体的な日付けを思い出せるきっかけを求めて記憶の中を彷徨い、彼女を見なくなった日の直前の事件を思い出す。アンドロイドが暴走し、その場に居合わせたタイガー&バーナビーに苦戦を強いていた。パトロール中に通りがかったスカイハイも加わり、なんとかそれを撃破することができた。
「ロトワングも逃がしてしまったし、アンドロイドも粉々にしてしまったから、あの時何か掴めていれば……いや、事件はもう解決し、彼女のおかげで私も立ち直ることができた。こぼれたミルクにあれこれ言うのは……」
バーナビーの顔色が明らかに変わっている。驚いたような、迷うような、傷ついたような、不思議な感情が端正の顔の中で混ざり合っている。動転し、咄嗟に腕を掴んでそれを覗き込んだ。一体どうしたんだいと問えば、バーナビーは辛そうに口を開いた。
「好きになってください」
言って、またパッと顔色が変わる。目が覚めたかのような呆然とした表情だ。キースが戸惑うことしかできずにいると、バーナビーは取り繕うように眼鏡のブリッジを押し上げた。顔がふいと逸らされる。
「……何を?」
「忘れてください」
「だが……」
「なんでもありません。忘れてください」
「う、うん」
強い語気に押され、それ以上何も聞けなくなってしまう。バーナビーが身じろぐので掴んでいた腕からも手を離した。その手をどうするか迷って、ジョンの頭の上に置く。またバーナビーにあんな表情をさせ、急に静かになってしまった。ぼんやりと見上げる空は紺色の強いグラデーションに変わっている。遠くに金星が輝いて見えた。もうすぐ夜が来てしまう。
「バーナビー君」
「……なんですか?」
「退屈かい?」
キースに視線を戻したバーナビーの表情は不服げなものだった。実は何度かこのやりとりは繰り返されていて、つまらないところに何度も自分から足を運ぶ趣味はありません、とすげなく返されるのが常だ。
「お気遣いなく。毎日慌ただしいので、こんな時間も必要だと思っていますよ」
「だが……」
「逆にお聞きしますが、邪魔になってますか?確かに本来、ここに座るのは僕じゃありませんし」
「そんなことはない!そしてありえない!」
彼女を待つたった一人の権利を、このベンチの上でキースは満喫しているはずだった。しかしバーナビーが公園に現れ、無言で隣に座ってくれた時に安堵している自分に気がつく。彼女を待つことを苦だと思ったことはない。むしろ幸せだ。でもそれはやはり寂しさとうらはらだったのだと思う。あの日、ロッカールームで抱き返したバーナビーはとてもあたたかかだった。
「ただね……私が退屈だと思い始めたんだ。変な話だろう?私は好きでここに居るのに」
バーナビーとどんなことを話して、どんな言葉が聞けるだろうといつも楽しみに散歩に出て、彼女のための花束を買い彼女を待つ。なんだかすっかりおかしなことになった。だが、キースの言葉でバーナビーの表情や返事がゆるやかに変わったり増えたりするのは新鮮で、もっと見たい知りたいと思う気持ちは止まない。キースの中にもうひとつ、キースでない何かが生まれたような気分だ。
「せっかく今、君が居る。なのに何もせず座っているだけだなんて、ひどく損した気分なんだ」
現場でもトレーニングセンターでもベンチでもなく、もっと別の場所で、別のことを一緒にやったらバーナビーはどんな反応をするだろう。特にここでは苦しげな表情ばかり見ている気がして、そう思い至った途端に立ち上がりたくなった。
「お腹が空いたな。先約が無ければディナーでもどうだい?君の好きなものを知りたい」
立ち上がって見下ろすグリーンは、ぽかんとキースを見上げている。普段は見ない油断だらけの表情が少し愉快だ。よく見るために覗き込もうとしたが、バーナビーがキースに続いて立ち上がると表情はもう引き締められてしまっていた。並べばほんの少しだけバーナビーの目線が高い。
「分かってはいますけど、貴方のそういうところ、悪い面でもありますよ」
「えっ、それは失礼した!そして申し訳ない!しかしそれは……つまり……すまない、次から気をつけるから、どういうところか教えてくれないかい?」
「教えません。絶対に」
確かに、自分の短所は自分で気づいてこそ意味がある。真剣に自分の胸に手を当てて考えている隙に、ジョンのリードを奪われてしまった。ジョンと一緒に入れて、薔薇がしおれないように食事を終えられる場所なんてたくさんはありません、と指摘されて嬉しくなる。今だけは考え込んでいたことをすっかり放り投げて喜んでも構わないだろうか。
「……僕は嫌いになる方法を知りたいですよ」
「ならば食べながら一緒に考えようか。きっと何かいい案が浮かぶさ、きっとね!」
「分かってるんですか。分かってないんですか。……全く」
「えっ?」
「しばらくは、考えつかなくてもいいです」
呆れた声だが、表情は柔らかく優しい。今日また新しく、夜空の下でその笑みを目に映せたことがひどく幸運に思える。
きっとキースは明日も、明後日も、出動が重ならない限りはこの場所に通うだろう。キースの中で彼女に対するこの気持ちはまだまだ終わらないでいる。ただ、バーナビーがどうすれば笑い、どうすれば喜び、どうすれば幸せな気持ちになってくれるか、このベンチでキースはいつも考えているのだ。キースの中に生まれたこの新しい生き物には多分、今まで見たこともない素敵な名前がついている。
「行こうか」
「はい」
返事と足音が続くのが嬉しくて、その名前を探すように大きな一歩を踏み出した。
(2012-07-01)
5:うまく育てると愛に進化するらしい