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contrail (パラレル)



※ パイロット兎空

 シュテルンビルトはヤミナベだ、と昔先輩に当たる同僚が言っているのを聞いたことがある。残念ながらヤミナベがどういうものかは未だに分からないが、様々な人種や民族が集う様を例えたものだと言う。それはこの街に住む人間の誰にとっても常識であり、日常に違いない。しかしそれを最も色濃く実感できるのは、日々大量に多種多様の人間をこの地へ迎え入れ、送り出しているこの場所ではないだろうか。

 大きな荷物をよろよろと運んでいた婦人をサービスカウンターまで送り届け、手を振って別れる。リュックサックの重みに転倒してしまった少年を擦れ違い様に助け起こし、拙いお礼に笑顔を返した。ターミナルは早朝から人で溢れている。到着ロビー、出発ロビーの階層を全てを打ち抜いた吹き抜けの向こうを見上げた。アーケード状に曲線を作るガラス面のひとつひとつに朝陽に滲むスカイブルーが映っている。予報通りの良い天気だ。人々のざわめきや雑踏がその天井にまで舞い上がってはにぎやかに反響する。時計を確認し、少し余裕のあることを確認した。

「ハーイ!キャプテン、今日も早いのね」
「でも、君には敵わないよ」

 スタンドに立ち寄ると、若い女性が笑顔でレモネード入りのカップを差し出してくる。店員ではない。ひとつの皺もない白いシャツと黒いタイトスカート、それからアクセントのスカーフ。その制服が彼女がスタンドの店員でないことを示しているのはもちろんだが、何より同僚そして同業者だ。金髪を後方でまとめた女性――カリーナは、その返事に満足したように頷いた。

「当たり前よ、私を誰だと思ってるの?天下のブルーローズなんだから」

 『ブルーローズ』は、この国第一の航空会社OBCエアラインが独自に設定している称号だ。一年に一度、優秀なキャビンアテンダントに贈られる。確かに彼女は今まで同乗した数知れぬクルーの中でも抜きん出て優秀だ。今期、定期便でこうして同乗できることになったのは幸運と言うべきものだろう。しかしながら、こうやって早朝に顔を合わせるのは実のところ珍しいのだ。所定の時刻は昼前である。カップの縁に口を付けつつ、ううんと唸った。

「ああ!そう言えば……今日の朝一のフライトは新人機長だったかな。だから『彼』が特別に同乗しているって話だったような……」
「もう!アンタ私の話聞いてた!?仕事よ!仕事するために早く来てるの!」

 和やかに会話に応じていたはずのブルーローズ――カリーナは、ヒールをカツカツと反響させながら瞬く間に去って行ってしまった。しばらくぽかんと小さく口を開いて見送っていたが、いつまでもそうしていたって仕方ない。レモネードを飲み干してカップをくずカゴに放り、人の流れとは離れるように歩き出した。時折ガラスの壁で並んで歩いている自分を観察し、身なりの最終チェックだ。黒いスーツに、黄金の肩章は4本。シャツにもネクタイにも乱れは無い。手にはキャップと白い手袋。この仕事で最も重要な工程はこの「確認」である。それが毎日の生活にも染み付いている。

 コントロールセンターのゲートを通過し、ディスパッチルームに入る。既に多くのディスパッチャーたちが忙しそうに画面や空路図と睨み合っている。その邪魔にならぬよう、それでも笑顔と挨拶を振りまきながら壁面のホワイトボードの前に立った。一日のフライト予定や各地の気象予測が隙間無く張り出されている。

「失礼ですが、グッドマンさんですか?」

 普段、このタイミングで声がかかることは少ない。ショウアップまでにはまだ二時間弱はある。食い入って眺めていた気象予報から目を離し振り返ると、爽やかな笑顔がやや目線より上に待ち構えていた。

「いかにも。私がキース・グッドマンさ」
「よかった。早めにいらっしゃると聞いていたので。僕は――」
「君か!今日のコ・パイは!」

 何故だか目を丸めてしまった青年の腕を強引に取り上げて握手をする。戸惑った様子ではあったが、長髪のアッシュブロンドをカールさせた青年は手を握り返してくれた。

 今までこの定期便でコ・パイとして右席に乗っていたイワンが機長昇格研修を受けることになった。それはめでたいことだが、調整がうまくいかないらしく欠員がすぐに埋まらないままだったのだ。機長二人体勢でのフライトも有り得るかと思っていたが、向かい合う青年の肩章は3本だけ巻かれている。

「あまり見ない顔……いや、どこかで……?」
「名前ぐらいは言わせてください。バーナビー・ブルックスJr.です。今日はよろしくお願いします」
「バーナビー君!あの時のバーナビー君かい!?」
「良かった。覚えていてくれたんですね。お久しぶりです」

 バーナビーは苦笑と微笑の中間程度で表情を留めて笑った。キースの大声が気になったのか、作業中のディスパッチャーたちが数人丸い目を向けてきている。しかし構っていられなかった。数年前のことがつい昨日のように思い出される。

「キャプテン!」

 思い出話に操縦桿を傾けようとしたところで、ディスパッチルームに軽やかな声が飛び込んだ。ツナギ姿の女性がヘルメットを片手に駆け寄ってくる。整備士がディスパッチルームに入ってくることはあまり無いが、ライン整備主任のパオリンは常連なので誰も気に留めない。満面の笑みが眼前で停止した。

「今日は全体的にフライトが少ないから、早めにラインが終わっちゃったんだ!ショウアップの前に一度軽く見てったら?」
「素晴らしい!実に素晴らしいぞ、パオリン君!やはりこの便のクルーは世界一だね!」

 油や煤で汚れたツナギをゴシゴシと擦りながらパオリンは照れ笑いを浮かべている。それからその笑顔をバーナビーに向け、手を差し出そうとして、汚れてるかもと服で手を拭った。

「新しいコ・パイさんだね!よろしく!」

 まるで幼い少女のような屈託の無い笑顔に、バーナビーの表情も柔らかくなる。それを見て今日のフライトには少しの不安も無くなった。バーナビーは一流のパイロットとして確実に成長しているのだ。

 オリエンタル訓練所は、車で一時間ほど走らせてやっと辿り着く最寄にオリエンタルタウンを有しているというだけで名づけられた通称だ。監獄か軍事基地かと若い訓練生にはすこぶる不評の訓練所だが、それは彼らが苦しい試験を何度もパスしなければ実技研修に移れないからだ。一度空を飛べばすぐに分かる。山と海に囲まれたこの訓練所から飛び立てば絶景が眼下に広がっている。

 しかし、機長昇格の実技試験のために初めてオリエンタル訓練所に訪れた時は、そんなことを考える余裕は無かった。緊張していたのだ。今思えば副操縦士試験を受けた時よりも緊張していたかもしれない。そのぐらい、機長としての自立は念願のことだった。訓練所の食堂で精神を落ち着けようと深呼吸を繰り返していた。

 ――ダン!

 昼時をとうに過ぎ、人の居ない食堂に大きな音が響く。隅の席で目を閉じていたのが、何事かと立ち上がってしまった。その椅子を引く音は、テーブルに両拳を打ち降ろした音源の人間を更に驚かせてしまったようだ。人が居るとは思っていなかったらしい。白い半袖シャツに肩章は無く、社章のタイピンがついているだけだ。OBCのパイロット養成コースの訓練生だろう。いつかの後輩ということになろうか。

「あ……」

 咄嗟に何も浮かばなかったのか、半開きになった口からは言葉以前の音素しか出てきていない。安心させるように笑顔を作り、訓練生の居るテーブルまで歩み寄った。

「テーブルが何か悪いことでもしたのかな?」
「は?」
「両手で殴りつけるなんて君を相当怒らせたみたいだ」

 しばらく言葉の意味を本気で理解できなかったようで、訓練生は神妙な表情を浮かべている。しかしこちらも一体どこに言葉の不足があったのか分からず、戸惑うことしかできなかった。訓練生の表情は少しずつ変化し、最終的に肩透かしをくらったかのような呆れた表情に落ち着いたようだ。

「いえ……これは、ただの八つ当たりです。お見苦しいところを失礼しました」
「君、研修は……」
「……たった今ソロフライトを終えたところです」

 ソロフライト、その言葉を聞いただけで心が浮き立つ。自分の訓練生時代を思い出した。養成コースではなく航空学校に進んでいたので、随分若くにソロフライトを経験したせいもあり、初めて自分一人で小型機を飛ばすというのは否応も無く興奮したものだ。

「どうだった?最高だっただろう!」
「だったらさっきみたいなことしていませんよ」

 しかし訓練生の返事はひどく硬い。先ほどの力に任せた行動を思えば、ソロフライトを楽しめた様子は確かに窺えない。少し迂闊なことを聞いてしまっただろうか。うつむく険しい顔を覗き込んだ。

「何か……問題でも?」
「何もありませんでした。離陸から着陸まで完璧だったはずだ。なのにあの人は!」

 あの人、突然出てきた指示語だが心当たりがある。つい最近まで様々な意味で有名機長として名を馳せていた男がこのオリエンタル訓練所には居る。試験に緊張さえしていなければ彼に会えることを真っ先の楽しみにしていただろう。

「ひょっとしてヤミナベ君……ああ失礼、鏑木虎徹教官かな」
「そうです!数ミリのズレ『も無いから』不合格、再研修だなんて!納得できない!何を考えてるんだあのオジサンは!」

 今度は殴りはしなかったが、テーブルの上で丸められた両拳は力が余って震えている。訓練生の言葉を自分なりに咀嚼してみる。かつてはコ・パイとして彼の右に座った時のことを懐かしく思い出した。ああ、確かに言いそうだ、彼なら。

「僕は……一日でも早くパイロットにならなければならないんだ……!こんなところで……!」

 パイロットに必要な物は技術だ。けれど、実際にコクピットに座っていると、そればかりでないことに気づく。

「君はどうしてパイロットになりたいんだい?」

 話す気分ではないのか、もしかすると話せない何かがあるのか、訓練生は沈黙を守っている。返事を待たずに言葉を繋げた。

「私はね……恐らく前世が鳥だったからじゃないかと思うんだ」
「……はあ?」
「もしくは、違う世界で自由に空を飛んだりしているはずだ。うん、間違いない。そして間違いないぞ!」
「はあ……」
「私は、とにかく空を飛びたかった!でも私に羽は無いから、一番近いところにいる人間になろうとしたんだ」

 思わず顔を上げた訓練生に、してやったりと笑顔を作る。眼鏡越しのグリーンの瞳は怪訝げに細い。パイロットになるために課せられる試験や試練は数が知れない。視力のたった一点にしたって大きなハンデだっただろうに、彼の技能の高さが窺えた。

「それなら、宇宙飛行士にでもなればよかったのでは……」
「なるほど!それは考えたことがなかったね!それも楽しそうだ!」

 何かおかしな返事をしてしまっただろうか、またも訓練生の表情が呆れで脱力している気がする。少しは彼の肩の力を抜く手助けができただろうか。呆れられても、笑われてもいいのだ。その隙間に、本当に伝えたいことが染み込めばいい。

「でも今は、たくさんのお客さんの命と笑顔を運ぶ責任を負いたい、そう思っているんだ」

 時計を確認する。そろそろ滑走路へ出て機体のチェックをしておいた方がいい。天気に変化も無さそうだから、予定通りに試験は始まるだろう。訓練生の片方の拳を強引に持ち上げ、包み込むように無理やり握手もどきを成立させる。

「私は教官じゃないし……彼が何を考えているかは分からない。でもきっと、君に色々なことを考えてほしいからそうしたんだと思う」

 実を言うとね、私も今から昇格試験なんだ。と、手を放して敬礼を作ってみせる。訓練生の反応は鈍いがもう呆れた表情はしていなかった。

「緊張していたけど君と話したおかげで楽になったよ!ありがとう!そしてありがとう!ええと……」
「バーナビー。バーナビー・ブルックスJr.です」
「バーナビー君!いつか君と空を飛べる日を楽しみにしているよ!」
「……それはまず、貴方が機長になれてからの話でしょう」

 ここに来て初めて会話が成立したような気分になって思わず笑顔が浮かんだ。本当にバーナビーには救われたのだ。何故自分がここに居て、それを実現するためにはどうしなければならないかを再確認できた。自分の言葉も、彼にとってそうであればいいと願って食堂を飛び出した。

「まさか本当に実現するとは思いませんでした」
「一日何十本と便があるからね!私も驚いた、そしてびっくりだ!」

 本格的な機外点検はショウアップの後にもう一度行うので、エンジンやギア、翼の様子を軽く確認して滑走路を歩いていく。太陽の角度が次第に地上と開いている。雲も無く絶好のフライト日和だ。

「あの時はあんなにとぼけた貴方が『スカイハイ』だなんて呼ばれる有名人だとも知りませんでした」
「誰が考えたかは分からないが、学生時代に勝手に呼ばれていただけさ」
「でも、おかげでいい目標にはなりました。それを越えればいいんだって」

 エンジンに手を当てた姿勢のまま振り返る。口元の曲線は好戦的に角度だ。それを咎めるべきだと分かっているのに、バーナビーの視線の先に居ることを不思議と嬉しく感じだ。つい苦笑が浮かぶ。

「越えても先にあるのは空だけだ。限界は空高くに、ってね」
「分かってますよ。僕個人の目標とフライトは関係ありません。乗客の安全と笑顔が第一ですから」

 数年前の自分の言葉をなぞられたようで妙にくすぐったい。マッハで機体の後方へ流れ去っていくようなたった一度の邂逅だったのに、不思議と鮮明な線を持った縁だと思う。まるで飛行機雲のようだ。

「一周、しましたね」
「ああ、新調したばかりの本当にいい機体だ!整備も一流そして最上級さ!」

 船首で待ち構えていたパオリンとハイタッチをしてから、片手のキャプテンキャップを両手で抱える。日の光を遮るように目深に被った。ひとつ息を吸えば、キース・グッドマンという人間は機長という生物に毎度生まれ変わる。

「それじゃあ行こうか、バーナビー。まずはショウアップだ」

 一瞬目を丸めたバーナビーも、自信と緊張を漲らせた笑みを浮かべた。今日は――いや今日も、OBCエアラインは乗客に最高のフライトを提供することだろう。

「はい、キャプテン」

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