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恋ってやつは



「はあ……」

 バーナビーは憂鬱に深いため息を吐き出した。デスクに頬杖を付き、前髪を乱暴に掻き分ける。明らかに隣のデスクから視線が送られているが、とにかく肺の底に重く滞留する空気を吐き出してしまいたかった。

「あのさあ……」
「虎徹さんへのため息じゃありませんよ」
「っだ、そりゃー分かってるよ」

 アイパッチを外せばたちまち鈍感の代名詞として名を馳せる虎徹でも、あの場に同席すればさすがに大体の事情を察してしまったようだ。

「反省中なので放っておいてください」
「それってスカイハイのことか?それとも窓?」
「……窓のことはすみませんでした」
「いや……謝ってほしいわけじゃねんだけど……」

 ベンさんに泣きついてなんとかなったし、という虎徹の呟きに益々気分が重くなる。これからは壊し屋バーナビーとでも名乗らなければならないのだろうか。あそこであの部屋のしかも窓から飛び出すつもりなど無かったのに、体が勝手に動いていた。自分でも制御しきれない感情に振り回される暗い二十数年のクセが抜け切っていないようで、そんな自分に嫌気が差す。

「聞いてもいいよな?」

 虎徹が声をひそめつつ身を乗り出してきた。おまけとして肩や背を軽く叩かれる。虎徹なりの励ましなのだろう。虎徹自身はきっと意識していない、彼自身にとっては当然の行動がバーナビーには途方も無く有り難い時がある。それを素直に受け取れるようになれば尚更そう思う。暗い考えはさっさと切り捨て、なんとも言いがたい表情と視線を合わせた。

「つまり……えーっと……好きなのか?」

 虎徹が知っている情報を組み合わせれば、自然とそういう結論になるだろう。しかしバーナビーはそれに素直に頷けなかった。分からない、の他に答えが見つからない。

「僕は別に……あの人に何か求めているわけでもないんです」
「でも、したんだろ?アレ……」

 虎徹が不審げな経理の目から隠れるようにして、両手の人差し指同士を合わせて見せた。子供のような稚拙な表現が却ってバーナビーの記憶を鮮明に蘇らせる。思わず目を逸らしてしまった。虎徹の視線に軽蔑の色が無いことだけが救いだ。それ以前に虎徹の理解が事態に追いつけていないのだろうが。

「僕にももうわけが分かりませんよ。お手上げです。だから嫌なんだ。きれいさっぱり何もかも捨ててしまいたいですね」
「お、おい落ち着け……」
「僕は落ち着いてます」

 バーナビーは至っていつも通りだ。そこに嘘はない、と自分では思っている。しかしバーナビーの中には歪で不恰好な生き物が生息していて、そいつが何故だかキースの名を呟いては、バーナビーを乱雑に操作しているのだ。そいつの強制力は日に日に大きくなっているように思えた。昔虎徹が部屋に持ち込んできたB級パニック映画を漠然と思い出す。

「なんであの人なんですか……」
「それはこっちが聞きたいぜ……」

 夕日と噴水の光を受け、世界を実際の何割か増しで輝かせて映すスカイブルーの瞳を思い描いた。その中には確かにバーナビーが映っていた。けれどその瞳の向こうの世界にもバーナビーは存在していたのだろうか。

「ただ腹が立ったんです。あの人が嘘つきだと思ったから」
「嘘つきぃ?あいつが?」
「正直な人ですよ。でも、嘘つきだ」
「……どゆこと?」
「僕だけが覚えておきたいと思っていたんだ。あの人がそう思わなくても」

 一年前、シュテルンビルトを離れる前に、キースはあの瞳をバーナビーに向け、忘れないでいたいと言った。だが彼が現れない待ち人を楽しげに待ち続けていると聞いて、勝手に裏切られたような気分になった。彼の言葉に嘘があったわけじゃないのに。

「よくは分かんねえけど、要はスカイハイにも悪いとこがあるってこと、か?まああいつ、ちょっと変わってるからなあ……」
「いえ、あちらに落ち度は無いんです。僕がただ、」
「いいからもうちょっとちゃんと話してみろって。な?スカイハイもこのままじゃ落ち着かないだろ?だいぶ混乱してたぜーありゃあ」

 キースにしてみれば、バーナビーの行動は理解し難いものばかりだっただろう。何にせよ納得のいく説明が必要なことは間違いない。逃げ続けることは性格上できない。キースだって有耶無耶のままで素通りはしてくれないだろう。そしてバーナビーは、そこで彼に素通りされればきっと傷つくのだと思う。
 だが、バーナビー自身にもよく分からない生き物に腹を食い破らせなければならないのだ。誰だってそんな状況になれば躊躇うものだろう。咄嗟に虎徹の腕を強く掴んだ。

「え?ちょっとなに、どした?」
「……一緒に来てください」

 当然のことながら渾身の説得を受け、バーナビーは一人、トレーニングセンターへ向かっていた。半分は冗談だったのだが、どうやらうまく伝わらなかったらしい。いつもより数倍は優雅になってしまっている歩調を自覚しつつ、誰にともなく心の中で言い訳をする。

「バーナビー君」

 後ろから突然声がかかって、動揺で肩が跳ねたかもしれない。気づかれていないことを祈りつつゆっくりと踵を返す。笑顔という文字が、明るい印象の容姿とトレーニングウェアを纏って待ち構えていた。キースはいつでもヒーローたちの中で最も長くトレーニングセンターに居座っている。居なければ少し待てばいいと思っていたが、センターに入る前の廊下で早くも顔を合わせることになったらしい。気負っていたのに、随分呆気ないものだ。爽やかな笑顔をぼうっと見つめるだけのバーナビーを、キースはゆっくりと追い越した。

「待っていたんだよ」

 おいで、と手招いてキースはロッカールームのドアの前に立つ。ここに、とベンチに促されたので素直に従った。幸いにもロッカールームに人影はない。不思議と体の中の「何か」は静かに眠っている。目の前にキースが居ることに満足しているとでも言いたいのか。我ながら恥ずかしいことを考えている。

「……なんだか僕、格好が悪いですね」
「君はいつでもハンサムなスーパーヒーロー、バーナビー・ブルックスJr.だろう?そんなことないさ」
「貴方から見れば、という話ですよ。僕がハンサムなのはもう知ってます」
「私も同じ意見さ。バーナビー君のことを誰よりも知ってる君が言っているなら、尚更疑いようもないことだ」

 バーナビーが思わず笑うと、キースも嬉しげに微笑んだ。なんだかその連鎖がくすぐったい。そう言えばキースとはこんな風に話していたのだったか――復帰してからずっと慌しい日々の連続で忘れていた。

「この前はすまなかった。そしてすまない」
「この前もそうですが、何故貴方が謝るんですか」
「よくあるんだ。慎重に考えているつもりが、周囲や相手を呆れさせたり、時には迷惑になったりする。どうにか改善したいといつも考えているんだが……」
「元はと言えば僕がしたことが発端になっているんです。貴方が気に病むことじゃない」

 なんとなく会話が途切れ、ロッカールームに静寂が充満した。言うべきことを口にしていないだろうと沈黙に責め立てられている気分だ。きっとこれは、バーナビーが謝ればなんとなく解消されていく沈黙なのだろう。けれどバーナビーに結局そうする気は無いのだ。捨てたいだとか売り払いたいだとか言ってみても、諦めることはやはりできないでいる。

「そもそも、貴方は僕がしたことの意味も分かっていないんでしょう?」
「うん……すまない」
「謝ることじゃありませんよ。僕にもお手上げなんです。でも多分、こう言いたくて……失敗して。あんなことをしたんだと思います」

 キースは不思議そうな表情でバーナビーを覗き込んでいる。曇りのないスカイブルーの中央に居るのはバーナビーだ。今更になってキースが目の前に居るという事実が体中に染み入る。「何か」は、乱暴にバーナビーの腹を食い破るのではなく、思いのほか緩やかに手足の先にまで巡って溶けていった。

「……僕は貴方を忘れないでいたいし、貴方には僕を覚えていてほしいって」

 ――そうか、僕は貴方にも同じように思っていてほしかったんだ。

 ただ体温と感触を求めて、許可も得ずにキースを抱き締めた。トレーニング前だったのか汗のにおいはせず、わずかにシャボンの香りがした。あたたかい。驚いたのだろう、キースは少しだけ体を硬直させていたが、すぐにバーナビーの背に腕を回した。それだけのことに妙に満たされる。

「……どうしたらいいんでしょうね」
「……どうしようか」

 笑えるくらい途方に暮れた声に返事があるだけで、妙に目元を熱く感じる。この人は嘘つきだけど正直者だ。

「ひとまず、こうしていよう」

 確かに、「これ」は、こんなに強い力でバーナビーの中に浸透している。

(2012-06-28)
4:勝手に大きくなるのを止められないらしい

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