End in a draw!
アレンもアンもバイトに出払っている、珍しく静かな夜だった。ベッドの上、ぼんやりと暗闇を眺めている。ほんの数時間の静寂にも違和感を覚えるようになってしまっている自分が少し笑える。目を閉じて深く息を吸った。そしてまた吐く。きっと二人と居るだけで消費されるカロリーがあるに違いない。騒がしくて、突飛で、夏準の予想の中に収まってくれない二人。口元が少し緩む。ようやく、眠気の裾をなんとか掴めそうだった。
ガチャリ。しかし何の遠慮も無いドアの音に意識が急に引き揚げられてしまった。廊下のライトが突き刺す光が瞼を押し上げる。しかし、ドアがバタリとまた加減のない音で閉ざされ、暗転した視界では何も捉えられなくなった。目を瞬く。
「アレン?」
一瞬見えた姿は確かにアレンだったはず。ぞんざいそうに見えてその辺りのマナーは身についているアレンだが、「HIPHOPが絡まらなければ」という注釈が必要だ。帰り道でいいメロディでも浮かんだのかと思ったが──返事がない。
ぺたぺた、床を踏む音が近づいてくる。スリッパを履いていないらしい。少し体を起こしてベッドサイドライトに手を伸ばそうとして、その隙間に体が滑り込んでくるほうが早かった。「何を」、思わず声が出ても、やっぱりすぐに答えはない。すりすりシーツと布団を滑って体が密着してくる。肩が浮いているのをいいことに腕が回って抱き寄せられた。シャンプーの匂い、乾ききっていない少し湿った髪の毛の感触が触れる。
「夏準」
低い囁き声。今日のような薄暗がりでしか聞かない響きに、良くない感覚が背を撫でた。それを無理やり無視して怒りに意識を寄せる。
「アレン」
「ん?」
「臭いです」
暗がりの中でアレンの肩が揺れ、陽気な忍び笑いの振動が伝わってきた。首筋を危うくくすぐる吐息には明らかに酒の匂いが混じっている。それもかなりの。
「夏準」
とにかく吐息がかからない距離に逃れようと身じろぐ夏準の体に、アレンはめげずに擦り寄ってくる。普段なら照れが先にきて夏準からちょっかいをかけて近づいているところなのに、それなりに広いベッドの壁際に追いやられた。これだからこの男に深酒させたくない。
「起きてて良かった」
「起こされたんです」
「起こせて良かった。顔、見たかったから」
「……まともに見えてないでしょう。一旦離れてく」
言葉が最後まで続かなかったのは唇が重ねられたせいだ。強いアルコールの匂いに顔をしかめると、それが分かっているかのように眉根に唇が付く。額、瞼、鼻先、そしてまた唇。
「これで分かるから大丈夫」
「……何を言っているんですか?」
ふは、心底おかしそうに吐息が漏れ、部屋に漂って揺れる。陽気な音の波。まともに不機嫌を維持するのが馬鹿馬鹿しい。溜息をひとつ返してやる。
「飲みましたね?」
「うん。代わりに飲んだら盛り上がっちゃってさ。飲まされてたひと、どうかな、余計だったかも。アンにそれはこっちでうまくやるんだからって、馬鹿だって言われたけど。俺、お客さん怒らせてアンたちに迷惑かけるかもと思ってたから、それはよかった」
どうも要領を得ないが、バイト先について自分からまたからかわれる隙を提供していることは間違いない。事前に情報を得られなかったことだけは残念だが、その場に居合わせたかったかというと正直なところ微妙だ。お人好しを発揮するところをうまくかわしてやれた気もするし、多少面白くない気持ちになったかもしれないとも思う。
「臭いので眠れません。自分の部屋で寝てください」
「いやだ」
やむを得ず体を壁に向けようとした肩を押さえられてしまった。暗闇の中、アレンのぼけた輪郭がこちらを覗き込んでいるのが分かる。
「寝たくない」
「はあ?」
「夏準」
また低く名前を呼ばれ、今度こそ体の向きを変えようとするが、その抵抗を唇で封じられた。引き結ぶ唇を無理やり唇で押し上げられ、閉じた歯列を舌でなぞられる。その感触の奇妙さに思わず小さく口を開け舌を招き入れてしまう。舌が勝手にアレンの舌の動きに反応し、アルコールの匂いに浸されていく。この部屋で重ねてきた肌が熱を持ってざわめき始めてしまう。唾液が口から溢れ出るほどになってようやくアレンが離れた。
「なあ声、聞いてたい」
「……その口を押さえていたのは誰ですか」
「キスもしたい。しよう」
アレンがまた顔を寄せてくるが、今度はその唇が喉に添わされた。軽い力で撫でるように触れられることが却って良くない刺激になっている。首をすくめると愉快そうな笑みが吐息に混じる。気に入らない。
「声、好きだ。夏準の」
「それは……どうも」
「声だけじゃなくて、全部。リリックも歌も。体も。心も」
それに何を返せというのか。黙り込むと、喉仏を甘噛みされて思わず小さな呻きが漏れた。アレンがまた笑う。さすがにその口に手を当てて遠ざけた。
「夏準が俺を好きでよかった」
その手にも嬉しそうに唇を押し付けてくぐもった声が囁く。込み上げる感情をうまく形容することができない。怒りにごく近い何かが喉元まできて詰まっている。怒りと断言してもいいと思う。どうせそろそろタイムリミットが近いのだから。
案の定、押し付けられた手に乗る重みが次第に大きくなってくる。くすくす、肩を揺らして笑いつつ緩慢に体がのしかかってきて、そして最後には穏やかな寝息。
分かっていた。どうせいつものこのパターンだ。感情を大いにかき回され、体には中途半端に種火を灯され、熱とシャンプーとアルコールの匂いの中でそれを燻らせて夜を過ごさなければならない。これだから本当にアレンは性質が悪い。
「あれ!? 俺、なんで、昨日……あって、頭いて……って、あっ」
耳元に大声を吹き込まれ浅い眠りから目を覚ました。カーテンから漏れた光の中、焦りと照れとで真っ赤になった顔が間抜けだ。自分が酒を飲んだこと。そしてその勢いで夏準のベッドに潜り込んだことを悟ったのだろう。一度や二度のことではないのだから、当然この後に何が来るかも分かっているはず。
体を起こしているその腕を強く引いた。ベッドに引き戻し、唇を重ね、油断と隙しかない口内に舌を侵入させる。ついでに太ももあたりに手を添わせるのを忘れない。喉元にはまだアレンが噛みついてきた感触が残っている。自分だけ煽られたままなんて納得できない。唇を離して見下ろす顔は弱い刺激に物足りなげな表情だ。
「アレン?」
「は、夏準……悪い、」
「アレン『は』ボク『を』好きで良かったですね?」
言い訳をばっさり切り捨て、アレンの胸板の上で肘を付く。照れまじりのなんとも言えない表情をこねくり回しながら、アレンは最後に観念するように頷いた。
(2024-02-09)