物心が付いた時から握っていたものだから、バイオリンに対して好きだとか嫌いだとかいう感情はあまり無かった。手足と同じ、体の一部みたいなものだ。どんな力加減でどんな風に動かせばどんな音が鳴るか全て分かっていて、コントロールできないことを叱られ苦しんだ記憶はもう遠く薄れてしまっている。アレンの指の通り、頭で思い描く音が寸分の狂いなく甘く響く。何故そんなことを今になって思い出したのかよく分からないが、アレンがその時まず覚えたのは新鮮な感動だった。
「っア……レン……!」
指先が耳元の髪を梳いたり、頬骨を撫でたり、顎の輪郭を伝ったり、喉の形を確かめたり、鎖骨の際までなぞったり。
「も、う……やめて、ください」
たったそれだけのことで夏準の瞳の色が揺らぐ。息を詰めて声が押し殺される。いつも滑らかに音が連なる声から余裕が剥がれ落ち、バラバラに千切れ、苦しげに震え、その音の危うさが益々アレンの心を惹きつけた。聞いたことのない音、顔、感情。
「お願い、ですから」
夢中になっていたせいで、それが普段の夏準ではあり得ない弱々しい言葉だと気づくのに随分時間がかかってしまった。夏準は嫌がっている。アレンに止めろと言っているのだ。慌てて両手を挙げて体を離す。謝らなければならない、それが頭では分かっているのに言葉が出ない。謝りたくない。許したのは夏準のはず。他の誰にも見せない顔や反応を滝のように浴びせかけてきて──ぐちゃぐちゃの思考を整理できず、「おやすみ」とだけようやく押し出すほかは逃げ出すしかなかった。
スリッパを床に放り捨てベッドに飛び込んだ。布団を頭から被って小さくなる。目を閉じるなり先程までの夏準の言葉や反応が頭に戻ってきてしまい、軽く頭を振って寝返りを打った。
アナタに、少し、触れられたくらいで。
苦しげに歪む笑みと、アルコールに掠れた甘い声。まるで耳元でもう一度囁かれているみたいな鮮やかな記憶にどきりと心臓が跳ねる。リビングのライトの白い光に晒された瞳で口で言っているのとは真逆の感情が揺れていることに気づいてしまった。「ほつれ」はアレンの指でしか起き得ない。不要な心配をずっとしていた。
んん、と鼻にかかった甘い声が喉の奥で擦り潰される音。アレンの指で触れるほど、夏準は想像もできない反応を返した。とうとう追い詰められて零れた縋る視線と声の弱さ。
ぞわ、と背中に痺れのようなものが走る。腰のあたりに気だるい熱が生じ、まさかと思って下腹に手を伸ばした。
「……うわ」
思わず間抜けな声が出てしまった。いやいやいや、何考えてるんだ。これはさすがにダメだろ。理性では確かにそれが分かっているが、誰も居ない薄暗い一人の部屋で中途半端に兆した熱をやり過ごす程の我慢強さは、大抵の男には無い。多分。アンケートを取ったわけではないが本能的に確信している。まあ、そういう男の習性で、たまたま気分になってしまっただけの可能性もある。夏準とは関係なく。そう言い聞かせてもぞもぞとシーツの中で動き──本能に舵を切れば切るほどまた夏準の反応を鮮明に思い描いていた。もっと触れていたらどうなっていたのか。触れていない場所にまで触れたら。指ではなく別の方法で触れていたら。
これは……これはさすがに謝ろう。
少しの疲労感、眠気と共に理性を取り戻すに至りアレンは心に固く誓った。枕に沈めた頭は罪悪感でいっぱいだ。謝りたくない、なんて駄々をこねている場合じゃない。でないと気まずさに溺れて目も合わせられなくなりそうだった。
一応は決意の通り謝ったものの。夏準が無意識にアレンにだけ許す「隙」を、以前より簡単に見つけられるようになってしまった。光に誘われる蛾みたいにフラフラ手が伸び、その度に夏準を驚かせてしまう。その悔しそうな反応がまた罪悪感を思い出させた。しかし同時に、その「隙」がアレンをからかうまき餌ではなく無意識から生まれているという事実が心を浮つかせもする。このままだと良くない。それは分かっていた。でも俺のこと好きなんだよな? ならその隙も俺だけのものじゃ? ダジャレみたいなくだらない韻が誘惑になって頭を揺らす。
そんな危うい日常の均衡をぶっ壊したのはやっぱり夏準だった。
「夏準は」
人をマットレス代わりにして気持ちよく寝入ることのできる相変わらずの神経の太さには心底感心する。そのマットレスがベッドの上でどんな考えをどれだけ懸命に捨てているか知りもしないで。アレンの胸元に擦りつけられる頭の感触に体を硬くしながら、アレンは夏準を根気強く揺り起こし続けた。そして、露骨に興覚めという表情でバスルームに消えていった夏準を部屋で待ち構えていた。
「俺のこと……好きなんだよな?」
アレンを無視してベッドに横になった夏準を無理やり仰向けにさせるために肩に触れた。やはりそれだけで体がピクリと跳ねる。何より雄弁にアレンに答えを返す。なのに夏準は往生際悪く眉を寄せ、アレンから目線を逸らしている。それでもじっと見下ろしていれば、見ないでくださいと視線を腕で遮られてしまった。アレンを拒んでいるのではなく、とうとう見るだけでも反応を返すようになってしまったらしい。だめだと思っても気持ちが浮つくのが止められない。
「……これ以上焦らされたら、嫌いになります」
ちらり、腕の向こうで嫌そうにしかめられた目と目が合って一拍。アレンは思わずまた顔を手で覆った。
(2024-03-17)