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print ( “veritas” in vino )



if you == love me

 店内をあくせく行ったり来たりする様を目端で追っている。ステージの上に居る時とはまるで違い、あらゆる精彩を欠いてくたびれていく様子が愉快だ。この労働がアレンにとって寝食よりも優先されるHIPHOPのためではなく、アンのために行われているというのがまた、夏準の気分を良くさせる。アレンの見る「当然」の視界に夏準とアンが欠けることはない。

「こら、呼んだ甲斐あるわ」

 グラスに下唇を付けたまま愉快そうに笑みを漏らし、依織は焼酎を呷った。匋平が席を外した今とうとう本題が始まるのかと笑みを消せば、苦笑と共にグラスがテーブルに下ろされる。

「ちゃうちゃう、楽しく飲もー思っただけやでえ」
「……それを信じろと?」
「信じるも何も、ホンマのことやしなあ」

 打算無しで声をかけ合うような親しさがある間柄でもない。気分も良いので、多少のことなら検討しても良いと思っていたのだが。気味悪さに眉をしかめるが、依織は尚陽気に笑みをこぼしている。

「分かってへんなあ! こないな時間、ホイホイ絡まれに来る奴捕まえんのもひと苦労やろー」
「……なるほど? ボクとしたことが、酔っ払いの話の価値の紙ほどの軽さを見誤ったわけですね」

 夏準の不快など当然意に介さず、依織はとうとう声を立てて笑い始めてしまった。この燕夏準がただの頭数として使われるとは。まあ、それだけで既に有意義な情報の相場以上の対価と言えよう。既に貸し借りは清算されたのだ。むしろ釣銭が出るほどだと思い直して溜飲を下げ、懐かんなあ、そーこなそーこな、酔っ払いのはしゃいだ呟きを徹底的に聞き流すことに決める。

「けど……意外やったわ」
「何が」

 店内の空気に満ちるアルコールの匂いの中、ふっと煙草の香が割り込んでくる。匋平が店外から戻ってくるなり乱雑に依織に問いを返した。気だるげに席に腰を落とし、ぐっとグラスを呷っている。

「坊っちゃんがおちょくりたくなるんは分かるんやけど……あっちもあっちで、こないに気にするとは」
「ま、お前にゃマエがあるからな。やたらと俺たちに絡んできて。リュウをぶっ飛ばしたこと忘れてねーぞ。……どうせアイツが余計なこと言ったんだろとは思ってるが」
「そういう心配だけにも見えへんけどなあ」

 依織がちらりと向けた視線を追ったが、見えたのは赤みのある見慣れた髪色が厨房に吸い込まれていくところだけだ。こちらの表情の変化をニヤニヤと窺う視線が鬱陶しい。せめて相手の思惑に乗せられないように依織から視線を逸らす。

「あない見んでも取ったりせえへんのに。なあ?」

 その言葉で、これまでアレンが日常の隙間で見せてきた「揺らぎ」の数々の記憶が呼び起こされ、酒の肴として皿上に乗せられようとする気配に気分がますます下降した。

「アレンに自覚は無いですよ。だからアナタも、そこで遊ぼうとしても無駄です」

 夏準に無くてアレンにあるもの、それは「無形のもの」に対する疑問のなさだ。形の有るものはもちろん、形の無いものでさえ、アレンからすれば触れられるものなのだ。光に反応して手を伸ばす赤子と同じようなもの。そこに日常とは違う何かがあるから手を伸ばして触れ、確かめようとする。だが夏準にとって「無形のもの」は「意味」という核がなければ存在し得ないものだ。アレンのその手が夏準の中で意味を疑わせる。そこに何の意味も無いことは明らかなのに。不毛な循環だけが積み上がっていく。

「好きなのか」

 それはどうやら匋平にとってもアルコールで緩んだ口の失言だったようだ。言ったそばから本人の顔がばつが悪そうに歪む。きっと夏準はただそれを戯言と聞き流していれば何事もなく済んだのだろう。しかし顔を上げ目を合わせてしまった。たったそれだけの動作が匋平以上の過失だった。気まずげな匋平の表情にわずかに驚きが混じる。

「悪い」
「別に、謝られるようなことをしているつもりはありません」

 多少は認めざるを得ない、そう感じたステージを見せた相手に哀れまれている。その事実が命よりも重い尊厳に黒く泥を塗ろうとしている。鋭くなる視線を匋平は舌打ちで受け止めた。苛々と煙草を取り出しかけ──そしてため息を吐いて箱の上を指で弾いた。

「そういう意味じゃねぇ。わざわざ言わなくていいってことも……気づくのもやめてるってこともあるだろって言ってんだ」

 哀れみではないことは理解できた。これまでの数少ない交流の中でも分かる率直さから見て嘘は無いのだろう。けれど哀れみと同じくらい、訳知り顔で隣に立たれ好き勝手に理解されるのも気に入らない。

「ボクの言葉や行動に誰のどんな意志も関係ありません。アレンも、アンも関係ない。言いたければ言いますし、やりたければやる。それだけです」

 誰かの願いや期待通りに歩いた末、疑わずに渡る橋を誰かに唐突に落とされるなんて馬鹿な真似は一度で十分だ。夏準の中では何よりも夏準の信念が優先されるし、それがアレンやアンとぶつかるなら躊躇なく向かい合うだろう。生温い遠慮などそこには無いし、二人のために夏準が曲がることを二人も望まないと信じられている。

 一息で言い切って焼酎に口を付けた。小さくなった氷がカラリと回る音がやたら大きく響く気がする。しかめ面で視線を送れば、匋平も依織も肘を付いて無言を貫いていた。露骨にからかう素振りこそ無いが、明らかに続きを待たれている。

「これが呼ばれた理由なら……二度目は永遠にありません」
「いや……まあ、なあ? 面白がるんはかわいそうやなあ……とは、思っとるで?」

 今にも席を立ちそうな夏準の気配を察してか、隣に座る依織が気安く肩を叩き中身の多少減ったグラスを取り上げていった。ふと視線を感じて目を上げるとタイミング良く──いや悪くと言うべきか──アレンと目が合ってしまった。思わずため息が出る。

「そこまで好きにやっとる言うんやったら、気づかせたいことも気づかせたったらええやないかあ」
「そんなこと」

 匋平からもグラスを回収した依織は、慣れた手際でアイスペールから氷をひとつずつ足し焼酎のボトルを傾けた。とろとろと少しずつ酒を注ぎ足し終えたところで苦笑をこちらに傾けて見せる。

「そんなこと?」

 さっさと話を終わらせなかった時点で不利な防戦になることは決まっているのだ。それなりに飲めるつもりだが、やはりアルコールが判断を鈍らせているのかもしれない。夏準の中でさえ解決できない矛盾を突かれ、咄嗟に返す刃が見つからない。グラスが夏準の手元に押し出され戻ってくる。

「これのいいとこは……どんな奴のかったいドタマもゴキゲンに変えてまうことやろ?」

 陽気な笑みの相変わらずの胡散臭さをじろりと睥睨する。正面に座る匋平も夏準と同じく依織の言わんとするところを察したのだろう。呆れた表情を頬杖で押し潰している。

「気づかせたいことは気づかせて、忘れたいことはパッパと忘れたらええんや!」

 なんだか急に真正面から気分を害したり心を波立たせたりしていることが馬鹿馬鹿しくなってきた。ここには酔っ払いしか居ないし、夏準はその酔っ払いの頭数合わせにノコノコ足を運び、ついでにアレンがあくせく働く様を楽しんでいるに過ぎない。それで何かが変わるわけでもないし、損なわれるわけでもない。アレンの手のひとつひとつに意味を探すくらい無駄なことだ。

「このくらいの量で、ですか?」
「ハッ、そうこねーとな」

「夏準?」

 人の気配にハッと目を開けたが、咄嗟に自分がどこに居るのか把握できない。湿って情けなくへたっている髪の先をぼんやり眺め、一分ほどアルコール混じりの沈黙を吸っては吐いて、ここがリビングのソファであることを知覚する。

「大丈夫か? やっぱり……酔ってる、よな?」

 ソファの背もたれ越しに夏準を覗き込むアレンは苦笑を浮かべ、「水飲むか」などと小癪にも夏準の世話を焼こうとしている。いつもの逆だ、と考えているのは夏準だけではないのだろう。その不本意まで伝わっているらしく苦笑から苦味が抜けた。愉快そうに口角が上がる。

「顔だけ見ても分かんないの、夏準っぽいな」

 その屈託のない笑みが無性に腹立たしくなった。酔っているかと言われれば、それなりに酔いは回っているだろう。眠気と混じり合って頭も手足も重い。けれど頭の芯の部分には確かな思考があり、その思考がアレンに苛立ち、そして何もかもを億劫にさせた。今夏準は酔っている。忘れたいことはパッパと忘れる。もうそれでいい。

「アレン」
「ん?」
「手伝ってくれますか?」

 水分を十分取らずにうたた寝してしまったせいで声がわずかに掠れている。それを構わずに手をアレンに伸ばした。真上にあって影のかかる瞳がきょとんと丸くなった。夏準がそんなことを頼むなど想像もしていなかったのだろう。

「大丈夫か? ホントに……、って、うわ!」

 心配げに顔をしかめ正面に回ってきた単純さを鼻で笑いつつ、こちらを覗き込む首に両手を回した。ぐっと腕に力を込めて思い切り体を屈ませる。背もたれに手を付いたその首に縋るような恰好が滑稽だ。アレンも夏準自身も。

「あたたかいです」
「えっ……まあ、風呂あがりだしな……?」

 随分と混乱しているのか、『酔っている』夏準を気遣っているのか、突き放しもせず間抜けなことを口走るので笑いが込み上げてくる。クッとそれを喉元に押しとどめ、湿った首筋に唇を近づけた。

「アレンは、どんな感じがしますか?」
「えっ、ど、どんな感じ? うーん、酒臭いかな……」

 また間抜けな返事。しかし今度は興を削がれてしまった。アレンの首を解放し、浮かせていた頭をソファにぱたりと沈ませる。無罪放免にするのも癪でアレンのシャツの首元を軽く掴んで緩く引いた。

「ボクはいつも、最悪の気分です」

 首元にかかる力が気になるのか視線を落としていたアレンの目が上がった。そこにある怪訝そうな表情がまた笑える。そして愉快なくせにどうしてだか胸の奥を苦しく圧し潰す。夏準自身には自分がどんな表情をしているのか分からないが、アレンはただそれを食い入るように見下ろしていた。

「何が」
「嫌いです。アナタが」

 口がわずかに動いたが、声は落ちてこない。驚きに見開かれた目が夏準だけを映している。そんなことで沸き立つ胸の内が心底煩わしい。

「誰のどんな意志もボクの言葉や行動を変えられない。そのはずなのに。アナタに……」

 いつもそうだ。理性より先に体が反応する。思考よりも先に心が動く。自分の制御からまるで外れている。取り返しのつかない言葉や行動を取ってしまうのではという懸念に苦しめられるくらいなら、今なにもかも酔ったせいにしてしまえばいい。そして明日からは何もかも忘れたフリで日々を始めてしまえばいいのだ。

「少し、触れられたくらいで」

 言って、そのあまりのくだらさに自分で笑えてしまった。アレンの視線から逃れ、くすくす喉を鳴らして笑う。沈黙に塗り潰されて酸素が少なくなったのか息が苦しい。その内笑えなくなって目だけをアレンに戻した。

「好きじゃありません。少しも。アナタなんて」

 「酔っ払いの戯言」をどう受け止めたのか、アレンはまだじっとこちらを見下ろしていた。どこか呆然としているように見える。よく意味が分かっていないのかもしれない。夏準にももう分からない。くだらないことだけはよく分かる。このまま眠って何もかも明日に回す怠惰な算段を始めていると、ふとアレンの腕が上がった。

「、っ」

 まず頬だった。手の甲が触れ、こわごわと撫でられる。どっと心臓が跳ね、肌がざわりと粟立つ。息を飲んだせいで喉が跳ねた。それが目についてしまったのだろうか。手の甲が顔の輪郭をなぞるように動き、あごで指先に変わった。触れる面が狭くなった分感覚が鋭く刺激される気がする。

「……ん、」

 思わず声を飲み込んだのは、指が喉に下りて少し押し込まれたせいだ。何のつもりなのか、睨み上げてもアレンの表情は変わらない。呆然自失と言えばいいのか、なんとも表現できない表情だ。

「アレ、ン」

 それほど強い力でもないのに息が苦しい。眉根を寄せて名を呼ぶと、自分で思う以上に弱々しい声が出た。そこでパッとアレンの表情が驚きに変わり、逃げるように指が離れていった。

「……俺だ」

 ぽつり、呟きをひとつ零したかと思うとアレンの顔が瞬く間に赤くなる。今度は夏準が呆然とする番だ。ぽかんと見上げていると、その視線から逃れるように顔を手のひらで隠される。

「俺だからなのか……」
「アレン?」
「夏準が、俺を、好き……だから」

 世の中にはわざわざ言わなくていいということも、気づくのもやめているということもある。敢えて自分の中ですら明確にしていなかった感情の輪郭をはっきりとなぞられ、触れられる以上の衝撃が襲い掛かった。すっかり言葉を失った夏準を指の隙間から恐る恐る見下ろし、そしてまたきょとんと目を丸め、そして小憎たらしいことにアレンはまた屈託なく笑った。手の甲がまた気安く頬に触れたが、今の体は反応すら忘れて完全に制御の外だ。

「あつ」

(2024-03-10)

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