※ お題箱で頂いたお題「夏準も酔っ払ったフリして普段はできない甘えた絡み方をやり返す話」
Go into overtime!
はあ、肺の奥から絞り出した吐息には未だ酒気が滲んでいる。眠気が頭を重くしているはずなのに、意識が浅瀬を漂って沈んでくれない。どくどくと血液が走る振動がやたら体の底を脈打って不快だ。アルコールの分解も進んできたのだろう。とうとう、酔いからくる怠惰よりも眠れない苛立ちのほうが勝ってきた。のっそりとソファから体を起こす。高いアルコール濃度はむくみを引き起こす美容の大敵だ。どうせ眠れないのならまずは水分を取ったほうがいいし、熱いシャワーで体に残る居酒屋の匂いを落としてしまいたい。
「……っ、」
スポットライトのように狭い空間に満ちた白い光を浴びるキッチン。深夜と早朝の間、物音ひとつない一人のリビングで、夏準は思わず息を詰めた。冷たい水が喉を通る時、つい先程そこに触れていた硬い指の感触がリアルに蘇ったからだ。ぞわ、と背中に痺れのようなものが走って思わずカウンターに手を付く。今は触れられてもいないのに。酔った勢いに任せて振り捨てるつもりが──むしろ悪化している。
見上げたアレンの目は、ライトを背負って陰りいつもより穏やかな色をしていた。しかし何故だかそこにある緩い笑みは夏準に一切の安心を与えなかった。野良猫に恐る恐る触れる子供みたいに夏準の額や頬、耳元や首筋、顎から喉元を好きなだけくすぐって、「夢中になって遊んでいた」。この表現がしっくりくる。とうとう耐えられなくなった夏準は、プライドをかなぐり捨ててやめてくれと懇願しなければならなかった。あの時の無様はあまり思い出したくない。慌てて手を離したアレンと気まずい沈黙をたっぷり味わって、おやすみと逃げていく背中を安堵と共に見送った。
日本語には「酒は飲むとも飲まるるな」ということわざがある。燕夏準の人生とは関係がないただの一フレーズとして学習したに過ぎないが、その認識の甘さを改めるべきかもしれない。きっと先人たちも夏準のように酔っ払いの陽気で無責任なコールに乗せられて失敗した経験があるに違いないのだから。
はあ、肺の奥から絞り出した吐息にはアルコールの代わりに後悔と憂欝が滲んでいる。頭には程よく冷えた理性が重く凍っていて、ちょっと油断すると頭が下がってくる錯覚すらした。頭痛を堪えるように額に指を当てて支える。「ボクとしたことが」、この一言に尽きる。
「……調子悪かったりする?」
コーヒーカップを片手にカウンター越しにキッチンを覗き込んできたのはアンだ。SWANKに新しいアイテムをと意気込んでいたが、昼時が近くなって集中が切れたらしい。ランチ用の豆乳スープの匂いを嬉しそうに嗅いでいる。
「いいえ。ただ……少し飲み過ぎて」
「えー! 夏準が? なに? 仕事?」
「いえ……プライベートで」
「プライベート」
長い睫毛をはためかせ、アンは夏準の言葉を慎重になぞった。探るような視線に笑みだけ返していると、夏準の言葉に続きがないことを早々に察したようだ。半眼になってカウンターに肘を付いている。
「あー……でも納得したかな。それで拗ねてるんだ」
主語は当然、こちらは曲作りだと言って部屋に引っ込んでいったアレンを指しているのだろう。朝起き出してきたアレンは明らかに普段と違っていた。夏準と目が合えば気まずそうに目を伏せ、始終奥歯に物が挟まっているかのような反応の鈍さ。もちろん人間の機微に敏いアンが何も気づかないわけもない。平静を必死に取り繕っている自分が馬鹿のように感じて夏準はむしろ冷静だった。何故そちらが気まずそうにするのかと怒りさえ込み上げたくらいだ。
「意外だよねえ。しないのかと思ってた。シットとか」
しっと。一瞬Sワードに変換しかけたが文脈からしてそんなわけはない。思わずまじまじアンの顔を眺めてしまった。脳内でスペースバーを何度かパチパチ叩き、ようやく「嫉妬」の文字に辿り着く。
「嫉妬と言うと、少し違うと思います。そんなこと考えるひとじゃないでしょう」
「まあ……ねえ」
「あんな音やリリックが出せるなんて自分には無い」、などという用例ならアレンの辞書にも一応は掲載されているかもしれない。だがむしろそれすらもHIPHOPの糧に変えてしまうような末期のオタクだ。アレン自身も含めラッパー同士の交流が広がれば、まずはそこから生まれる曲というのを妄想して楽しむような男である。かつてチームをシャッフルするお遊びに熱を上げていた姿を思い出し、夏準の気分こそ下降する。口に出す気は一生無いが、嫉妬の用例なら夏準の辞書のほうが豊富だろう。はあ、「そういうひと」といういつもの念仏を唱えながら気持ちを切り替える。
「ボクが悪酔いをして。そこで言ったことを気にしているのかもしれません」
「夏準があ!? 大丈夫? 何かあったの?」
「アンもよく分かっているはずですよ。何かあれば、ボクはわざわざ酒の力を借りたりせずに直接言ってます」
「信じるからね?」
なんだか話が妙な方向に転がってしまった。夏準が自分の誇りと二人への想いのために取った手段は、どうもいつまでも二人の心の中で尾を引いているらしい。時折覗く過剰な心配に呆れ半分、くすぐったさ半分。ついつい依織に体よく頭数にされたことを白状していた。その場に匋平も居たと知り、あー……とアンも納得するような唸り声だ。
「聞き流せば良かったんですよ、酔っ払いの言葉なんか」
どうせ夏準の本意を悟り、それをどう扱ったものか考えあぐねているに違いない。そんな未来がとうに見えていたので敢えて口に出す気は無かったのだ。そもそもアレンの言葉や手に意味などないのだから。そのせいで体や心の動きを狂わされるのは全て夏準の中のこと。アレンはきっかけに過ぎないし問題の解決に関係ない。八つ当たりのようにアレンを責めるべきではなかった。そんなこと分かりきっている。
「In wine, there’s truth、って言うじゃん」
手元から顔を上げると、アンはいたずらっ子のように夏準の反応を覗う笑みを浮かべていた。夏準とアレンが揉めているということはあまり心配していないらしい。
「僕は結構好きだけどね。お酒入った時のあのバイブス。どんなガチガチな相手でも肩がほぐれるっていうか……そりゃ夏準の言うとおり、メチャクチャになっちゃう人もいるけど」
たまには悪くないと思うよ、茶目っ気溢れるウインクに苦笑を返す。何か手伝おうか、という申し出は今日のところは断ってコーヒーカップを引き受けた。深夜まで飲んでいた上に寝不足まで重なる夏準の胃にはスープだけで十分だが、二人には物足りないだろう。もう少ししたら手伝ってもらいますからと声をかければ、はーいと子供のような無邪気な返事が返る。
「夏準」
大根餅チヂミでも足して台湾風にするか……などと材料を仕込んでいると、正面からかかる声が低くなった。体がまた大げさに反応して顔を勢い良く上げてしまう。しかし伏せられた目と視線は合わなかった。まだ気まずさを引きずっているらしい。「なんですか」、沈黙をそう待ってやる気も起きず険のある声が出る。
アレンはすぐに答えない。さっさと話を切り出してくれれば、こちらもさっさと話を終わらせてやれるというのに。まな板に集中を戻せば、アレンがそろそろと足音を立てないようにキッチンの中に回り込んでくる。勝手に力が入る指や肩がやはり煩わしい。
「昨日は、ごめん。なんて言うか……謝っとかないと気まずくてさ。俺が」
いつもと全く違ってボソボソと弱く情けない呟き。ふう、小さく息を吐いて包丁を寝かせた。
「何のことを言っているのか、っ」
「夏準はさ」
包丁を手放した右手の手首を掴まれた。軽い力だったが触れた面が火で炙られているかのように熱く感じる。
「好きなんだよな、俺のこと」
こちらを覗き込んでくる目を昨晩とは逆に見下ろしている。しかしそこにある目の色は同じだ。穏やかなくせに平静を奪う輝きがワインレッドの瞳の向こうに抑えつけられている。
「……知りません」
夏準の答えを聞くなりアレンは空いている手で自分の口元を抑えた。どういう意図で何を隠したいのか分からないがどう見てもニヤついている。掴まれた手を振り払い、それ以後は無視を決め込むことにした。素直な性根を持つ男だと分かっているが、どうしても馬鹿にされている気分になる。余計な力が入ってまな板に要らない傷を付けないよう苦心した。
はあ、肺の奥から絞り出した吐息に滲むのは後悔と苛立ち、そして熱だ。あれからアレンは誰も見ていない隙を見つけては夏準の想いを確認し、どこか体に触れようとする。いつかこの男に当てはめた仮説が頭をよぎる。光に反応して手を伸ばす赤子。だが実際に赤子ではないし、それがアレンの手だからこそ、夏準の体は理性よりも優先して過剰に反応する。塵のように積もる熱がいつの間にか指先にまで広がっていて余計に大げさな反応になる。悪循環だ。更に言うと、その循環には確実に終わりがある。夏準が蓄積するその熱にどれだけ耐えられるかという限界だ。
立っていれば手、腕や脇腹、時には背筋。座っていれば膝、頬や首筋やうなじ。数度触れられた印象が強く残ってしまったのか、喉に触れられると一際反応を返してしまうのでうっかり隙を見せるのは極力避けてきた。
そしてとうとう、夏準は極限まで追い詰められた。そして開き直った。そもそもアレンが何も考えていないなら、そこに勝ちも負けも無い。勝手に負けた気分になっているから腹立たしいのだ。勝利条件はこちらが勝手に決めてしまえばいい話なのではないか、と思い至った。繰り返すが、極限状態だったので。
帰宅すると、大変都合の良いことにアレンがリビングで作業をしていた。ローテーブルにかじりつく丸い背中に機嫌良く近づく。ふ、と抑えきれなった笑みには微かな酒気が混じっている。
「アレン?」
忌々しい鈍感さを持つ肩に指をかけ、音もなくラグの上に腰を下ろした。肩に体をよりかからせ、鼻が触れるほどの距離で顔を覗き込んでみる。集中が強制的に断線された顔が間抜けで笑えた。
「は、夏準?」
「ええ、今、戻りました」
「えっと、おかえり」
普段ならあり得ない距離──特にここ最近は夏準が避けていた距離からの急襲は無事にアレンの不意を突けているようだ。戸惑いに増える瞬きを数えて笑みを漏らす。その吐息でアレンの眉が小さく動いた。
「飲んできたのか?」
「はい。連載コーナー用の仕事があったでしょう? それが終わって。長くお世話になっている方も多かったので」
「ああ……そっか」
嘘はひとつもない。しかしアレンはきっと夏準が依織たちとの席と同じように大量に酒を傾けたと思い込んでいるだろう。実際のところ、夏準の他の仕事への影響を気遣いソフトドリンクを勧めてくるくらいの和やかな席だったのだが。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないです。知ってるでしょう?」
打ち上げのせいなどでは当然なく、アレンのせいで。胸の内だけで言葉を繋げつつ腕の力を抜き頭を肩に預ける。思い切り体重をかけてやれば、それを押し返すアレンが「おい」と憮然と声を上げた。ふふ、笑みが鼻先で陽気に踊る。
「そんな感じで飲んでたのか?」
「さあ? そうだったらどうなんですか?」
打ち上げとは言え、今後も仕事で付き合っていく人々との席だ。例え何杯注がれても酔いを外に出さない自信があるし、元々それなりに耐性はあるほうだ。会の最初と最後で一杯ずつ付き合った程度ではほろ酔いもしない。大体、もう既に性質の悪い神経毒が体中に回されているのだから、酔い程度で打ち消せるはずもない。
「……困る」
ぽつりと零された言葉の意味を理解できない。肩に押し付けていた頭をまた上げてしまった。ぼやけるほどの距離に、なんとも言えない中途半端な表情を浮かべたアレンの顔がある。くっきり目元を強調する二重瞼から鋭い印象を待たせる目端の切れ込みまでをじっくり眺め、そこにある感情を読もうとして──あっさり放棄した。今日は「酔っている」のだ。この燕夏準が同じ過ちを愚かにも繰り返そうとしている。自分の好きなように自分のほしいものをこの男から得て勝ったことにするために。
「いつもみたいに聞かないんですか?」
アレンの眉根が寄った。今更この程度の仕返しで動揺しているのだろうか。この距離なら唾を飲む喉の動きもよく見える。
「夏準は俺のこと……好きなんだよな」
「そうですよ?」
間髪を入れずに開き直る。今日はそう答えるのだと酒を飲む前から決めていた。さぞスッキリするだろうと思っていたのに何かがまた胸元に詰まって内側を圧迫する。ふ、と自嘲混じりの吐息が漏れた。
「そうでなかったら、こんなにアナタのことが嫌になったりしません」
たったひとつの音、爪の先1ミリの動きでさえ、アレンだからこそ夏準の中で意味と熱を持ち蓄積する。理性で制御できない何かとして体の中で蠢く。ふ、く、く、苦しい胸の隙間から生まれる笑みが喉を震わせた。
「触らないんですか? いつもみたいに」
ねえ、アレン。囁いてまたアレンにもたれかかる。先ほどより反発する力が弱くなり、アレンの体が若干後ろへ傾いた。
「あんまり触ると、嫌なんだろ?」
アレンの表情には夏準の顔色を覗う色がある。恐らく、本気で夏準の心配をしているのだ。それが夏準のためになると本気で思って、あれほど思わせぶりに微熱を蓄積していったのか。呆れて声も出ないとはこのことだ。そんな夏準に気づいた様子もなくアレンは言葉を続けた。「それに」。そして少し言葉に迷う沈黙。
「あんまり触ってると、変な気持ちになってくるっていうか……そうなると、さすがに申し訳ないっていうか」
変な気持ちになるから申し訳ない? アレンにしては回りくどい表現だ。パチパチ、脳内でスペースキーを弾くくらいでは本意は現れない。そこでふと、一度目の愚行の翌日謝罪されたことを思い出した。理由は夏準に対し、アレンが気まずいから。
じっと見つめるアレンの目が泳ぎ、眉が本人の申告通り申し訳なさそうに下がる。頬に赤みが増したのは気のせいではないだろう。もしかすると。本当に愚かなのは最初に理性のブレーキに手をかけていた夏準なのではないだろうか。とっくの昔に夏準はアレンから「今日の勝利条件」を引き出していたのかもしれない。
「アレンは優しいですね? そんなこと気にしなくてもいいのに。むしろボクは気分がいいんですから、ね?」
カラーグラスをゆっくり引き抜き、ローテーブルの上にそっと置いた。たちまち戸惑うしかめ面に戻る表情を至近距離で笑う。そして既に後ろに傾きかけている体を思いっきり突き飛ばした。わっ、と床に倒れるところに体を重ねる。身じろぐ振動がくすぐったくて笑える。
「なってください? 『変な気持ち』に」
ちょっと気を抜いていると怜悧な印象になる通った鼻筋に機嫌よく唇をつけ、温かい胸元に頬を押し付けた。どくどくと血液が走る振動がやたら体の底を脈打って心地よい。ここのところ熱に巻かれて浅い眠りが続いていたが、今日は久々によく眠れそうだ。「夏準?」、焦り混じりに呼ばれる名前を無視する。
「夏準、おい……このままはちょっと、なあ夏準!」
肩が揺れないように気を付けながら忍び笑いを抱えていると、その内本当に眠気が襲い掛かってきた。きっと明日目覚めたらまた違った種類の後悔と憂欝を味わうだろう。相手がアレンなのだから仕方ない。しかし今日は夏準の勝ちということで構わないのだ。何しろ今日、夏準は酔っていて、たまにはそういう日があったっていい。心地よい眠りにそのまま身を任せたので、「もうよそで飲まないでくれ」という情けない呟きは夢の中で笑うことにした。
(2024-03-16)