※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21796298
※ 若干の性描写があります
「アレンは」
「……なんだよ」
夏準が目を伏せた。言葉が続かない。しかしアレンもそれを不審に思うことは無いし、むしろ痛いほど気持ちが分かるので一緒に黙り込んでいる。なんだよ、じゃないよな。俺が何かうまく返してやらないと──それは分かっているのだがさっぱり言葉が浮かばない。ラップバトルだとしたら完全に事故だ。
もう何時間もこんな気まずい沈黙の沖、二人してあっぷあっぷと浮き沈みしている気がする。ちらりと目をやった時計からすると夏準の部屋に入って十分も経っていないのだが。そんなわけないよな? 電池切れてないか? 時計ばかり眺めているせいで残酷な事実から逃れられない。
ちらり、アレンと同じくベッドに腰掛ける夏準に視線を送った。夏準もこちらを見ていたらしく目が合う。カラーグラス越しの目が大きく開いてまた逸れていった。「ごめん」、何も悪いことなんてしていないのに口をついて出た。「いえ」、夏準の返しも鈍い。
ふう、夏準が苦しそうに息を吐いてカラーグラスを押し上げた。そしてその流れで指の先を唇につける。何かを考えている仕草だ。何故だか──とこのベッドの上で言うと途轍もなく白々しいが、食い入るようにその口元を眺めてしまう。息を吸って何かを切り出す気配すら耳が拾う静かな部屋。
「アレンは……酔うと記憶を無くすタイプでしたよね?」
「えっ?」
思わず反射で聞き返してしまった。硬い表情の上で眉がわずかに寄る。頷け、という圧力を言外に感じ、ようやく夏準が何を言いたいか悟る。
つまりこれは、何も無かったことにしませんか、という提案だ。
さて、何がどうしてこうなったかを説明するには、それなりに過去を遡る必要がある。アンがまだ同居人2として転がり込んでいない時期までだ。
ステージに立つ機会なんてほとんど無く、トラックもリリックも粗削り。自分の中には確かに思い描いている芯や核があるのに、それを表現できないもどかしさ。中古屋から苦労して運び込んできて夏準を大いに呆れさせたシンセサイザーを乱暴に叩き、メモしていたメロディーを丸めて床に放る。こんな音じゃない。こんな曲じゃ自分は表せない。武雷管のように届いた誰かに雷を落とせない。
放り出したメモがくしゃくしゃと広げられる音でハッと我に返った。この頃アレンにはまだ家主である夏準に遠慮があったし、夏準にもアレンに気安く触れさせない壁があったはずだ。しかし何故かこの時、夏準はアレンの部屋──それこそ今と同じくベッドの上、何を考えているのか全く分からない顔でアレンの作業を眺めていた。作業に没頭する内その存在が頭から消えていたが。
「アレンは」
あの時の夏準の切り出しも同じだった。でももちろん、そこに気まずさはない。あの頃、アレンにとって夏準はただただ不思議な存在だ。神とかそんな存在が気まぐれに人間を増やしたり減らしたりする、そんなふうにアレンを拾ったのかもしれないと思ったこともある。
「不器用ですね」
「はあ?」
面食らうアレンを夏準はフッと鼻先で笑う。こちらに、と言われ大人しく隣に座った。一体何がしたいのか疑問符だらけなせいで、浅く座る真新しいベッドは軋みひとつ漏らさない。そんなアレンをまた口の端で笑い、夏準は走り書きのメロディーをゆっくりと鼻歌でなぞった。不思議なもので、そうされるとキーボードの奏でる音とは全く違って聞こえる。
「悪くないじゃないですか」
「いや、でも……」
「少し、置いてみたらどうですか」
「うーん……」
到底納得できるものではなかったはずで。けれど、夏準の喉から震えた音の魅力にその判断を鈍らされた。手品でも見せられた気分になって返事に迷う。メモをベッドの隅に置いた夏準は愉快そうにアレンの顔を覗き込んできた。二人の間にある隙間に手が置かれて身が乗り出してくる。それを何の抵抗もせずに眺めていた。メロディーをなぞった鼻先が顔に触れ、唇が重なっても、ただ呆然とそれを受け止めた。そんなものかと思ったのかもしれない。その時の夏準はアレンにとって、やはり不思議でしかなかったので。
今思い返せば、あれは初めてメタルを使った翌日だった。それからも、「そういうこと」は幻影ライブをした後になんとなく、漠然と存在し続けた。最初はただ唇を触れ合わせるだけだったのが、舌を絡ませ肌に触れるに至り、そうなるとまあ体は当然反応する。それを互いに慰めあってようやく、アレンは気が付いた。これはちょっと、立ち止まって考えたほうがいいんじゃないか? なんでこんなことしているんだっけ? 悲しき男の性で、興奮が冷めると頭もすっきり冷えるのだ。
しかしそれを、丸めたメモを拾うみたいに押し留めたのはやっぱり夏準だった。
「は、夏準……!?」
shh、笑みが混じった吐息が腿に触れる。その感触や熱を今でも生々しく思い返せてしまう。もうその頃にはアンも同居人の一人になっていて、BAEとして地道な活動が始まっていた。リビングを隔てた夏準の部屋で多少騒いだところで音が伝わったりしないとは思うが、今眼下にある状況が何故だか強烈な後ろめたさをアレンに覚えさせ、口を噤んでしまった。夏準の目が愉快そうに細くなる。
体勢からして異様だったのだ。自分を常に高いところに維持している夏準が床に座り込んでアレンを見上げている。ベッドに腰かけるアレンの膝の間、縦に長い体がだらりともたれかかる格好だ。いたずらするように腿に擦りつけられる頬の感触が体を硬くさせる。猫がじゃれついているみたいだ。「これ」って何なんだ、そんな話を今日こそするぞと思っていたはずなのに、完全に視界も思考も奪われていた。
「アレンは」
あの時の切り出しも同じ。けれど、部屋に溶け出して色を塗り替えるような甘さが滲んでいたと思う。ドキリと心臓が跳ね、ざわりと血がよくない騒ぎ方をした。
「本当に……面白いです」
意地の悪い笑みだ。明らかに、間違いなく、からかわれている。それが分かっているのに何故だか突っぱねることができない。長い指がくすぐるように膝や腹に触れ、身じろぐアレンの反応を楽しまれている。シャツがたくし上げられて、嫌な予感はしていたのだ。でも、止めようとしなかったのだから、からかわれても仕方ないのかとも思う。間抜けに反応しているところに夏準が顔を寄せ、ジーンズのジッパーに口を付けた。ジー、と引き下げられる音がやたらと大きく響いて、アレンの鼓動の音と一緒に部屋の外に漏れるのではないかと心配になったくらいだった。
今思えば、あの時の「それ」がアレンにもたらしたのは本当に悪い発明だ。狭くて熱くて湿った口内に触れるのは冷静さを簡単にトバすくらいの衝撃をアレンに与えた。普段ならそんなことを簡単に許すはずもない夏準の気まぐれが、「そういうこと」をいつまでも二人の間に引きずらせた、などと言うと言い訳がましいだろうか。だが、アレンから見ればそれが事実だ。あんなブッ飛んだことされなきゃ、タガが外れたりしなかったのに。
そうこうしている内に、Paradox Liveのステージに立ち、様々な出来事が重なり。生活のサイクルや忙しさの性質の違いで、「そういうこと」の頻度はぐっと減っていた。特に、メタルの浸食から連れ戻せた後からは。なんとなく互いの部屋に訪れても、話したり、軽く唇を合わせるだけで満足してしまう。そうすると、結局「あれ」って何だったんだ……という疑問も戻ってくるのだが、忙しい毎日に押し流され、その隙間で時折嬉しげに細くなる夏準の目を見ているとどうでもよくなっていた。
そしてとうとう、二度目のParadox Liveを勝利で終えた。
喜びも感動も感謝も、衝動は尽きない。自分の体に閉じ込められないほどの感情を三人で爆発させて分かち合った。言葉ではもちろん、文章でヘッズに語りかけたりもしたし、帰宅した後もアンと一緒になって無駄に部屋中をうろうろして夏準を呆れさせたりもした。ドライブ行こう! そんなアンの誘いに夏準と二人でうっかり頷いてしまい、誰が運転するかで揉め、笑い転げたりもした。
散々当て所ないドライブを楽しんで、部屋に戻り、祝勝会だと飲み始め──時間はもう深夜と早朝の間だった。眠気と酔いが頭の芯も体の芯もぼかしている。それを両側からもたれかかってくる夏準とアンに支えられてなんとかまっすぐ保っていた。
前日はバイトに出ていて丸二日ほとんど寝ていないアンも、普段の生活とかけ離れたことをし過ぎている夏準も、さすがに眠そうだ。アンの頭が時々かくりと落ちている。この時間がいつもは一番目が冴えているアレンも回った酔いのせいで体と瞼が重い。このまま目を閉じれば一番心地良く眠りに入れるだろう。今日ばかりは夏準でさえその誘惑に負けそうになっているように見えた。肩にかかる重みに思わず笑ってしまう。
「夏準はさ」
アルコールのせいで掠れた声に反応しゆっくり上げられた顔の、無防備で穏やかな表情を好ましく思う。ふへ、気の抜けた笑みが勝手に漏れた。
「ブッ飛んでるよなあ」
「……アナタが言いますか?」
「はあ?」
互いに半分瞼が下りたような目で睨み合っても何の迫力も無い。すぐに表情が笑みで崩れてしまった。あはは、笑うと体が揺れるので、片側の肩で頭を預けているアンが迷惑そうに唸っている。もうほとんど眠りに落ちているようだ。夏準も呆れたように笑みを滲ませる。
「いつも、何考えてるんだ?」
夏準はまた無防備な表情になった。アレンが一体何を聞いているのか、いつもより何倍も時間をかけて理解しようとしているらしい。小さく首が傾くとピアスが揺れる。その揺れが収まらない内に今度は顔が近づいてきた。アルコールの匂い。いつかに丸めて捨てたメロディーを愉快そうになぞった鼻先が顔に触れ、唇が重なる。
「アナタのことですよ?」
言って、堪えられない様子で夏準は笑みを零した。く、く、喉に笑みが突っかかっている。
「ずっと」
その愉快げな表情と吐息がくすぐったくてアレンまで笑えてしまった。アンがまた唸っている。
何と答えたかはよく覚えていない。とにかく、そうか、と思ったのだ。そういうことなら良かった。深く安心して、そのまま気分良く眠りに落ちた気がする。
そして、日が改まり。愉快で陽気なパーティは終わり、新たな日常が始まった。それぞれ大小二日酔いをひきずりつつ、口から出てくる言葉は次にやってみたいことばかり。吸う息にも吐く息にもこれまでとは全く違う新しさがある気がして、呼吸すら楽しい。これからはこれまで考えつかなかったことまで手を伸ばすのだ。これまでできなかった、しなかったことを考えていくのもいい。活き活きと考えを巡らせ──アレンは気が付いた。あるぞ、ものすごく身近に。「これまでやらなかったこと」。
アレンが部屋を訪ねた時から夏準の様子は明らかにおかしかった。部屋に入れるか考える間が少し空いた。それでも「どうぞ」と招き入れてくれたので、アレンもおずおずと足を踏み入れた。その時、腕が軽く当たり大げさに驚いてしまった。夏準もびくりと体を跳ねさせる。それからずっと気まずい。
こうして話は冒頭に戻る。
今、アレンは不思議な手品の種を知っている。夏準も自分から種明かししてしまったことを知っている。それだけで何もかもが塗り替わってしまった。硬い表情でアレンを見下ろす夏準との隙間、ベッドに手をついてみれば見上げる表情が変わる。それでもすっかり慣れ切った距離に近づこうとしたが、困惑の滲んだ顔に近づけば近づくほど心臓がやかましく跳ねた。がくりと項垂れてベッドに両手を叩きつける。
「忘れてたら、こんなに恥ずかしくならないだろ……!」
それ以上のことなんかもう何度もいくらでもやっているというのに──と言うより、だからこそ、その裏にある感情のシンプルさが余計に照れを大きくする。夏準だからで片づけるべきではなかったのだ。夏準だからこそもっと考えるべきだった。もっと早く、本当はそれが知りたかった、ということに気づいてしまった。
「……お前のせいだぞ」
恨めしく見上げれば、夏準は往生際悪くしかめ面になった。アレンの耳や頬に集まる熱は丸見えだろうがもういい。夏準の部屋のベッドライトは小さな明かりのようでいて、薄暗がりに慣れた目には充分な光量なのだ。普段は見ることができない表情をいくつも眼下で見てきたから知っている。その事実に今は確かな意味があることに頭がパンクしそうだ。
「お互い様です」
「だったら夏準も悪いだろ?」
「……謝ってほしいんですか?」
挑発するように口元を引き上げ、夏準がアレンを覗き込んでくる。そのままいつものように顔が近づき──そしてそれが重なる前に逃げていった。明後日を向く夏準、頭を抱えて身もだえるアレン、無言の中に気まずさが濃縮している。新しい日常が始まったのはいいが、もしかするとここだけはものすごく後退してからのスタートな気がする。
「夏準はさ」
「……何ですか」
「ブッ飛んでるぞ」
「アナタに言われたくありません」
「だから知りたいんだよ。何考えてるか」
身を屈めたままちらりと見上げれば、夏準もこちらを見下ろしていた。気まずい沈黙は変わらないけれど、互いに緩く苦笑が漏れる。まあ、とてつもなく気恥ずかしいが、色々すっ飛ばして放り出してしまったことをひとつずつ拾っていくのも悪くない。これからはそうしてみたい、と思うのだ。