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感染経路



感染経路

 何でこんなにドキドキするんだろう。

 窓から冬の気配がじんわりと伝わってきている。今日は朝から霧のような小雨が降っていて、外の空気はすっかり色を抜かれてしまったようだ。ぼんやり見上げる窓越しの空は重たい灰色だけがずっしり敷き詰まっている。秋口だと言うのに寒々と冷えるこの寒空の下、窓際の席になるとは何とも不運だ。指先が冷えて仕方ない。人の体温でほの暖かい教室の中心に少しでも近づこうと窓に背を向けた。

「はーい! 文化祭の出し物案他にありませんかー!」

 杏子がチョーク片手に黒板の前で微笑んでいる。今年も文化祭の実行委員は杏子だ。真面目でしっかり者だからまさに適任という奴で、こういう行事ごとがあると必ず推薦される。本人も嫌々ということもなく――むしろ楽しんでやっているようだ。

「はい! はいはい! 今年こそリアル女子高生キャバ……」
「城之内。それ以上言ったら殴るわよ。女子全員で」
「ちぇ、何だよ! そんぐらいのインパクトがねーと誰も来ないぜ!」
「ひっこめ城之内ー!」
「変態城之内ー!」
「誰がすると思ってんのよ!」

 ブーイングの嵐の中拗ね顔で席に腰を戻す城之内に遊戯は苦笑を漏らした。気持ちは分かるんだけどさ。むしろ見た――いやいやいや。

「なー遊戯、」
「うあ! はいっ!?」
「……何だよその声」
「いやっ! 何でも!」
「…………。まあいいけどよ」

 前の席の本田が振り返ってきて、遊戯を怪訝げな視線で射抜いている。だが深く追求することはやめておいてくれたようだった。それに安堵して話の続きを目で促す。

「アイツさー、どうすんのかね」
「あいつ?」
「海馬だよ、海馬」

 どきり、とした。よからぬ考えの合間に割り込まれるよりも、もっと単純で理由の無い心臓の弾みだ。
 本田が指さすのは滅多に主人に座ってもらえない机と椅子である。忙しいのか、学校に来る気もしないのか、はたまた両方なのか。海馬の姿を学校で見ることは殆ど無くなってしまった。

「やっぱり文化祭には出ないと思うけど……」
「だよなあ。しかしアイツ、単位とか出席とかどうなってんだろうな」
「さ、さあ……」
「いつまでもああいう状態なら、いっそやめるなり何なりハッキリさせりゃーいいのに」
「それは……!」
「まあこれは言いすぎか」

 悪い悪い、と本田が手を振って体を前方に戻した。本田には面倒見のいいところがあるから、ああいう中途半端なものを放っておけないのかもしれない。
 一度大きく跳び上がった心臓はしばらく静まってくれそうも無かった。ど、ど、ど、と短い間隔で体中に振動が走る。名前を聞いただけなのに、決して良い話題ではなかったはずなのに、何でこんなにドキドキするんだろう。

(海馬、くん……)

 口の中だけでその名前を復唱してみる。
 海馬くん、海馬、海馬瀬人。
 考えてみると、遊戯にとってそれは不思議な名前だ。憎い、怖いと思った時もあったし、憧れや尊敬を伴う時もあった。いつか来ることを望んでいる決闘の日を渇望し、高揚するときもあれば、ふとした日常に居てくれればいいのにと思う時もある。遊戯が持つ海馬への感情をひとつにまとめようとするのはとても難しい。
 ただひとつ確かなのは、その名前が心拍を早くするということだけだ。

「もー、決まらないわね……。遊戯、何か無い?」
「へ!?」
「もう、聞いてなかった? 出し物が決まらないの。遊戯も何か思いつかない? 去年みたいにさ」
「え、えーっと……」

 昨年と同じカーニバルゲームなどと言ってはやはり芸が無いだろう。遊戯としては3年連続それでもいいぐらい楽しかったのだが。咄嗟には何も出てこず、うんうん唸っている内にチャイムが鳴ってしまった。教室の隅で話し合いを聞いていた担任が、とりあえず放課後にもう一度話し合えと手のひらを打ち合わせる。主に男子陣から漏れる不平の声を無視して掃除が始まった。

「遊戯ー行こうぜー」
「今日は雨降ってるから中じゃないかな」
「だったら助かるんだけどよ、寒いし!」

 遊戯と城之内は二人とも裏庭の掃除当番だ。段々と肌に突き刺さってくるようになった外気の中へ、竹箒片手に飛び込んで行くのはなかなか辛い。しかも担当の教師がネチネチと仔細に渡ってうるさいのだ。小雨程度なら掃除を強行しかねないと、仕方なく裏庭に出てみることにする。教室を一歩出ると、冷却された空気がぶわりと体中を襲った。やはり寒い。

「ねえ、城之内くん……」
「なんだ?」
「海馬くん、と話したりしてる時ってどんな感じがする?」
「……海馬かあ?」
「うん」

 城之内は両手をすり合わせながら心底嫌そうな顔をした。それでも思考のために一度虚空を睨み、遊戯に視線を戻してくれる。

「……むかつく」

 渋い顔で言い切るその様がおかしくなって遊戯は思わず笑った。海馬を目の敵にしている城之内から見る海馬は、もちろんのこと遊戯から見た時とは違った感情が生まれていて、参考にはなりそうにない。

「ボクはさ……何て言うか、ドキドキしちゃって。うまくしゃべれなくなっちゃったり妙に慌てちゃったりするんだよね。……これってどうしてなのかなあって思ってさ」
「海馬と話してる時か?」
「うん。今もドキドキしちゃってるし……」
「あんな奴だけど、一応ライバルだからじゃねえか? もう一回、今度は正々堂々と決闘したいんだろ?」
「うん……それもあるけど……」

 それだけでこんなにドキドキするかな、と独り言のように呟くと、城之内がうーんと呻った。遊戯も特別答えを期待していたわけではなかったので、その場に沈黙が降りる。声に出せば少しは分かるかと思い立っただけなのだ。結果、余計に分からなくなっただけだったが。

「お、海馬!」
「へわっ!?」
「うっそだよー! おもしれー声出たな今!」
「も……もー! 心臓に悪いよ!」
「悪い悪い、怒るなよ」

 謝りつつも城之内の表情は愉快げだ。楽しそうに口元に手を当てて笑っている。ムッとこないことはもちろん無かったが、城之内の笑顔の無邪気さには怒りを削ぐ力があると思う。

「本当にもー……城之内くんは!」
「だから悪かったって……ってあれ、センセーじゃん」
「本当だ。先生ー! 今日の掃除は、」
「中止だ中止! 教室の手伝いでもしてなさい!」

 悔しそうにしている担当教師を城之内と笑いながら教室に戻ることにする。それにしてももっと早く連絡して欲しいものだ。もう裏庭に出る玄関口まで来てしまっている。

「寒いから早く戻ろうよ」
「……あれ、海馬じゃねえか?」
「もう! 今度は騙されないよ!」
「違う違う、これは本当だって」
「……本当に?」

 城之内がひょいひょいと手招きするのに従う。上がりかけていた階段から引き返して城之内と共に階段の影から玄関口を覗く。

「―――!」

 一体どういう意向で着ているのか、一般の学生とはきっぱり異を成す白い制服を纏った姿が、確かにそこにあった。唇を固く引き結んだつまらなそうな顔で担任の話を聞いている。目上の者の前でも腕組と威圧は忘れない、間違いなくいつもの海馬だ。

「遊戯、生きてるかっ!?」
「し、死にそう……」

 ドキドキと胸だけでなく体中が脈打っている。握り締めた拳に汗がにじんでいる気がした。久々に本人を目にした、というのがたいそうな衝撃だったらしい。

「どうしよう……!」
「んー……、よし! 行って来い!」
「ええ!?」
「近づいて見りゃ、あんな奴大したことないって分かるからよ! ほら、ガツーンと一発かましてやれ!」
「何をさ!」
「拳とか蹴りとか何でもいいから!」
「何でそんな方向に話がいっちゃうのさー!」

 初めはぼそぼそと小声の会話だったのだが、次第に廊下掃除の生徒たちの視線を集めるほどの大声になってしまっていた。だが大抵、そういう時の当事者たちは自分の失態に気づかないものなのだ。

「うわ! 気づいた! こっち来るぞ!」
「な、何で!? 海馬くんってやっぱりすごい……!」
「構えろ遊戯! 油断すんな!」
「殴っちゃダメだからね! 城之内くん!」

 久々の海馬は、脳内のイメージより少しだけ小さかった。もちろん遊戯より頭二つ三つ分は高い位置に視線があるのだが。そんな小さいことにまたドキリとする。不機嫌そうに冷たく見下ろしてくる目が随分近くに思えた。

「……何をしている」
「あ、その、久しぶり……ははは」
「質問に答えろ」
「あー! 遊戯が、海馬に話があるんだって! ここじゃなんだし、ほい!」
「う、わ! 城之内くん!?」

 城之内は遊戯の背を押して、階段裏の狭いスペースに強引に誘導した。爽やかな笑顔で拳を握っている。ガツンとやれ、ということらしい。だから何をさ! 

「じゃ!」
「あ、ちょ、」
「やばくなったら逃げろ! 大丈夫、お前なら勝てる!」
「何に!?」

 城之内がばたばたと駆け出していった。どう考えても態よく逃げられたとしか思えない。恐る恐る海馬に視線を送れば、案の定先ほどよりも険しい表情だ。

「うわ、あの、えっと、」
「話とは何だ。手早く済ませろ」
「あ、あれは城之内くんが……勝手に! だから! じゃあ!」
「……待て貴様、わけが……」
「え……」

 走って海馬を追い抜いたところで制止をかけられ、そこで振り返ってしまったのがまずかった。海馬も足を踏み出していたようで、重心が移動している最中のところに遊戯がぶつかってしまったのだ。思いのほか勢いよく反転していたらしく、そのまま海馬と一緒に倒れこんでしまう。

「ってて、海馬くんごめっ……」

 自分の体のすぐ下方に海馬の目玉があった。無感情に、ただ遊戯だけを見つめている。転んだ勢いで遊戯は海馬を組み伏せているのだ。その目を見て初めて気がついた。いつもは見上げるだけのその目が自分よりも低い位置で遊戯を捉えている。
 耳を塞ぎたくなるぐらい鼓動がうるさい。指先が微かに震えている気がした。だめだ、城之内くん。近くで見たら余計ドキドキしちゃうよ。

「……どけ」

 静かに、海馬が言った。怒鳴られるよりもずっと迫力があるのだが、遊戯は動けない。いや、動きたくないのとどちらなのだろう。

「聞こえんのか! 貴様、」
「……ボクね、海馬くんのこと考えたら、ドキドキするんだ」
「何だと?」
「頭がおかしくなりそうなくらい、心臓がうるさいんだよ」

 仰向けになって半身を起こしかかっている海馬の額に、遊戯はゆっくりと自分のそれをくっつけた。珍しく海馬は後手に回って何も抵抗しない。遊戯にさえ不可解な行動なのだ。当たり前と言えば当たり前か。

「……ほら」

 自分でも本当に弱りきって、遊戯は苦笑を浮かべて額を離した。顔まで赤い気がする。見下ろす海馬の顔は、予想したような怒りの表情ではなかった。戸惑いが表情に混じっている気がする。今日は珍しいものをよく見る日だ。

「なん、だ……?」

 海馬が心底不思議そうにその胸に手を当てたので、それに手を重ねる。早いリズムを刻むそこに驚いて一瞬手が浮いた。熱に溶かされたような頭で、泣きたいような、叫びたいような、生まれて初めて味わう感覚を覚えて、結局何もできなくてただ笑う。

「うつっちゃた、かな」

「―――つーわけだ!」
「それで遊戯放ってきたわけか?」
「おう!」
「お前って、分かってんのかニブいのか分かんねー奴だよな……」
「ああ? 文句でもあんのか? あ、安心しろって! あと5分で戻らなかったらちゃんと助けに行くから……って遊戯! どうだった!? ノしたか!?」
「何の話さ!?」

 話し込んでいた教室掃除の本田と城之内が遊戯に駆け寄る。城之内は興味津々に、本田は嫌な予感をひしひしと感じつつ。

「海馬と何話したんだ、遊戯」
「え!? い、いや、文化祭、来てね! って」
「それだけで顔が赤くなるのか、遊戯」
「あ、え!? いや、なんか、暑くて! ははは……」
「…………」
「何だよ、海馬の奴、遊戯苦手そうだからガツーンと行けると思ったのによ! お前優しいからなあ!」
「ええ!? 海馬くんボクのこと苦手なの!?」
「……やっぱお前、ただのニブい奴だな……」
「んだとお!?」

 担任が教室に入ってきて帰りのHRの始まりを告げる。騒がしい三人はばたばたと席に戻ったが、遊戯にしか見えないもう一人の遊戯はたった独り恥ずかしさと罪悪感で懊悩せねばならなかったのだった。一部始終を知る唯一の第三者として。

(相棒、その、……応援してるぜ)
(あ! あ!? ええええ!? 見てたの!?)

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