花葬(ほうせん花)
自転車のペダルが昼間より軽い気がするのは何故だろう。こっそり布団から抜け出した時は心臓が潰れるかと思ったが、抜け出してみれば何てことない。祖父も祖母も遊戯にまるで気づくことなく眠っていた。
一日は二十四時間しか無いのに、夜は寝ていなければならないなんておかしい。せっかくの夏休み、夜にだってしたいことはたくさんあるのだ。カブトムシは夜のうちが見つけやすいと言うし、川に仕掛けておいた罠の様子も気になる。初めこそゲームのひとつもないこの田舎に飽き飽きしていたが、ひとつ糸口を見つけるとここは宝の山だった。
緑の深い山々、霧のように静かに降る空気、遠い虫の声。
昼間の厳しい日照りをなんとか滲ませた夜の中を、気分良く自転車で突っ切る。だがその夜風にばかり心を奪われていたのがいけなかったらしい。
「あ、ああ……わ、!」
大きな石にボロ自転車の車輪がとられてしまった。運動神経なんて皆無に等しい遊戯は、舗装なんてされていない道に翻弄されるしかない。自転車と共に脇の茂みに飛び込んでしまった。
「いった……」
よろよろと立ち上がると、腕も膝も傷だらけの酷い状態だ。じんじんとした痛みに涙腺が緩む。唯一の救いは自転車に目立った損傷が無いことだろうか。ボロのくせに気骨のある奴だ。
「うう……も、帰ろっかな……」
弱々しく自転車を起こすと、ふわりと風が頬を撫でていった。波音がするからこれは海風か。あれだけ緊張して抜け出してきた夜の冒険なのだ。せめて海を見て帰るか、とトボトボ自転車を押して歩く。暗くてよく分からないが、こけた怪我はあざになっているに違いない。一歩進むごとに痛い。
ザザ……ザァ ザ……ザン
防風林を抜けると、すぐに見慣れた砂浜に出た。毎日のように泳ぎに来ているはずなのに、夜見るそれはまるで別物のようだった。夜の海に近づいてはいけないよ、という祖父の言葉を思い出す。黒々と砂浜に噛り付いている海は、どこか禍々しく恐ろしかった。少し震えながら自転車を反転させる。柔らかい砂の上なので手間取っていると、黒い視界に白い色が閃いた気がした。ふと首を巡らす。
少し向こうの岩崖の先端に、小さい人影があった。今にも落ちそうなところから暗い海を見下ろしている。危ない、と自転車を脇に放り捨てた。走りにくい砂を蹴散らして、ごつごつと鋭利な岩々と取っ組み合いをする。頂上にやっと辿り付いた頃には、息も切れ切れ汗もだくだくだ。
「あ、あの……!」
苦しい呼吸では情けない声しか出ない。遠くから見ると小さかった人影は、近くで見ると以外に大きかった。少なくとも遊戯より大きい。人形のように微動だにしない背中は、遊戯の声など聞こえていないかのようだ。
「あの……」
大きい声を出そうと思ったのに、出たのは一度目よりも情けない声だった。もし出すぎたことをして怒鳴られたら、失笑されたらどうしよう、そう考えてしまう。三度目こそは勇気を出そうかとうじうじ悩んでいるところに、前方の人影は煩わしそうにゆっくりと振り返った。
「……何だ」
短い髪がふわりと風に遊ばれている。ここに来て初めて見た、同じ世代の少年だった。ただ遊戯とは全然違う。何が違うのかはっきりとは分からなかったが、纏っている空気さえ違っているようで足がすくむ。ひょっとして幽霊かもしれない。そう思うと怖くなってきた。
「あ……」
そもそも夜中のこんなところに何で人が。ますます目の前の少年が人外のものに思われた。後退しようとして飛び出た岩肌に足を引っ掛けた。ひどい尻餅をつく。
「う、うう……」
「何をしてる」
尻から重く伝わってくる痛みに、忘れていた傷の痛みまでぶり返してきた。思わず目尻に涙が溜まってきて情けなくなる。こうやってすぐ泣くから馬鹿にされるのに。
「……泣くな」
うんざりとした声だったが、かけられたのは遊戯の予想したような酷い言葉ではなかった。呆然と見上げると、少年はポケットから白いハンカチを取り出す。ためらうことなく、それで遊戯の膝から出る血を拭ってくれる。
「どこか別のところでもこけたのか」
「……さっき、自転車で……」
「ここらの夜道をか。馬鹿なことをするな」
「ごめんなさい……」
「そんなに怪我をしたいというなら止めはしない」
一通り血が出ているところを拭った少年は、まだ血の出ている膝にハンカチを巻いてくれた。手際がとても良い。遊戯はそれを見ているぐらいしかできなかった。
「君は……人間、なの?」
遊戯の問いに、少年はあからさまに顔をしかめる。でなければ何だ、と逆に問い返されて言葉を失う。幽霊かと思いました、なんて面と向かって言えない。
「だって、夜中にこんなところに居るから……」
「それはお前もそうだろう」
確かにその通りだ。言葉を返せないでいると、別にお前の事情に興味はない、と話題が終わってしまった。沈黙が生まれてやっと、思い出したかのように波音が耳に入る。
「君は、何をしてたの?」
遊戯の問いに少年は一度海を振り返り、それからその手のひらを握り締めた。波音に紛れるように、手向けだと囁く。
「たむけ?」
「分からないだろう」
「うん……」
「分からないだろうな」
その何気ない呟きが悔しくて寂しかった。何故自分はその意味が分からないのだろうと悲しくなってくる。余程情けない顔をしていたのか、小さく笑われた。
「別に分からなくて困るものじゃない」
「でも……」
「オレはもう戻る。自転車は押して帰れ」
凛とした声が遊戯の前を通り過ぎて遠くなっていく。少年は遊戯を笑わなかったし、馬鹿にしなかった。怪我を丁寧にハンカチで手当てしてくれた。
「あの!……あの、明日もここに居る?ハンカチ、」
「別にそんなものもう要らない」
「ここにはもう来ない……?」
「……この時間には毎晩来ている」
遊戯が来た道より狭い道を小さい影が下っていく。それをしばらく見送っていた。明日もまた来よう。岩肌を滑るように下りて、自転車を押して家に戻った。
崖の一番端ぎりぎりから、白い綺麗な百合を一輪棄てる。
それが少年の毎晩の日課だった。もったいない、と遊戯が言っても答えは何も返ってこない。これが『手向け』ということなのだろう。
祖父に聞いてみても、『手向け』とは何かよく分からなかった。人や神様を見送る時に捧げるもののことらしい。少年は誰かを見送っているのだろうか。
「海の神様にお供えしてるの?」
「そう思うか」
「じゃあ、誰かを『見送って』るの?」
「そうかもしれない」
崖に立つ少年は、その隣に座って足をぶらぶらさせている遊戯を見下ろした。特に表情は無い。だが、遊戯はその目を見て何となく悟った。多分これは、聞いてはいけないことだったのだ。
「……ごめんね」
ザザザ、と一際大きい波音が遊戯の謝罪をかき消した。ぶわり、潮風が耳の横を駆けていく。きちんと聞こえていたか心配で見上げた少年は、まだ遊戯のことを見下ろしていた。
「お前は弟に似ている」
「君の?」
「ああ」
何だか複雑だった。昔からこの身長のせいで周囲から幼子扱いされているのだ。この少年もそう思っていたとは、ちょっとした衝撃である。きっと同い年かそれぐらいのはずなのに。ついつい拗ねたような声が口から出た。
「……弟はここに連れてこないの?」
「ここには居ない。……もう、会えないかもしれない」
ざぶん、と足元の遥か下で波飛沫が上がっている。遊戯は少年を見上げるのをやめた。気まずくて声が出せない。先程謝ってしまった手前、同じ言葉が出し辛かった。どうしてとも聞けない。
「……ボク、弟じゃないよ」
「知っている」
「もう十一なんだよ」
「……そうなのか」
意外そうな声に気が抜ける。やっぱり、とジト目を送ると、その表情も少し意外そうだった。むすっと君は、と問う。やはり同い年だったらしい。
「ねえ、名前なんて言うの」
今まで尋ねなかったのもおかしなことだが、何故だか聞いてはいけない気がしていた。少年が帰っていく細い道の向こうには大きなお屋敷しかないから、きっとそこの人なのだろうとは思う。あれだけ大きな家だ。祖母にでも聞けばすぐに身元は分かるかもしれない。だが今までそれすらできずにいた。
「何だろうな」
「……からかってる?」
「戻る」
「あ、ちょっと、」
少年は何も答えず道を戻って行ってしまった。気分を害してしまったかもしれない。明日こそちゃんと謝ろうと決意する。
また聞けないことが増えてしまった。
もう百合が無くなってしまった。
昨晩呟いた少年は、いつものしっかりした彼ではなかった。いや口調も表情もいつも通りだったが、遊戯の胸の内と百合の本数だけがいつも通りではなかった。いつもより二本多い百合がそれぞれゆらゆら沈んでいくにつれ、もやもやとした不安が体の奥底にどんよりと滲む。だが上手く言葉にできなくて、結局彼にそれを伝えることができなかった。だから言葉の代わりに、山の中から白い花をたくさん集めていつもの場所に向かう。こけないように注意しながら進むと、いつもよりどうしても到着が遅れた。息を切らしながら砂浜に出る。
遠くに小さく月が見えた。その下のいつもの黒い影がぐらりと揺れる。百合よりもスムーズに描かれた放物線に、一瞬呆然としてしまった。波の音に紛れて水の弾ける音がする。慌てて駆け出した。放っておけばいいのに、焦っているせいで花を抱えたまま。
「だめだっ、!」
海に飛び込んだ。あまり泳ぎは上手くないが、ここに居る間に波間を進む術だけは身に付けたのだ。がむしゃらに少年が落ちたであろう場所を探る。花が視界の横を舞っては消えていった。遠くに白いシャツが見えて思わず名を呼んだ。何と呼んだかは覚えていない。とにかく必死だった。
手を伸ばすと、涙のように泡が空を目指して浮かび上がっていく。不思議と視界がはっきりしていた。暗い夜の海なのに。少年が苦しそうな顔で手を伸ばしてきた。それを取る。離さないように指を絡めて、溺れそうになりながら何とか浜まで上がる。酸素が足りないのか体が震えていた。すがるように少年の手を握る。弱いながらも握り返してくるその力に泣きそうだった。
「なん、で……!なんで……!」
声に出すともう止まらず、涙が溢れ出る。少年はそれを黙って見つめ返しているだけだ。月明かりのせいで血色のないその肌の色が嫌で、顔を近づける。触れて確かめたいけれど、それは名を聞くのと同じようにしてはいけないことのように思えた。ぼやける視界を閉ざして隠して、睫毛の先だけで少年の存在を確かめる。手を繋いだまま、波打ち際でしばらくそうしていた。
もう白い花はやめにしよう。
ちゃんと口に出していたか、心の中で呟いただけか分からなかったが、遊戯はそう思った。家の庭にも、山の中にも、鮮やかな花はたくさんある。特に庭の前にみだりに咲いている赤い――確かほうせん花は綺麗だった。明日はいつもより早くここに来て、少年を待って、そしてあの赤いほうせん花を手渡すのだ。
泣きながら、手のひらを握り締めて、睫毛だけで相手を確かめながら、遊戯はもう一度囁いた。もう白い花はやめにしよう。