古典病原
一体何度目の寝返りだっただろうか。とりあえず数えるのも嫌になる程であることは間違い無い。
『相棒、』
「……なに?」
『眠れないのか?』
「君は?」
質問に質問で返すと、もう一人の遊戯はクスリと苦笑した。相棒がそんなに寝返り打ったら眠れないぜ、とからかうように囁いてくる。慌てて謝ると、一緒に羊を数えようかと意地悪に笑われた。仕方ない、何せの心の同居人だ。隠しおおせるはずも無い。
「……この前のこと思い出しちゃって」
『この前?』
「ほら……その、海馬くんの……」
『ああ! 「うつっちゃった……』
「再現しなくていい! しなくていいよ!」
瞬時に顔の辺りに体中の熱が集まる。星明りしか入らない夜の暗闇の中でさえ判別できるほど、きっと遊戯の顔は真っ赤になっていることだろう。真面目なもう一人の遊戯にからかう気は全く無かったらしく、真摯に謝られて余計恥ずかしくなる。
「あーなんか、その、違う気がして」
『……違う?』
「うん。全然今まで一回だって感じたこと無い気持ちだったから、あの時。それを海馬くんに持っててもいいのか全然分かんなくて不安だし、その……恥ずかしい、んだよね」
『分からない、恥ずかしい、か』
「やめてよもう! しみじみ! しみじみ繰り返さないでー!」
『え? ……あ、すまない……』
枕を抱えてばたばた悶絶する遊戯を、もう一人の遊戯は目を点にして見つめている。もう一人のボクってば絶対天然入ってるぜ、などと少々現実逃避気味なことを考えつつも、遊戯はひとまず謝罪を口にして落ち着いた。少し息が荒い。
『海馬……』
ふとしたもう一人の遊戯の呟きにさえ心臓が大きく跳ねる。以前から自分は死ぬんじゃないかと本気で心配していたが、今の心臓の動きは以前より激しい。これは本当に死ぬ。死ぬかもしれないじゃなくて死ぬ。胸が詰まって苦しい。
「ボク死んじゃうかも……」
『何でだ!?』
「だってもう、ずっとこんな……おかしいよ絶対……!」
枕をベッドに投げつけて、その上にぼすっと倒れこんだ。しばらくそうしていたかったが、何も言わないもう一人の遊戯が気になって目線だけ上げる。そこにあったのは、普段まず見ることの無い曖昧な表情だった。
「もしかして、引いてる?」
『違うぞ相棒! ……だが、』
「だが?」
『「あれ」を見たから言うんだが……』
「言わないでってば!」
『いやその、……「今更」だと思うんだが……オレは』
大きな瞳をまんまると瞬く。そんな遊戯もまたもう一人の遊戯に若干ズレているなどと思われていたりするのだが、露ともそんなことには気づかないままなのだった。
「に、ににに兄サマ、どうしたの!?具合でも悪いの!?」
「大したことはない。心配するな」
そうやって主治医と部屋に籠もったのが数十分前。大したことがなければ普段は医者なんて絶対かからない兄だ。心配するなとは無体な話である。もちろん無意味とは知りつつも、妻の出産に立ち会う夫のように兄の部屋の前をうろつく。
――ああ、ものすごい重病だったりしたらどうしよう!?
そろそろ心配が限界値を超えそうな頃、重たい木製の扉がゆっくりと開いた。出てきた影に飛びつくように近寄る。何とも言えない渋面をした主治医だった。わずかに顔が蒼いようにも見える。
「兄サマは! 兄サマはどうだったんだ!?」
主治医がゆるく首を左右に振った。その瞬間、衝撃と絶望でモクバの頭の中は真っ白になった。どういう意味で、どうして、この男は首を振っているんだ。回転の速い脳で導き出した未来はどれも暗い。
「どういう、どういうことだよ……!」
「付ける薬がありません」
「そんな、付ける薬が……って、え?」
何やら表現がおかしい。確かにいい意味では使われない言い回しだが、深刻な話でも使われない気がする。説明を求めて神妙な顔の主治医を見上げると、もう一度首を振られた。
「あれは……ええっと、まあ……何と申しましょうか……」
「ハッキリ言え!」
モクバが語調を強めても、主治医はハッキリとした物言いをしようとしなかった。ああとかええとか呻いた後、身体にはどこも異常は無いようですから、とついでのように付け加える。
「それを早く言えよ! じゃあ大丈夫なんだな!?」
「……はあ、まあ……身体的には……」
「もー! さっきから何なんだよ!」
「最も厄介な病ってところですよ。一体どこから持ってこられたのか……」
「はあ?」
とにかく、と主治医は頭を抱えながら、余すところ無くカーペットが敷き詰められた廊下を歩き出した。慌てて制止するが聞き入れもせずそそくさ歩き去っていく。
「では、次の検診で。きちんと健康にお気をつけくださいね」
「お、おい!」
「もう聞いてられません」
スタスタと小さくなるその背中が廊下の向こうに消えてから、モクバはやっと我に返った。あいつクビにしてやるからな、などとブツブツ呟きながら兄の部屋をノックする。すぐ帰ってきた返事の通りに部屋に滑り込んだ。
「兄サマ、大丈夫?」
「ああ。……それより、何を揉めていた?」
「何かあのヤローが意味分かんねえことばっかり言うからさ!」
「意味の分からんこと?」
「それより! アイツは兄サマのこと健康って言ってたけど、本当に大丈夫? 何か心配なことでもあったの?」
ソファに腰掛けて書類を読んでいた海馬は、モクバに視線を投げて寄越した。そして手元のそれをテーブルの上に放る。
「今の診察の簡易カルテだそうだ。見るか」
「あ、うん!」
「動悸がする。呼吸が苦しくなる時もある」
「ええ!?運動もしてないのにだよな!?やっぱりどっか悪いんじゃ……」
「しかも決まった時に限ってだ」
「決まった時? 寝てる時とか?」
「違、う……!」
突然、海馬が忌々しげな顔をして胸に手を当てた。慌てて駆け寄って肩を支えると、いつもの鋭い眼光が見上げてくる。
「遊戯の、ことを、考えると、これだ……!」
「……ゆ、遊戯?」
「ああ……。あれからずっとこうだ……! 何をうつしたと言うのだあの男は!」
「……『あれ』?」
モクバの言葉に、海馬がはっと目を丸めた。それからわずかにモクバから目を逸らす。生まれてから今までずっとこの兄と離れることなく暮らしてきたが、こんな表情の動きは初めて見た気がする。いや表情自体はほとんど変わっていないのだが。
「あれって……」
「あんなヤブ医者などアテにならん! オレのこの手でわけの分からん病原体など粉砕してくれるわ! ワハハハハハ……!」
「で、その病原体は遊戯からもらったってこと?」
「ぐっ……! モクバ、その名は出すな……!」
モクバは何とも言えない気持ちを抱えながら謝罪を口にした。是が非にも『あれ』の詳細を聞き出して遊戯を締め上げなければなるまい。だが気が進まない。主治医の「もう聞いてられない」がよく分かる気がした。やっぱりクビにするのやめよう。
「何だかオレの方が恥ずかしくなってきたぜ兄サマ……」
「何だ?」
「ううん、何でもない」
兄弟二人、生き抜くために、世界を見返すためにがむしゃらに生きてきた。そのせいでどこか疎いところができてしまうのは仕方の無いことだと思っていた。兄も自分も。だがこういうところで具現化するとは夢にも思っていなかった。
「やっぱり決闘しかないよ! アイツをブチのめしてやればきっと治るぜ!」
「ああ、無論そのつもりだ。厄介なものをうつしおって……!」
どこか寂しくて、口惜しいから病名までは黙っておく。一人ごろごろ悩んでればいいさ、遊戯の奴なんか!
「うー、ダメだ……全然眠れない……」
『もう3時だぞ、相棒』
「だって、だってさあ……」
ふと小さく笑われた気がして、拗ねながらもう一人の遊戯を見上げる。だがそこにあるのは優しい笑顔だった。
『相棒も、名前を探してるんだな』
嬉しいような、悲しいような気持ちが、ただでさえ一杯の胸に無理やり入り込んでもっと苦しくなる。どくどくと早い鼓動に手を当てた。そして静かに目を閉じる。おやすみ、ともう一人の遊戯が囁いてその気配が消えた。
「海馬くん、」
海馬もこんな夜に、ベッドの上で、遊戯みたいな胸の鼓動を感じてくれたらいいのに。