完全浸潤
「何の用、……今日は取り巻きだけか」
「とっ、取り巻きじゃねーよ!」
「あ、遊戯はちょっと……」
「テメーなんかのツラ、見たくもないとよ!」
「城之内!!」
沈黙。
デスクの上に両肘をつき、海馬は剣呑な視線を送った。残念ながら視線から音がでることは無いので室内は極めて静かだ。冷たく見据える視線の先では、三者三様に目があらぬ方向へ逸らされている。大失態をやらかした時の部下の態度に似ていて苛々してくる。
「……さっさと用件を言え」
仕方なしに低く話を促すと、意を決したように女が足を一歩踏み出してきた。確か真崎杏子と言っただろうか。遊戯の喧しい取り巻きの一人である。
「あの、ごめんなさい。いきなり訪ねて来たりして。最初は海馬くんの家に行ったんだけど……いつのまにかここに連れて来てもらっちゃって」
「……誰だ」
「え?」
「誰がここまで貴様らを連れてきたのだ、と聞いている」
「磯野さんが、」
「……磯野か……」
含みのある呟きに杏子はあからさまに慌ててみせた。違うの、とか何とか、聞き苦しい言い分からするに、モクバがここまで連れて行くように指示したらしい。モクバはいつものこの連中に寛大に接しているところがあった。確かにそういう指示を出してもおかしくない。
「それで」
「今月の25日に文化祭があるんだけど、私達のクラスは決闘大会をしようってことになって……。もちろん海馬くんが良ければなんだけど、色々ディスプレイ用に貸してくれないかなって……」
恐る恐る、とでも言いたげに杏子が上目遣いで見上げてくる。それまで黙っていた本田とかいう男が、迷惑はかけねえからさ、と強く主張した。既に迷惑になっているということは考えてもいないのだろうか。
「見返りは」
杏子も本田も、うっと言葉に詰まった。ここまで能天気で無謀な商談など未だかつて経験したことが無い。ただでさえの不機嫌に拍車がかかる。
「見返りって、テメーもクラスの一人だろ? どーせ文化祭には来ねえんだから、ちょっとぐらい協力したって……」
「オ、オイ……」
「城之内!」
黙りこくってポケットに手を突っ込み、明後日を睨んでいた城之内が初めて声を上げた。遠慮なく睨みつけてやると、向こうからも鋭い視線が帰ってくる。それが人に物を頼む態度か。
「それで? 協力という名の下にクラスメイトにこのオレがいることを利用し、コストを最低限に抑えようというわけか? 結構なことだな!」
これ以上くだらない茶番には付き合っていられない。話は終わりだ、とさっさと仕事に戻る。指の先まで苛つきが浸透して、書類への署名がわずかに乱れた。取り巻きが居るのにその中心が居ないのはどういうことなのか。決してその『中心』が気になっているわけではないが、普段と道理の違う現象に腹が立つ。
「か、海馬くん……」
「もう話すことなどない! さっさと出て行け!」
杏子と本田が困り顔を見合わせて、不機嫌面の城之内を引きずってすごすごと帰ろうとした時だった。社長室に小さい影が飛び込んでくる。
「兄サマー! ディスクとかなんか適当に使えそうなモン詰め込むように指示しといたぜぃ!」
邪気の無い明るい笑顔が、その場に一瞬沈黙を生んだ。痙攣するこめかみを押さえつつ、海馬は静かに弟の名を呼んだ。
「……モクバ?」
「なに? 兄サマ!」
デスクまで駆け寄って海馬を見上げるその目には、杏子たちの願いを聞き入れたと信じて疑ってない色が灯っている。口の奥から歯軋りが生まれそうになるのを必死で耐えた。
「……気が利くな」
「へへ、オレは兄サマの弟だぜ? こんぐらいできて当然だぜぃ!」
じゃあ下に運ばせとくから、と杏子たちに目配せして、モクバがまた部屋を飛び出していく。目を点にさせたままの三人に、海馬は重々しく切り出した。
「……モクバに感謝するんだな」
「『これは貴様らとモクバの契約だ。オレは関係ない!』だってよ! 関係ない! って!」
社長室から出てすぐ、城之内は堰を切ったように大笑いし始めた。つい先程まで最悪だったはずの機嫌はもうすっかり右肩上がりらしい。それに反比例して、すぐ後ろの社長室では海馬が大荒れしているに違いなかった。杏子と本田は複雑な表情で苦笑する。
「だけどまあ……一時はどうなるかと思ったけど、良かったよな。確かにモクバに感謝しねーと」
「そうね。あのままじゃ多分貸してくれなかったよね……」
ふう、と杏子がため息を吐き出した。慣れない緊張から解放されてほっとしているようだ。何はともあれ、これで文化祭は上手くいくだろう。半ば強引だったとはいえ、一応海馬にも感謝せねばなるまい。
「ああ、お帰りですか」
「あ……はあ、」
「失礼、私は社長付きの秘書の一人です。名刺を……」
「あ、どーも」
杏子が代表で小さい長方形を受け取る。上司とは違って、随分丁寧な物腰である。ビルの外まで案内してくれるとのことらしい。
「副社長が通用口の方に車を回しておられますから……そのまま学校の方までお送りするとのことです」
「おー! ありがてえ! さすがモクバだぜ!」
「では、私の後に」
「はい!」
海馬の返事がどうあれ、一度は学校に戻るつもりだったのだ。実にありがたい提案である。本当によく気のつく小学生だ。外観からは想像できない長さの廊下を秘書に続いていく。最上階に人の影は極端に少ない。
「皆さんは社長のご学友でいらっしゃるのですよね。仲もよろしいようで……」
「あ!?誰があいつなん、」
『城之内!』
本田が低い囁きで城之内を諌めた。気難しい海馬のことである。いつ先の約束が反故にされるか分からない。せっかく良い流れで文化祭用の資材を貸してもらえたのだ。
「……どうしました?」
「いやもう本当仲なんかすっげーよろしくて、もう大親友! みたいな感じなんです! な!」
「へえ……」
『……誰もそこまでしろとは言ってねえぞ……』
杏子は呆れ返って最早言葉も発そうとしていない。だがこの人の良さそうな秘書は、城之内の取って付けたような親友宣言を信じてくれたようだ。それでは大事なお客様ですから責任を持ってご案内致しますね、などと微笑んでいる。その丁寧な案内のおかげでスムーズにビルの外に出ると、モクバが車と一緒に待ち構えていた。
「色々積んどいたからなー! 兄サマに感謝しろよー!」
「ありがとう、モクバくん」
「サンキュー、モクバ!」
「ありがとな」
「いや兄サマに感謝しろってば!」
不服そうにしながらも、モクバは杏子たちを車に押し込めた。照れた表情を隠したいらしい。どこをどうすればあの兄の下にこの子が生まれるのだろう、一同はしみじみそう思ったのだった。
教室に運び込まれた様々な展示品や、決闘に使えそうなものを見て、教室は沸きに沸いた。クラスメイトたちのほとんどは、海馬の協力など早々に諦めていたのだろう。予想外のことに盛り上がりも大きいようだ。
「わー……っ!」
「しかし見事に青眼ばっか……まあ海馬だしな……」
「オレたちに感謝しろよ、遊戯! 海馬相手に交渉すんの大変だったんだからよー」
「城之内は何もしてないでしょ! ……でも確かにそうね、遊戯が居ればもうちょっと海馬くんの対応も違ったと思うんだけど。……遊戯?」
手に持っていた青眼の置物を机の上に置いて、遊戯が床にしゃがみ込んでぷるぷる震えている。心配そうに目を瞬く杏子に、何も聞いてやるなと本田が首を振った。
「絶対、無理……!」
「…………何で?」
「し、死ぬから」
海馬への無謀な会見に臨む際、初めはもちろん遊戯も頭数に入っていたのだ。だが遊戯はそれを断固拒否した。海馬との間に様々な因縁が渦巻いている遊戯だ、会いたくないのかと思えばそれも違うらしい。
「会いたくない、ってわけじゃないんだよね?」
「違うよ! そんなことあるわけないよ!」
「あるわけないのか、遊戯……」
「ヤローの面も見たくないってことだよな?」
「違うって! むしろ、その、」
「え? 違うのか?」
幸か不幸か、遊戯は城之内が海馬に言い放った言葉を知らなかった。本田からの批難の目を甘受しつつ、城之内は押し黙る。
「どういうこと? 海馬くんに何か……」
「……杏子」
「なに? 海馬くんがどうかしたの?」
「ごめん、あの……」
「大丈夫? さっきから苦しそうだけど……」
「か、かっ海馬くんの名前、出さないでくれる……?」
会いに行ったり顔を見たりはもちろん、名前を聞くのさえ、ドキドキし過ぎて死んじゃいそうなんです。
きょとんとしている杏子にそんなことを告げられるはずも無く、遊戯は独り床の上で煩悶するしかなかった。ああ、でもこの頃全然学校にも来ないから、一目だけでも見たかったかも……。
『だからオレが行こうか、って聞いたのに。』
(だって、だって―――!)
名前の無い病原体の進行は、最早重症というより他は無いようだった。