極致
チチチチチ、静かな訓練場にまで響いてくる高らかな鳴き声は気の早い燕のようだ。夜気に冷やされた床にはまだ冬の名残がある。朝陽に満ちた訓練場の中央、瞑想を終えて立ち上がった。「明鏡止水」の四文字が、厳かに義勇の無念無想の程を問う。
目を閉じ、左手に持つ木刀を構えた。瞼の裏にはこちらに向けられた木刀の先がある。それを掴む両手、片身ずつ柄の違う羽織、詰襟、心を深く鎮めた暗い蒼目。瞬間、床を鳴らして踏み込んだ。こちらは片腕だ。防戦は不利になる。しかし不意打ち叶わず剣が弾かれてしまった。そうすると右半身は相手にすっかり晒される。一本の腕で剣を持つ時、最も大きな弱みは受け身だ。平衡を保つことが両腕よりも遥かに難しい。力押しに負けた場合、体勢の立て直しにも時を要する。
しかし明白な不利は、より有利な「誘い」にもなり得る。相手の切っ先を懐に入れ、中段を滑らせて胴を狙う。
「あーあァ」
しかし惜しくも、それより先に頸に届きそうになった相手の剣先を躱すため後方に飛びずさった時だった。背にかかった声に振り返る。
「朝っぱらからよォ、じっとしてらんねぇモンかねぇ」
戸口から呆れた顔を覗かせているのは実弥だ。大口を開けてあくびを零しつつ訓練場へと足を踏み入れている。互いに蝶屋敷の寝間着姿だが、相変わらず首元が大きく開けている。
「もう起きていいのか」
「そりゃこっちの台詞だ」
実弥の目が義勇の右袖をちらりと見下ろし、正面に戻った。深手を負ったのはどちらも同じだが、確かに義勇のほうが人目を引く怪我ではある。
「傷も塞がった。血も戻った。寝込んでいるほうが体に悪い。俺たちのようなものは」
まさに「寿命の前借り」、死力をも超えた力を出し尽くした戦いだった。空になった器に一滴ずつ水を落として満たしていくように、体を起こせるようになるまでに長い時間がかかってしまった。しかしひとたび体が動くようになると、鈍った体が重く感じてしょうがなくなる。呼吸が体の中で行き詰るような感覚に不快が募る。
「まあ……そうなるよな」
大した反論もなく目を逸らす実弥も義勇と同じ状態なのだろう。道場で鉢合わせたのが何よりの証拠だ。
「やるか」
声をかけると白目がちな目玉がゆっくりと義勇に戻る。左腕を上げ、木刀の先で他の木刀が納められた籠を示した。しかし実弥は顔をわずかにしかめるだけで押し黙っている。気性の荒い男のはずが、今はすっかり静かだ。ぼんやりと籠を眺めているように見えた。
「不死川」
返事は無い。顔すら動かない。しかし目だけが義勇に戻ったところを見ると、一応話を聞く気はあるようだ。
「俺は、髪を切ろうかと思う」
チチチ、チチチチチ、燕が高らかに鳴く。その声をたっぷり聴いた後、実弥は義勇にただ一音で答えた。は?
「毎度毎度、結わせるのが面倒だ」
「ああ……なるほどな」
「それから、重心を低く持つことにした」
実弥の顔に怪訝そうな皺が深くなる。どうやらまたうまく伝わらなかったらしい。
重心を低く持つ。これはまず最初に思いついたことだ。腰を落とし低く構えることで体勢を保ちやすくなり、一撃の威力が上がる。これまではより早く、より多く、より広く打ち、相手の隙を取ってきた。しかしこれからは多少の守りを捨てても一点の攻めに集中する戦法に変えていく必要があるだろう。
「何と戦うつもりなんだァ、お前はよ」
義勇が木刀を振りながら重ねた言葉を実弥は黙って聞いていたが、少しも共感は得られなかったらしい。とうとう呆れた声で横やりを入れられてしまった。構えを解いて実弥に向き直る。目が合うと、顔が嫌そうにしかめられてしまった。
「最近、昔のことをよく思い出す」
しかめられた顔が少し動いて、怪訝そうな表情が濃くなる。しばらくそのまま睨まれていた。何か責められているような気がするが、身に覚えがないので困惑するしかない。
「あ゛あ゛ぁ、やりづれェ」
突然上がった大声に義勇も眉根も寄せる。しかし実弥はそれを見ることもなく俯き、自分の額に両手を当てて前髪を乱暴に掻き上げた。そしてドカリとその場に腰を下ろしてしまった。真下から人指し指を突き付けられている。
「冨岡。お前、ド下手くそかよォ。繋がんねぇぞ話がよ」
「ああ。話すのは得意じゃない」
数拍妙な沈黙があったが、実弥はただ大きなため息を吐いただけだった。目線を合わせるために実弥の正面に腰を落とす。
「だが今は、それほど嫌でもない」
「そーかよ」
半眼で投げやりな返事を寄越してきたが、実弥はそれきり怒ったり立ち去ったりする素振りを見せない。両腕を組んでじっと義勇を見ている。ひょっとして言葉を待っているのだろうか。応える言葉を探すために目を伏せた。窓から降り注ぐ明るい朝陽が、使い古された木刀の無数の傷に影を作る。
「俺にとって剣はいつも」
寝かせていたその切っ先を起こした。表情の変わらない実弥の顔の中央に木刀が立つ。
「理由だった。意味を持つものだった。止めてはならないものだった。何があっても。そうでなければ」
意味もなく剣を抜くことは冒涜だ。本来義勇は刀すら持つ資格は無かった。脇目を振ることは許されない。ほんの一瞬でも気を抜けば、ここに居るべきだった人びとの不在から綻びが生まれる。
「そう信じていた。だが、本当は違っていた」
義勇の日輪刀は今、刀鍛冶が新たに打ち直しているらしい。しかし、もうその刀を本来の用途に使うことは無いだろう。真剣を抜く日すらもう二度と来ないかもしれない。だがあの日、義勇は、義勇の成し遂げたいことのために最後まで剣を振るった。それが確かにここに残る。
「これは俺の骨だ。血肉だ。すべてだ」
剣とはきっと、冨岡義勇という人間が散り散りになってしまわないために、生きていくために必要な芯だったのだろう。それが今、義勇と実弥との間にまっすぐと歪むことなく立っている。それを誇らしく思う。
「それに正直なところ、面白い」
ぽかんと口を開けて義勇の話を聞いていた実弥は、怪訝そうな表情を少しだけ取り戻しまた一音だけ声を上げた。あ?
「こうなっても、まだやることがあるというのは」
答えて満足した。木刀を寝かせ、右膝に添わせるように床に付ける。これから考えなければならないことは多いだろう。剣を捨てず、あの戦いの果てを生きると決めたのだから。
「ホンモノだなァ」
また沈黙を挟んで、実弥はため息まじりにそうぼやいた。あぐらの上に頬杖を付いて呆れた視線を遠慮なく送ってくる。
「ホンモノだよ、お前は」
一体何の本物だと言われているのかは分からない。呆れたような口調と笑みから判じれば皮肉られているのかもしれない。それでも何故だか嬉しかった。もうあの刀を握ることも無いのに、「選ばれた」ような気がしている。