※Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13006935
陽が沈んだばかりの空は、街灯の光を雲に含んで薄紫の膜に覆われている。駅前でぼんやりと灯る信号は赤だ。その下の大通りを車が絶え間なく行き交う。いつもはもう数時間遅くに帰途につくので馴染みが無いが、この時間になるとこの辺りはキメツ学園の生徒たちで溢れ返る。
歩道をはみ出して歩いているとか、自転車の危険走行だとか、時折受ける苦情の電話を思い出して知らずため息が出た。ビクリと周囲の肩が揺れる。周囲の学生はもちろん俺に気が付いていて、今のところは行儀良く信号が変わるのを待っているようだ。見ていない時もそうしてくれると助かるんだが。
明るい笑い声に目を流した。見ればよく知る問題児の竈門兄妹が二人、歩道の縁石から一歩下がった最前列で仲睦ましげに言葉を交わしている。
一人は厳ついピアスを堂々ぶらさげて登校し、どんなに指導しても改めない頑固者の高等部の男子生徒で、これが兄。もう一人はパンをくわえて毎朝登校という、今どき漫画でも見ないような校則違反を繰り返す中等部の女子生徒。これが妹だ。この違反を除けば素行が非常に良い二人なので、バイクを乗り回し他校の生徒まで巻き込んで暴れ回るような兄妹よりマシだなんて話もあるが、俺から見ればどちらも同じく性質が悪い。特に兄のほうは俺の太刀筋を見切って竹刀を躱すようになってきた。筋が良いんだろう、もったいない。違反から逃れるためにそのセンスを無駄遣いすることはない。ぜひとも矯正して先生に師事させたい。
それに気づけたのは、そんなことをつらつら考えつつ二人を眺めていたからだった。
駅前の信号は歩車分離式だ。隣の信号が赤に変わった途端、せっかちな者が赤信号を横断しようとしてしまうことが度々ある。生徒の中に埋もれていたスーツ姿の男も強引に前へ出ようとした。慌てて男は急停止したが、その勢いに押し出された竈門妹の体がよろめき──車道に出る。
前に居る生徒の肩を乱暴に後ろに押し流して下がらせた。地を蹴り、手を伸ばして小さな肩を抱きかかえる。車線の向こうの安全地帯まで抜けられるか。無理でもせめてクッションに。
義勇さん!
けたたましく鳴り響くブレーキ音の隙間で、悲鳴混じりに名を呼ばれた気がした。しかしすぐに強い衝撃が体を襲ってそれどこれではなくなる。受け身だ。何度も何度も先生に叩き込まれて来ただろう。
かかる力の流れを見極める。
水のように、時に四角く時に丸く。
「呼吸」を正しく体中に巡らせれば、人の身のまま強くなれる。
斬るべき敵をも凌駕できる。
狩るべき──鬼をも。
義勇、ここを絶対に開けてはだめ。
引っ越しの準備手伝ってくれるの?でも仕事は大丈夫?
あの人も手伝ってくれるから義勇は無理しなくてもいいのに。
できるわね?義勇。約束よ。
姉さんが開ける時は名前を呼ぶから。
義勇!真菰と勝負してるんだ!審判やってくれ!今日の夕飯がかかっててな!
ハハハ!義勇!また俺が一本取ったぞ!
今日の夕餉の当番は義勇だな!ハハ、膨れるなよ!手伝うさ!
すみませーん!これは外せないんです!父の形見なんで!!
義勇さんは──
義勇さんは錆兎から託されたものを、繋いでいかないんですか?
嵐に放り込まれているみたいだ。記憶が頭の中の水槽に静かに沈めてあるようなものだとしたら、今その水槽にはいくつもの新しい記憶が石つぶてになり雨のごとく降り注いでいる。とにかくこの波立つ水面を鎮めたい。一番深いところに沈んでいった記憶だけを追いかけた。血や泥で汚れたボロボロの姿だが、涙を流して喜び合う少年少女の姿。大願叶った晴れやかな笑み。俺はこの二人を知っている。この兄妹を知っている。もうずっと前、生まれる前から。
「先生!」
叫び声に意識を引き上げられて目を開く。桜色をした大きな両目に溜まった涙が、ぼとぼとと落ちてきて額を跳ねた。そこから世界が広がるように様々な音がなだれ込んでくる。生徒たちのどよめき、泣き声。遠くに聞こえるサイレン。背中がやたらと熱い。鉄板の上に寝かされているかのようだ。上弦の参に吹き飛ばされた時もまず熱さを感じた。
「聞こえますか!?しっかりしてください!」
右手から震えが伝わってきて驚く。右手がある。いや、あるのは当たり前だ。一体何を考えているのか、考えが全くまとまらない。禰豆子が熱で汗ばんだ両手で右手を握り込んでいることだけ理解する。そして、その禰豆子の震える肩に手を置いて、こちらを心配そうに覗き込んできた顔を見上げた。その赫い瞳にも涙が滲んでいる。記憶の中でも泣いてたが、あの晴れ晴れした笑みとは真逆の顔だ。
「た」
安心させるために名前を呼んでやろうとしたが、思ったより痛みがひどい。言葉を一度止めて「呼吸」を試してみる。「前」の一割ほどもうまくいかないが、少しは痛みがマシになった。
「たんじろ」
炭治郎は両目を見開いて息を呑んだ。身を乗り出した顔が近い。懐かしい。そう言えばこんな顔だった。あの戦いが終わった後ぐんと背が伸びて輪郭から幼さが消えていったのですっかり忘れていた。いや、ついさっきの事故ぶりに見た顔なので懐かしいも何もないはずだ。俺は何を考えているんだ。頭でも打ったのか。
「先生!?どこか痛みますか!?何でも言ってください!」
「なんでも」
「はい!」
「たすかる」
そうか、ここは大正じゃない。俺も炭治郎も誰も痣を発現してはいないし、姉さんも錆兎も生きている。ここなら今度こそ言える。今度こそ叶うんじゃないか。俺の唯一の心残りが。あらゆる種類の痛みが電気のように伝わって体中で爆発するのをこらえつつ身じろぐ。近づいてきた炭治郎の耳に口を寄せる。
「結婚、してくれ」
「えっ」
満足して息を吐いて体から力を抜いた。少し眠って回復したい。「呼吸」を巡らせて分かったが動けなくなるような怪我はしていない。一晩もすれば動けるようになるだろう。真っ赤になった耳が重い瞼に遮られて見えなくなった。
デスクにリュックを置き、毎朝の日課通り校門に向かうために職員室を出たところ、不死川と鉢合わせた。相変わらず仕事熱心な男だ。授業の準備のために早めに出てきたのだろう。度々こうして早い時間に顔を合わせる。おはよう、と挨拶をしたが返事がない。この歳で耳が遠いのかそういうことはこれまでに何度もあった。だが今日は少し様子が違うようだ。目も口もぽっかり丸くしたままぴくりともドアの前で動かない。
「……なんで居る」
表情から察するところ驚いているらしい。驚いている理由は俺が居るからだ。だが俺には思い当たる理由がない。いや、待て。ひょっとして不死川は今日が平日だと気づいていないのかもしれない。誰も居ないはずの早朝の職員室に人が居て驚いたのか。なるほど。俺も新米の頃何度かやった。
「不死川、今日は月曜だぞ」
不死川の顔がピクリと動いて眉根に皺が寄ったが、すぐには言葉が返ってこない。ショックを受けているのだろうか。案外繊細だなと思っていると、雷のような唐突さで怒鳴り声が上がった。
「だから何だァ!?お前、事故に遭ったんだろがァ!!」
「ああ。聞いたのか」
「聞いたも何も……!」
「金曜で良かった」
「はあァァ?何言ってんだコイツはァ!」
「思い出した」とは言っても、断片的な記憶の寄せ集めだ。そもそも俺は「前」ほど鍛錬を積んでいない。「呼吸」の再現は完全なものとは到底言えず、姉たちに引っ越しの準備を放り出させて二日間寝込むことになってしまった。これが週の半ばであればやむを得ず欠勤ということになっていただろう。そこでハタと気づく。
「ああ、心配しているのか」
思い返せばこの男は、「前」から面倒見のいい、気立ての優しい男だった。うまく話せない時期が長かったが、あの戦いの後はそれなりに交流を持てていた。全く的外れの予想ということも無いだろう。
「テメ……!誰が……!!」
「受け身を取れたのは幸いだった。後は呼吸で何とかなりそうだ。ありがとう」
フ、と自然に笑みが漏れた。先週も見たはずの顔が「思い出した」せいか妙に懐かしい。肩を叩きその横を抜け廊下に出た。そこで、不死川がドアの前で硬直していたせいで数人の教員が渋滞を起こしていたことを知る。一声くらいかけてくれればすぐに気が付いたのだが。そんなにじろじろ見られても、原因は俺じゃないぞ。
「先生!冨岡先生!おはようございまあす!」
気にはしつつも日課に向かわねばと辿り着いた教員玄関で溌剌とした大声がかかった。朝練のある部活生がちらほら登校し始めるような時間に聞く声じゃない。驚いて振り返れば、片手を大きく振りながら駆け寄る炭治郎の姿が目に飛び込んでくる。どうやら聞き違いではなかったようだ。
「炭治郎」
「え」
眼前で急停止した炭治郎の耳元で耳飾りがハタハタ揺れる。西側にある薄暗い玄関口で、丸くなった瞳が炭火のように温かく光っている。変わらないな、と思う。この輝きは。
「どうした」
「あ、いえ、先生、いつもは竈門って呼んでましたよね、俺のこと」
面食らってしまった。しかし今更この男を竈門だなんて他人行儀には呼びづらい。どこからどう見てもこの男はあの死闘を共にくぐり抜けた男だ。同姓同名の他人だとはどうしても思えない。
「ピアスにも何も言ってきませんし」
半歩下がり、恐る恐るといった様子で炭治郎は自分の耳に触れた。ちらちらとこちらを見上げているのは、俺から耳飾りが奪われることを恐れてのことだろう。
「それに、俺に、あんな」
校則違反は厳しく取り締まられるべきだ。その気持ちに変化はない。校則というものは、誰のためでもない生徒の健全な成長のためにあるのだから。けれど激動続きだった二十五年を「思い出す」ことによって、些事にまで目くじらを立てる必要はないのではと考え始めてしまっている。一気に老け込んだ気分だ。耳飾りの無い炭治郎のほうがしっくり来ないという気持ちもある。
「ひょっとしてまだ具合が悪いですか?頭を強く打ってしまったとか……」
「問題ない」
二日間眠りこけている間、竈門兄妹が母親と共に見舞いに来てくれたとは聞いている。医者が腰を抜かし、ドライバーが安堵で気絶したほど健康体だったことは既に知っているはずだろう。だが炭治郎はぐっと眉を下げた。一度泣きそうに顔をしかめて深々と頭を下げる。先生、ありがとうございます!本当にありがとうございます!早朝の廊下に響き渡ってやまびこまで聞こえそうな大声だった。
「礼ならもういいと言っただろ」
「何度感謝しても足りません」
「キリが無いからもういいと言ってる。毎日そうするつもりか」
「はい!」
勢いよく頭が上がり、真剣な表情で大きく頷かれた。ほんの喩えのつもりだったので動揺する。まさか頷かれるとは。
「先生は禰豆子の命の恩人で、俺は禰豆子の兄ですから!」
後ろに下がっていた体がズイっと前のめりになる。その目に宿るのは、どんな困難を前にしても決して諦めずに燃え続ける光だ。この光が数百年誰にも成し遂げられなかったことをとうとう叶えてしまった。よくよく覚えている。俺がてこを入れたぐらいじゃ動かない男だ。
「相変わらず頑固だな、お前は」
やっぱり妙に懐かしい。炭治郎は俺の言葉を聞いて真剣な顔を一瞬何故だか呆けさせた。それからうろうろと目を泳がせ、大きく首を振り意気込むように息を吸う。決意の表情がこちらに戻ってきた。
「雑用でも何でも任せてください!掃除とか力仕事とかなら俺、自信ありますよ!」
どん、と拳が勢いよくその胸に乗っている。よっぽど張り切っているのか頬が少し赤い。なるほど、恩返しのためにいつもの数時間も早く登校してきたのか。この男の律義さは筋金入りだ。教師として、人として当然のことをやっただけだ、なんて言っても素直に引き下がらないのは間違いない。
「……それなら」
「はい!」
「もう任せたやつがあっただろ」
「えっ」
まさか覚えてないのか。竹刀を自分の首に添わせて憮然と両腕を組んだ。炭治郎は見るからに慌てた様子で両手をばたばたと動かしている。
「すみません!俺、何か頼まれてましたっけ!?どうしよう、全然覚えてないぞ……今!今思い出しますから!」
「お前が言ったんだ。事故の日、何でも言えと」
瞬間、炭治郎の顔も耳も首も瞬く間に真っ赤になった。口は「え」の形だが音が出ていない。朦朧としていたのでもしや言った気になっていただけだったのかと思ったが、杞憂で済んだようだ。
「お、覚えてたんですか……!?俺は、てっきり事故のせいで混乱してるんだろうって」
「ええ」だとか「うわ」だとか意味を成さない呻き声が続く。尋常ならざる胆力を持つ男だが、こういうところは年相応の少年だ。思わず引き結んでいた口元が緩む。羞恥のせいか、潤んでいる炭治郎の目が開いた。両手がまたバタバタ動く。
「あの、俺、実は」
「大丈夫だ。十八までは結婚できないことは分かってる。その後でいい」
「いえ、その!言わせてください!俺は前から!」
炭治郎はまだ十五だ。突然結婚だのなんだのと言われても困るだろう。真っ赤になって慌てているのを見ている内にそんな当然のことに思い至った。一気に「前」のことを思い出したせいで俺も気が急いていたようだ。しかし落ち着かせるためにかけた言葉を遮られてピンとくる。これはまさか。
「もう心に決めた相手が居るのか?」
なんてことだ。竹刀が腕から滑り落ちて廊下にバタンと身を投げ出したが構っていられない。目下の両肩を両手で強く掴む。
「炭治郎!」
「は、はい……!?」
緊張しているのか、炭治郎の肩も表情も硬い。じっとその赫い瞳を覗き込み、耳元に口を寄せた。さすがに早朝の学校で教師と生徒が大声でやるような話ではない。
「卒業次第、その相手と結婚してくれ」
「えっ?」
間抜けな声に思わず身を起こす。真っ赤な顔で耳を抑えた炭治郎はぽかんとこちらを見上げている。何か戸惑うようなことを言っただろうか。既に相手が居るなら話は早い。喜ばしいことだ。
「式にもできれば呼んでくれ」
「えっと」
「恩師という程関わりが無いのは承知の上だが、貯金はある。多めに包もう」
「いえあの」
「心配するな。純粋な異性交遊は校則に違反しない」
正直なところ、神仏を信じられないような時もあった。憎んですらいたかもしれない。そんなものが居るなら、もっと失わずに済んだものが山程あった。
しかし俺には前世があって、こうして転生しているらしい。それも前世の多くのものを持ったまま。こうなってくると多少は神や仏の存在を信じざるを得なくなってくる。何か並みならぬ恩情をかけられてるんじゃないか。鬼のいない平和なこの世で、今度こそ悔いなく生きろと。
姉も失っていないし、歳こそ離れてしまったが錆兎とも親しく付き合っている。後の心残りと言えば──やはりこの炭治郎だ。ひとつ、言えなかったことがある。
「すみません、すごく混乱しているので整理してもいいでしょうか?」
「分かった」
しばらく押し黙っていた炭治郎は、言葉通り呆然とした表情だ。先程の赤い顔がどことなく青くなってしまっているようにすら見える。やはり性急すぎたか。
「先生は俺に結婚してほしいんですよね」
「ああ」
「……俺と誰かの結婚式に出たいんですね」
「そうだ」
始めからそう言っているが、何か誤解があっただろうか。もしくは嫌がられているのか。恐らくこの世界、俺のほかに「前」の記憶を持つ者は居ない。少なくとも炭治郎には無いように見える。最近は身内だけの小規模な結婚式が流行っているというから、そう親しくもない俺を呼ぶことができず困っているのか。
「芸は難しいが……スピーチくらいなら引き受けよう」
スピーチにも全く自信は無いのだが、苦肉の策だ。何を言えばいいか見当もつかないので、できれば来年か再来年に担任になることができれば有難い。
「炭治郎?」
しかし炭治郎は見るからに表情を萎れさせ、その場にへたり込んでしまった。不審に思いつつ後を追ってしゃがむ。ついでに廊下に取り落とした竹刀を拾った。
「そんなに嫌なのか」
さすがに少しばかり傷つくなと思った瞬間に炭治郎の顔が上がる。そういうわけじゃないんです、と大声。匂いで心を読まれた気がする。
「ちょっと落ち込んでしまって……俺、あんまり見込みがないみたいで……」
「見込み」
やはり炭治郎には既に心に決めた相手がいるようだ。けれどまだ相手と心を通わせたわけじゃないらしい。しかもどうやら難しい相手だ。そこに俺が結婚しろなどと急かすから気落ちしているということなのだろう。なるほど。悪いことをした。だが俺からしてみれば、何を無駄なことに頭を抱えているんだというところだ。
「お前を好きにならない者などいない」
炭治郎は黙って俺の言葉を聞いている。不思議そうな顔にも見えるし、食いつかんばかりに凝視されているような気もする。柄にもなく緊張して一旦言葉を切った。
「誰にとっても、お前と一日、一秒でも、共に居られることは幸せだよ」
これこそ、言ってやりたい言葉だった。
「前」で、俺は姉の祝言を見ることができなかった。それが心残りの根底にある。俺は多分、炭治郎を気づかない内にごく近いところに置いていたんだろう。家族と言ってしまいたくなるくらいの近さだ。俺は炭治郎が祝言で照れたような、しかし幸せそうな笑みを浮かべている姿を見たかった。残った仲間たちに笑顔で祝福されている姿を見られたら、それだけで幸福に満たされる確信があった。
「純粋な同性交遊も校則に違反しないんでしょうか……」
けれどそれは最後まで口にすることができないままだった。炭治郎の躊躇いを感じていたからだ。きっと、「痣」の代償によって時間が限られていることを、それによって誰かを残して悲しませることを、炭治郎は恐れていた。
「何か言ったか?」
「いえ」
すっかり「記憶」に沈み込んでしまっていた意識を戻すと、炭治郎はもう情けない表情をしていなかった。俺の言葉が多少は効いただろうか。だったらいいが。膝を強く押さえ込んで立ち上がる。そろそろ校門に風紀委員もやって来ている頃だろう。
「先生。俺、先生のために頑張ります。だから、手伝ってもらえませんか?」
後を追って立ち上がった炭治郎の言葉に引き留められて振り返る。炭治郎の笑みはいつかも見た笑みだ。
「俺がその人と結婚できるように」
あの戦いの後、穏やかな時間を共に過ごした時にたまに見る、どこまでも優しい表情だった。
「……っていう設定!どう?最高じゃない?出てくる女の子はぜーんぶ善逸のこと好きになっちゃうんだよ!でも最後には禰豆子とラッブラブになってハッピーエンド!どうしよっかなー!?やっぱり投稿するならジャンプかな!?」
「アンタさあ……」
ラーメンを啜っていた箸を盆の上にカタリと戻し、燈子は初めて善照に目を合わせた。目から寒波が出てるんじゃないかってくらい冷たい目だったが、一応は見てくれた。
「ひいおじいちゃんたちの名前使ってそんなつまんない話考えて、恥ずかしくないの?謝った方がいいよ?」
「低いテンションですごくえぐってくる!!」
相変わらず燈子は善照に微塵も容赦がない。ついでに厨房からこちらを睨みつけてくる旦那さんも容赦がない。この店は学生が多いから多少賑やかなのはいつものことなのに、善照にだけどうにも世間は冷たい。でもこの店の奥さんはメチャクチャ可愛い。
「大体アンタマトモな絵描けないでしょ!?妖怪マンガとかのほうがよっぽど向いてるんじゃない!?」
「それは姉ちゃんも一緒だろ!?」
「何よ」
「……いや、なんでもないけど」
世の中の姉という姉は本当に理不尽だ。本当のことを言っただけで光線が出そうな目で睨まれる。半泣きで日替わり定食の味噌汁をずりずり啜り、正面に座る幼馴染に助けを求めることにした。
「なあカナタはどうだ?名作の予感がするだろ?」
燈子が詰まってしまったというパズルゲームを代わりにプレイしていたカナタが顔を上げた。何だかんだ言ってカナタは面倒見がいい。全然興味無さそうな顔をしていつも一応話は聞いていてくれるのだ。燈子以外の前ではあまり動かない表情がめずらしくにっこりと笑顔になった。
「燈子の絵は、味があって俺は好きだよ」
「カ、カナタ……!」
まあ、燈子のことだったので笑っただけだったのだが。真っ赤になった両頬を両手で押さえた燈子はカナタに熱視線を送っている。カナタもそれをニコニコと見下ろしている。善照にできることは歯ぎしりで素敵なBGMを添えてあげることぐらいだ。
「お前らがそんなんだから……!そんなんだから……!!絶対に俺はこの学園ラブストーリーを完成させて六千万部くらい売れてやるんだからな!絶対に!」