文字数: 6,907

冨岡義勇は忙しい (冨岡義勇)



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=13606347

 夜の中には必ず鬼が居る。この世の全ての陽の当たらぬ暗闇から、断っても断っても無限に這い出てくる。義勇がもし一瞬立ち止まれば、その間に幾十、幾百が死ぬ。

 ギャア、耳に障る甲高い悲鳴。異能の無い鬼だが、鉤爪の付いた大きな両脚で跳躍して逃げ回っている。旅人の多く行き交う街道に住まう鬼。旅路を急ぐ人が少し欲を出して星月の明るく照らす夜の道を強行したところを襲う。今日も空は満月だ。鳥の目のようにぎょろりと丸い目玉が血走っているのがよく見える。

「お前、お、おおお前俺、俺をそんなにあっさり殺していいのかァ?」

 姦しい鳥のように不快に語尾が上がる話し方だ。血のだらだら流れる肩を押さえながら、義勇の間合いの際にある木に背を預けている。

「俺は喰ったぞ。たくさん喰った。若い女が一番柔くて美味いから里の女はみいんな、ハハ、喰ってやったァ!」

 唾を飛ばして威勢良く叫んだ鬼は、義勇が一歩踏み出したのを見てまた跳躍した。異能は無いが、申告通り人を多く喰っている。肩の傷はたちまち癒えたらしい。だがそれだけだ。力量差は歴然としている。鬼は義勇から距離を取るように両手を前に付き出し、そして地べたに膝と両手を付けた。項垂れて項を差し出すような格好だ。

「……そんな俺が、簡単に死んでいいのか?」

 か細い、懊悩するかのような声。一丈を一歩で跳躍し距離を詰めた瞬間、鬼がガバリと顔を上げた。

「もっと、苦しむところ見たいだろ?」

 醜い笑顔だ。鳥が嘴を開いて鳴き喚くように大口を開けて男は呵々と笑う。

「分かる、ハハ、アハハ、分かるぞォ、俺も、大好きだ!女が泣いて!ギャアギャア騒いで、苦し」

 ヤケを起こしていたのか、姑息な手段を隠していたかは分からない。鬼の頸は確かに断たれ、体もろともぼろぼろ崩れ落ちていった。これだけが結果だ。化け物は人間の言葉を語らない。人間の言葉を借りるのは、人間を謀って食うためだ。

 浩々と輝く満月は未だ空高くにある。鬼が崩れ去るのを見届けることなく背を向け駆け出した。バサバサと緩慢な羽音を響かせるのは本物の鳥だ。義勇の肩にしがみつくように降り立つ。

「義勇、任務……任務ジャ……北東ノ鷹見村……」
「……それはもう終わった」
「鷹見村ニ向カエ……」
「終わった」

 そもそもその指令を受けてここに居る。村では女が行方不明になったり無惨に殺されたりしており、今ではその被害が街道へと及んでいるという話だった。終ワッタ、鴉は不思議そうに首を傾げる。

「ソウカ……ワシノ見込ンダ通リノ剣士ジャ……」

 思わず走る速度を緩めそうになった。その言葉を以前も聞いた覚えがあったからだった。刀は折れ、服も体もボロボロにやられてしまった散々な戦いぶりを見てこんなことを言うものだから、随分とぼけた鴉だと思ったものだ。今ほどで無いにしても、この鴉には昔からとぼけたところがあった。

 鴉を引き連れ、時々明後日へ飛び立とうとするのを止めながら、来た道をそのまま北東へと進んでいく。山をひとつ超える最中に弱い鬼を一匹、小さな里で暴れ回る鬼を一匹斬り捨てて二つ目の山に入った。

 山の中腹あたりで夜明けを知る。木々の隙間に見る尾根に光の線がつうっと引かれたのだ。鬼のものだった夜に鳥の声が、虫の音が生まれる。草木が風に揺れ、朝の冷えた空気が肌を舐める。

「報告頼む」
「ウム」

 しばし同じ方向を向いて黙っていたが、義勇が声をかけると鴉はゆっくりと中空に舞い上がり、ひとつ旋回して南へと飛び去って行った。各所に連絡用の拠点があるので力尽きることは無いだろうが、最大の心配は途中で遣いの目的を忘れることである。

 崖に沿う峻険な道を選んだのは人目を避けるためだ。怪我は無いが、里を襲っていた鬼がこちらの攻撃を躱すため、喰いかけていた人の体を投げて寄越したのだった。温い血に塗れた感触が残っている。髪の先や顔、首元や羽織にはところどころ赤黒い血の跡があり、鼻の中には乾いた血の錆びた匂いがこびりつく。

 川に出たので水を浴びることにした。人目が無いのをいいことに服を脱ぎ、羽織と共に初秋の冷えた川へ身を沈めた。羽織から肌から毛先から、水を茶色く濁して血が流れ落ちていく。冷えで指先が痺れ始めたところでのしのしと岸へ戻った。羽織と髪をよく絞り、手ぬぐいで体を拭いて隊服を着こむ。縄を木々の間に張って羽織を干し、その下で火を起こししばし暖を取ることにした。硬くなった握り飯を竹皮からぺりぺり剥がして腹に入れる。鼻の中に残った血のせいか鉄錆の味がした。

 剣を抱え、片膝を立てて目を閉じる。周囲に人や獣の気配が無いことを確かめ、深い呼吸を繰り返す。ぱちぱちと寄木が燃える音と匂い、川がしゅろしゅろと流れる音。

 ふと気配を感じて目を上げた。鴉が旋回している。やっぱり何をしに行ったか忘れたのだろうかと案じたが、すぐに自分の鴉でないことに気が付く。力強い滑空を見せた若い鴉は義勇の鼻先でピタリと止まってカア、と誇らしげに鳴いた。毎度のことなので特に驚きもなく突き出された脚から文を解いてやる。昨晩斬った鬼のことを思い返しかけ、重ねるのも失礼な話なのでさっさとやめた。

「ご苦労」

 首の辺りを指先で撫で、遣いが終わったことを教えてやる。鴉はできるだけ隊士に付いているべきものだ。いつ何時その隊士に任が下るか分からない。カア、再び一声鳴いて鴉は南へと飛び去って行く。文の送り主も南西に居るらしい。

 丁寧に折り畳まれた文を開き、ざっと目を通して大事の無いことを確かめ、再び折り畳んで懐にしまった。まだまだ自分は力及ばぬので精進します、ということだった。立ち上がって火から離れる。虚空に向かって構えを取った。壱ノ型、水面斬り。弐ノ型、水車。参ノ型、流流舞い。型は全ての基本だ。一日も欠かしたことは無い。

「義勇……知ラセジャ……」

 日が中天を過ぎすっかり陽気に包まれた頃、よろよろと鴉が戻って来た。肩に乗せてやり、その脚の文を解いた。文章を一往復して読んだ後は火に投げ入れる。生乾きの羽織に袖を通し、火を消してその場を後にした。

 東へと方向を少し変えて山を下り、数刻かけて町へと入った。洋式の屋敷や店も入り混じるそこそこの大きさの町だが、活気が無く静まり返っている。夕暮れ時、誰もが声を潜め足早に家へと逃げ帰っていくのだ。

「よ、よくおいでくださいました」

 藤の家紋を持つ家からの文を通して招かれたのは、町の中でも一際古く、一際大きな屋敷だった。迎えに出たのは三十過ぎほどに見える女だ。髪はまとめ切れておらず乱れがあり、体は痩せ細り、落ち窪んだ目はきょろきょろと畳の縁を彷徨う。

「我が家、はここらの地主、でして」

 どこか覚束ない口調。震える手で押し出された湯飲みと茶請けをただじっと眺めた。湯気越しに目が合うと、女は怯むように目を逸らす。

「多くの者が行方知らずとなりました。この家で働いていた者たちも、ち、父も、母も……」
「俺は」

 ただ言葉を遮っただけだが、女は過剰なほど大きく肩を揺らした。手をぎゅっと握り合わせ、浅く呼吸を震わせる。

「鬼が居ると聞いて来た」

 担当する区域で鬼の情報を収集するのも柱の責務だ。藤の家紋の家の多くがそれに手を貸している。文にはこの家の不審な噂と、やたらと鬼のことを知りたがる女について書かれてあった。

「鬼を見たことの無い者が、簡単にそれを信じることは決してない」

 長居するつもりは無い。答えが無ければ一人でも動く。その意志を女は正しく感じ取ったらしい。苦しげに唾を飲み、よろりと立ち上がった。付いて来るように促され、刀に手を触れたまま後に続く。

 大きい割に人の気配が全くしない屋敷だ。きしきしと廊下を踏む女の足音がやたらに響く。いくつもの間を横切り、角を曲がり、渡り廊下を渡った先の離れ。屋敷の最奥だ。物々しい錠のかかった戸に触れ、女は動きを止めてしまった。肩が震えすすり泣きを始める。その声の隙間、オオオ、オオオオ、と怨嗟のような唸り声が混じり始めた。迷わずに刀を抜き、女に触れぬよう斜めに戸を斬りつける。

「いや!待って!」

 手を伸ばしてきた女より早く、戸の向こうにある地下への階段へ飛び込んだ。地に足を付けた瞬間に飛び掛かってきた大男の頸を迷わず断つ。

「ああ……あ……いや……」

 とっ、とっ、と弱々しい足音が後から続いてきた。男の体が音もなく崩れていく代わりに、嗚咽が地下の室内に響いている。斜めに切り取られた戸口からほとんど夜に染められた夕日が入り、いくつもの骨や肉をぼんやりと照らしている。

「あ、兄……兄、です……兄なんです……ああ……」

 鬼に対し、ただの人間が取ることのできる対抗手段は藤の花くらいのものだ。どれだけ堅固な牢や拘束も鬼の前では役に立たない。しかしこの鬼は大人しく、この地下蔵に引き籠っていて、与えられる「食事」だけを摂ってきたらしい。

「優しくて、頼りになる、本当に、私の……」

 泣き崩れる女に声はかけなかった。この鬼は何の罪のない人々の命を奪った。それより他には何もない。地上を見上げれば、端の少し欠けた月が夕日の名残のある紫色の空にぽっかり浮かぶ。また夜が始まった。

 夜の中には必ず鬼が居る。この世の全ての陽の当たらぬ暗闇から、瞼の裏にある影からすら、断っても断っても無限に這い出てくる。それで今日も義勇はまた、幾十、幾百殺しながら夜明けまで駆けている。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。