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やねうつら (炭義禰パラレル)



 うつらうつら、眠りと目覚めの間を彷徨いながら雨の音を聞く。昔から雨の朝は少し苦手だ。特に深い意味はなく、単純に朝日の光が届かないのではっきり覚醒できない。子供の頃から夜の寝つきが悪く、どうにも朝に弱かった。特に、起きるべき理由が無い日には尚更覚醒が遠くなる。休日の雨の日ともなれば頭がずしりと重くなって枕から一向に上がらない。瞼が途方もなく重くて目も開かない。俺には「 」が無いとだめだ、とぼんやり思う。いつも漠然とした焦燥とともにそう思って枕元を探るように手を動かしてしまうが、当然何も無いので力尽き、そのまま昼前まで二度寝する。それがいつものことだったが、今日は違う。何かが腕にぱさぱさ触れてくすぐったい。んんん、呻いてなんとか瞼を押し上げれば間近に瞳があった。薄暗い部屋でぼんやり光る桜色にぎょっとして眠気が吹き飛ぶ。少女がこちらを覗き込んでいる。腕に触れたのはその少女の長く艶やかな髪の先らしく、今はそれがちくちくと頬に触れている。

「わあ、おはようございます」

 花が綻ぶように、という言葉はこういう時に使うんだろう。何せ春だ。
 寝ぼけた頭でうっかり感心してしまうくらい可憐な笑みだった。悪びれた様子が微塵も無い。この部屋に住み始めて二週間、たくさん居すぎて名前が未だに頭に入っていないが、世話になっているこの家の子供たちのうちの一人だ。女は二人だったはずだから長女のほうだろう。髪が長いほうが長女、で覚えた。確か五年生だとか聞いたはずだ。

 大学入学に合わせて家を出ると決めた時、姉に強く反対されてしまった。実家はそれなりの広さのある一軒家だが、交通の便が良く大学に通えないほど離れているわけでもない。学生のうちは無駄に金を使わずとも、というのがその主張だ。しかし義勇が家に居ると、姉はどうしても「母」の役割をこなそうとしてしまう。これまで苦労させた分、一日も早く姉らしく暮らしてほしいという気持ちが勝った。姉にベタ惚れの恋人をこれ以上待たせるのも不憫だ。いつもは丸め込まれるところをなんとか持ちこたえ、やっと見つけ出した妥協点がこの下宿である。パン屋の屋根裏部屋。天井は低いが広さがあり破格の値段。食事も時間が合えば一緒にどうぞ。ただ、力仕事がある時などに手伝ってもらえたら嬉しいんです。好条件に好条件が重ねられ、更にそこに義勇の助けが求められてもいると知り、姉はついに了承した。そして家主である葵枝と瞬く間に親しくなった。そのためにこの話を承諾したのではと疑いたくなるほどに。

「当たる。髪が」

 ともかく、寝起きをじろじろ見つめられるのは居心地が悪いので距離を取らせることにした。腕を緩慢に上げ、顔に当たっている髪の先をのれんのように遠ざける。ごめんなさい、少女は眉を下げてしおらしく謝り、身を引いてベッドの隅に両腕を組んでその上に顎を乗せた。ベッドに広がる髪の先と合わせて見ると、待てと言われた子犬みたいに見える。犬は得意ではない。ごろりと寝返りを打って背を向けた。頭がまだぼんやりしているので、こういう時にどうすべきか一人静かに考えたい。

「起きないんですか?」
「……休みだ」
「でも、朝ごはんに休みは無いでしょう?」

 しかし少女には一向に立ち去る気配がない。どうやら義勇を朝食の席に着けたいらしい。
 仲の良い六人兄弟の子供たちに囲まれての賑やかな食卓。姉を安心させたこの聞こえのいい条件に義勇はどうしても馴染める気がしない。目まぐるしく変わる話題の隙間から、ちらちらと好奇心旺盛な十二の瞳が寄越され、食べる姿を始終観察されているのはさすがに居た堪れない。何かを期待されているような気もするが、静かな食卓に慣れ切った義勇には何を求められているのかさっぱり見当もつかない。そもそも食べながら話せない。そういうこともあって普段、外で食事を済ますことが多い。葵枝にはその旨を事前に伝えてある。ただ、その時に見せられる眉の下がった寂しそうな笑みがまた何故だか気まずさを募らせる。

「もう八時ですよお」

 背中越しの少女の囁き声は歌うようだ。義勇の複雑な気持ちなど当然に察した様子はない。間髪を入れずキシとベッドが小さく鳴った。体が後ろに引かれるような振動に、思わず首だけを捻り振り返る。少女がベッドに膝をつけ身を乗り出していた。髪をひとまとめにして肩に押さえつけ、嬉しそうな笑みで義勇を覗き込んでいる。光源は雨の朝の陰鬱な窓明りだけだというのに、瞳に光が弾けているのがありありと分かった。肩に鼻先がつきそうなくらい熱心に眺められている。

「近い」

 思わず呻くと、少女はまたごめんなさいとしおらしく謝った。しかし今度はなかなか身を引こうとしない。眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。眉が下がったが笑みは崩れないままだ。

「うちにいるのが不思議だなあって、思ったんです」

 キシ、と少女の体重を受け止めてベッドが鳴る。子犬は今度は子猫になって、音もなく義勇の肩に顎を乗せた。子供らしい熱の高さで小さな手が背に触れる。猫も苦手だ。動物という動物は苦手だ。何を考えているか分からない。次の行動が読めない。なのに守るべきでか弱い。

「こんなにきれいなのに」

 少女も同じだ。理解を超えてる。もう何を言っているのか考えるのも諦めて、ぼうっとその長い睫毛を見上げた。やっぱり花が綻ぶように笑う。春のような少女だ。瞳も桜の花びらで染めてある。その大きな瞳が段々近くなるのを綺麗だと思ってただ眺めていた。

「禰豆子!」
「わあっ」

 そして、間近で上げられた大声に思わず肩が跳ねる。何かと思えば少女の胴に細い腕が回って、その体を義勇から易々引き離していった。少女の肩に、少女とよく似た愛嬌のある丸い顔が乗っかっている。これはこの家の長男だ。炭治郎と言う。顔を合わせる度に何故か自己紹介を繰り返すので覚えてしまった。そして少女はそう、禰豆子だ。確かにそんな名前だった。

「びっくりしたあ」
「びっくりしたあじゃないだろ。何してるんだ?」
「冨岡さんを起こそうと思って」

 禰豆子を背中から抱きかかえたまま、呆れた笑みで事情聴取していた炭治郎は、くすぐったそうに笑う禰豆子から目を逸らして義勇を見下ろした。こちらの目も丸くて大きい。そして薄闇の中にも明るい輝きを弾けんばかりに宿している。

「おはようございます、冨岡さん!」

 こちらは熱された鉄がとろりと熔けるように笑う。同じ兄妹でも色味が違うらしい。炭治郎の瞳に春という印象は見当たらない。夜の中で燃える焚火のように優しく赫い。

「もう起きてるじゃないか。いたずらしようとしたんじゃないか?」
「そんなことしないよ」
「本当かあ?」
「あはっ、はは、ほんと、本当です!もお、お兄ちゃん私のことまだちびっこだと思ってるでしょ」

 炭治郎が禰豆子の脇をくすぐると、禰豆子が心底おかしげに笑いながら身をくねらせた。笑う度に花びらが散るようにけらけら笑う。すると、いつの間にかくすぐっている炭治郎もおかしくなってきたようでくすくす笑っている。それを真下で受け止めているのもなんだか妙な感じだ。無視して寝入ることも許されそうにない。仕方が無いのでのっそりと上半身を起こす。

「しょうがないよ。だって禰豆子、ついこの間までこーんなに小さくって。ね、冨岡さん」

 ね、と言われても知らないが。禰豆子の両脇から伸びた腕が赤ん坊を抱くような動きをして、いつの話なの、と禰豆子が呆れてまた笑っている。まだ回らない重い頭を支えるように手を当ててこめかみを摩る。その時、あっと炭治郎が声を上げた。禰豆子ごと身を乗り出してくる。

「跳ねてます」

 小さな手が伸びてきて耳の後ろあたりに触れた。髪に指が通って丁寧な手つきで梳かれている。元々癖毛だから多少の寝ぐせくらいはもう気にしていないのだが、そう思いつつ上げた目の先には手つきと変わらないくらい柔らかい目があった。

「冨岡さんってなんだかかわいいですねえ」

 やっぱり熱された鉄がとろりと熔けるように笑う。焚火のような少年だ。黒い瞳の底に温かい火が揺れている。お兄ちゃん?不思議そうな妹の呼びかけに答えず、炭治郎はなお身を乗り出した。それから髪を梳いていたあたりにくっついて、すぐに離れていった。子供らしい高い熱が柔らかく触れた感触だけが残る。

「そうだ!義勇さん!義勇さんって呼んでもいいですか!?」
「いいなあ、私も呼びたいです!義勇さん!」

 一体今のは何だったのか。それを気にすべき気がしたが、兄妹のどちらも何事も無い様子なので大したことでも無いのかと思い直す。この家の子供たちは互いに触れ合うのをよく好むようだから日常のことなのだろう。そして義勇はここに下宿する以上、多少はそれに慣れていかなければならないのだ──ようやく頭が覚醒してきた。

「別に、なんでもいいが……」
「わあ!ありがとうございます!」

 義勇さん、義勇さんと高い声に口々歌われながら片腕ずつを取られる。すっかり逃げ道を封じられたので大人しくベッドから降りて立ち上がった。はー、ため息一つ。何故かきゃらきゃらと楽しげな笑い声が上がって戸惑いが深くなる。子供のツボはよく分からない。

「朝ごはん冷めちゃいます!行きましょう!」
「今日はメザシがあるんですよ!お客さんが居るから!」

 兄弟が多いとこうなるものだろうか?雨に暈ける薄暗い屋根裏から這い出しながら、眠気の残る頭で首を傾げた。

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