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零れる、拾う



「ふうん」
「あの……宇髄さん、聞いてました?」
「聞いてたが……あんまり地味な話だったんで呆れてんだよ」

 柱稽古の後の夕餉時、俺は宇髄さんの奥さんたちが作ってくれたおにぎりに食らいつきつつ先日行き遭った鬼の話をしていた。辺りは騒がしくて、どの隊士たちも競うようにおにぎりに食らいついているけれど、宇髄さんの周りに居るのは俺だけだ。まあ、稽古中の宇髄さんの言葉はすごく厳しいから、一緒に任務をしたことがないと近寄りがたく思ってしまうのは仕方ない。

「地味、ですか?結構色々大変だったんですけど……」
「お前が相談してんのは冨岡の機嫌をどう取るかなんだろーが。放っとけとしか思わねぇ」
「うんん……」

 なんだかすごく簡単にまとめられてしまったぞ。違うと言いたいけれど、どう違うと言えばいいのかまとめるのが難しい。そもそもあの後、義勇さんはいつも通り何も変わらない態度だった。怒っている匂いもしなくなったし、鱗滝さんに無事禰豆子を預けて別れる折に、励めとまた言ってくれた。

 俺の気が済んでないってことじゃないかと思う。そして義勇さんは逆に気にもかけてないということが匂いで分かってしまうのも寂しいんだと思う。義勇さんの瞑想のように、あの日の鬼の術のように、俺に向けてくれた心配や叱咤が剥がれて、捨てられてしまったんだろうか。そうすると気が楽なのかな。それは寂しいな。大体剥がれていても、感謝はすべきだし。でもそれが義勇さんの強さだと言うなら、蒸し返すべきでないのか……ううん、考える程分からなくなっていくぞ。

「ま、お前には色々と借りがあるからな」
「ええ?ありませんよそんなの!俺は宇髄さんに借りっぱなしですけど!」

 宇髄さんは俺の言葉を全然聞いたふうもなく、奥さんの一人──まきをさんを呼ぶと、何事かこそこそと頼んだ。まきをさんは心得たふうに笑顔で頷いて、すぐに小さな小瓶を持ってきて俺に差し出した。

「俺の里の秘蔵の生薬だ。滋養にいい」

 黙って持って行け、と懐に押し込まれて今に至るわけで。

 俺はついに悲鳴嶼さんの稽古を突破して義勇さんの道場まで辿り着いていた。義勇さんの稽古は前に言っていた「間合いを広げる」ための鍛錬のようだ。これまで身に着けてきた力や技、速さを一番いい順番、いい場所で繋げていく。まるで川の水が流れやすい土を知っているみたいに。

 頭では分かっている。「隙の糸」も似たような感覚だから理解はできる。でもこれを実践するのが難しい。本当に難しい。義勇さんはこれを雨の日の鍛錬の時に「雨を斬れることに気づいて」会得したと言っていたけど、そんな境地に辿り着けるのかさっぱり分からない。でもやるしかない。

 体よりも頭が疲れてへろへろになっているところに夕餉を差し出してくれたのは、なんと後藤さんだった。禰豆子を鱗滝さんに預けに行く時に義勇さんの屋敷に居た隠の人たちは引き続き義勇さんの手伝いをしているらしい。膳を並べてこれまでの稽古について語って聞かせていたら、君が来たら食事が一気に明るくなったね、と同じく隠の平戸さんに言われた。義勇さん、喋りながら食べられない人だからなあ。

「ということであの……これを……」

 これまでの稽古の話も一通りして、膳の上もほとんど空になっている。そろそろ頃合いかと思って膳の下に潜ませていた小瓶を義勇さんに差し出した。義勇さんの匂いは今日も戸惑っているのが分かるけど、俺はどうしても受け取ってほしい。

「何故だ。俺は病でも何でもないが」
「来るべき戦いに備えて、力を付けるにはこれだ!俺も毎日飲んでる!って宇随さんが」

 匂いに頼らなくても分かっている。義勇さんが知りたいのはきっと、この薬の効力なんかじゃないだろう。何故俺がこんなことをしたいかだ。一言で言うのはとても難しい。お世話になったお礼な気もするし、生意気なことを言ったお詫びなのかもしれない。俺は義勇さんをじっと見上げてなんとか言葉を探すことにした。

「俺はあの時、自分の気持ちばかりで、義勇さんが心配してくれたことに思い至りませんでした。やっぱり俺はあの時、判断を間違ったとは思いません。でも、義勇さんに感謝しています。それに、義勇さんが間違っていると思ったことがあるなら、また教えてもらいたいと思います。だから──」
「もういい」

 ふう、義勇さんが息を吐くと呆れたような匂いが香った。手が伸びてきて、手の中からあっさりと小瓶が消える。

「もらう」

 ぽかんとしている内に義勇さんは栓をぽん、と抜いた。え?今もうここで飲んじゃうんですか?いや俺の差し上げた物なんでいつでも義勇さんのいい時でいいでしょうけど──などとつらつら思っている途中ではっとした。これは、この匂いは覚えがある匂いだ。

「あっ」

 でも気づいた時には時遅く、義勇さんは男らしくぐいっと一気に「生薬」を煽っていた。白い喉仏がごくりと動く。あわあわと両手を動かすが、それで時が戻るわけもない。

「炭治郎」

 小瓶の中身を飲み干した義勇さんの顔は何一つ変わっていない。いつも通りの無表情だけど、わずかに怒った匂いがする。それから。

「これは酒だな」
「は、はい!!」

 お酒の匂い。俺は思わず床に両手をついて義勇さんを見上げていた。なんてことだ、これは本当に本物のお酒の匂いだぞ。父さんにと少しだけ分けてもらった薬酒の匂いを前に嗅いだことがあるから、はっきりそれとは違うと分かる。宇髄さん、どういうことですか。そりゃあ、お酒は薬だって言う人もいるけれど。

「すみません!!わざとじゃなくて、いやでも俺がちゃんと確認してさえいれば……!」
「いい、どうせ揶揄われたんだろう」

 義勇さんから呆れた匂いが濃くなった。どうやら少し怒っていたのは宇髄さんに対してみたいで、それもすぐに気にならなくなったみたいだ。でも直接これを手渡したのは俺だし、やっぱり俺が悪いだろう。すみません、本当にすみません、と謝り倒すしかないが、もういいと言った、と面倒そうな匂いと共に言われるとそれもできなくなる。

「少し寝て、呼吸で酒を抜く。いつ何があるか分からない」
「はい……すみません」
「悪いと思うならここにいろ」
「はい!……えっ!?はい!?」

 罪悪感のまま勢い良く返事をしたが、一体何を頼まれたのか頭で理解できない。義勇さんはそんな俺に気づいたふうもなく距離を詰めて頭を傾けた。ぽん、と肩に重みがかかる。

 酔っている。これは絶対酔っているぞ。顔からじゃ全然分からなかったけど。義勇さんはあんまり人に近づかれるのが好きではないみたいだ。俺が必要以上に近づくといつも困った匂いをさせる。義勇さんが俺に近づくことはあっても、こんなふうに義勇さんから距離を詰めてきたことはない。どうしようかとわたわた身じろいでいると、頭が肩にぐっと押し付けられた。

「弟弟子だろう」
「は、はい!」

 思わず咄嗟に返事をしたけど、全然意味が分からないぞ。なんで後藤さんたち、そんな目で俺を見るんですか。静かに膳を引いて去っていくんですか。何か言ってください。

 部屋は二人だけになっていた。すごく静かだ。義勇さんの呼吸の音と、外の竹林が風で騒ぐ音だけがする。義勇さん、俺と同じで癖毛なのかな。首筋に少し当たっていてくすぐったいけど、身じろぎひとつもできないで固まっている。そう言えば、俺が言ったんだっけ。弟弟子だから俺が寝ずの番をするって。覚えていてくれたんだ。

「俺も、未熟だ」

 ぽつ、と雨が降り始める最初の一滴みたいな声だった。

「情けない」

 そんなことないです、咄嗟に言いそうになった。でもこの人は錆兎の話を前にしてくれた。それを思い出してなんとか押し留める。俺がどう思っているかはきっと関係ないんだ。義勇さんは自分のことを未熟で、情けないと思っている。空の猪口にお酒を注いで、数滴零すみたいにそれが今落ちてきたんだ。

「……分かります。俺も、自分が情けない」

 正座の膝の上で拳をぎゅっと握った。おこがましいことを言っているかもしれない。でも俺も、いつもその悔しさを感じている。それをとにかく伝えたかった。その悔しさをバネに一日一日強くなっていく覚悟は変わらないけど、心の痛みや苦しさが消えるわけではないから。

「お前は違う」

 義勇さんの声が、匂いが、少しだけ揺れている気がした。頭がぐっとまた肩に押し付けられる。

「炭治郎、お前は誇れ。その心根を。俺もお前を」

 義勇さんは後を続けなかった。きっと義勇さんの中で話はここで終わりだ。だから俺はその後の言葉を自分で想像するしかない。でも好き勝手に想像してもいいものだろうか。何か、途轍もなく褒められているようにしか思えない。

 捨てているんじゃないんだ。
 この人は戦う時に大切なものを壊さないように遠くに置いているだけなんだ。
 それをふとした時こうして戻してきて、俺に少しだけ見せてくれているんだな。

 俺はそういうことに気づいて、何故か少し泣きたくなった。でも今は万一の時のために義勇さんの命を預かっている身だ。ぐっとこらえて姿勢を正す。呼吸で体温の上がった義勇さんの熱が零れて、触れた肩から染み入っていた。

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