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零れる、拾う



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11870077
※ 時系列15巻あたり

「ここに詰まっているものを、一度全て捨てる」

 義勇さんは俺の額に、とんと指を当てた。秋の空気に冷えたひやりとした指にぴくりと小さく肩が揺れた。気づかれただろうか。未熟が恥ずかしい。

「見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、思うもの。それも捨てて、空にする」

 集中のために引き結んでいた口を開いて大きくはい、と返事をする。義勇さんの匂いは揺れない。元々、すごく気を付けていないと嗅ぎ分けも難しい人だ。いつもみたいな、夜明け前の空のような目で俺を静かに見下ろしている。

「それで、間合いを広げる。やってみろ」

 何でもないことのように言って義勇さんの気配は掻き消えてしまった。よし、と気合を入れて呼吸に意識を集める。

 復帰許可の出された日まではあと一日。無理をすることは許されていないけれど、添え木も包帯も外れて、軽く慣らすぐらいなら動いても構わないとしのぶさんに言われた。あんまり嬉しくて蝶屋敷の力仕事を引き受けに受けたところで、アオイさんに見つかって仕事を奪われてしまった。こんな時くらい休んでいたらどうですか、と眉を吊り上げて言われた言葉は強くても、漂う匂いはうらはらに優しくて、不安げで気づかわしげで、とてもじゃないけど逆らえない。

 だからと言って、すっかり癒えたとしか思えない体でじっとしているのはやっぱり落ち着かない。これからどれだけの猶予があるかも分からないのに、そんな予感に胸がざわつく。あれだけ出没していた鬼がすっかり鳴りを潜めるなんて。何かに備えているのか。禰豆子を狙って。だめだ、じっとしていると悪いことばかり考える。

 とにかく外へ出ることにした。向かう先はひとつ、義勇さんの屋敷だ。禰豆子の様子見と、しのぶさんの診察のために昨晩は蝶屋敷に戻っていたけど、ここ五日ほどすっかり寝食まで厄介になっていた。厚かましいとは分かっているものの、始めはお館様たっての願いを叶えるために必死だったし、錆兎の話をしてからは少しだけ言葉を増やしてくれるようになった義勇さんが嬉しくて、ついつい引っ付き虫になってしまう。

「ごめんくださーい!義勇さーん!俺です、竈門炭治郎が参りましたー!」

 返事がないのもすっかり慣れっこだ。失礼しまあす、掛け声ひとつで門戸をくぐる。すん、と鼻を利かせると庭先の方にいくつか人の気配がした。これまで義勇さんの微かな匂いしか感じたことが無かったから意外に思いつつ、ひょっこり庭に顔を出した。

「あっ、お前」
「後藤さん!」

 馴染みの顔──と言っても隠の人は顔を布で覆い隠しているから、馴染みの目と言ったほうがいいのか?ともかく縁のある隠の後藤さんだ。駆け寄ると、他にも二人の隠の人が庭先で何か手仕事をしているようだった。傍らに積まれているのは畳表や荒縄に竹。なるほど、鍛錬に使う巻藁を作っているんだ。

「お前な、俺じゃなくて冨岡様だろまずは」
「義勇さん、こんにちは!」

 縁側に腰かけていた義勇さんは静かにひとつ頷いた。表情はやっぱり変わらないけれど、毎日見ているといつもより少しだけ表情が柔らかくなったのが分かる。前のように怒った匂いや戸惑う匂いも感じない。それがまた嬉しくて、失礼しますと腹から声を出して隣に腰かけた。後藤さんが何故か物言いたげな顔で俺を見ていたけれど、どうしたのかと首を傾げても結局何も言われなかった。

「巻藁ですね」
「ああ。数が要るから、手を借りている」

 冨岡様、と声をかけられた義勇さんは隠の人の手にある巻藁に触れて、強度を確かめた。それから荒縄を一度解いて、少し手間だが同じようにしてくれと結び直している。どうやら仕事を頼むための打ち合わせの場だったらしい。

「義勇さん、鍛錬を増やすんですか?」
「俺も増やすが。柱稽古には必要だろう」

 そうですよね、と相槌を打ちかけて止まった。ん?今、この人は何て言った?俺がじっと顔を見つめたまま固まったせいか、義勇さんからじんわり、嗅ぎ慣れた困った匂いがする。

「義勇さんも柱稽古に加わるんですか!?」
「……そう言っただろう」
「言ってませんよ!?初めて聞きましたよ!?」
「そうだったか……?」

 そうだったかもな、義勇さんの言葉の調子は相変わらず淡々だ。義勇さんにとって言ったか言わなかったかは大した問題じゃないんだろう。決めるのは義勇さんで、俺は義勇さんのことを何も知らないし、いつも助けられてばかりの一隊士でしかない。それは分かる。でも俺にとっては大問題だ。

 こんなに強くて、優しくて、立派な人なのに自分は柱じゃないと言う。今いる場所は自分に相応しくないと自分を責めている。そんな匂いがした。それが悲しくて、気がかりで。お館様が義勇さんの何を案じているのか分かった気がして、ずっと気を揉んでいたのに。いつの間にかこんなあっさり。

「いや……でも!それってつまり俺も稽古つけてもらえるってことですよね!?」
「ああ、つける」
「そうか、そうかあ……楽しみです!」

 とにかく今は、ついに義勇さんに稽古をつけてもらえるようになったことを喜ばないと。俺が力になれなかったことは残念だけど、義勇さんはやっぱり強い人だから気持ちに整理をつけることができたのかな。義勇さんはやっぱりすごい。この人から学びたいことがたくさんある。逸る気持ちのままうずうずと居住まいを正していると、ふわりとこれまでと違った匂いが鼻先に触れて思わず顔を上げた。

「俺の稽古は悲鳴嶼さんの後だろう。最後になるぞ」
「あっ」
「……励め」
「はっ……はい!!」

 やっぱり大きくは変わらない表情の、口の端が少しだけ緩む。笑ってるんだ。義勇さんは時々、こうして少しだけ笑ってくれるようになった。義勇さんの小さな笑顔は不思議で、ほわほわとした気持ちが沸き上がって良いことしか考えられなくなる。少しは親しくなれたと自惚れてもいいかなあ、とか。今度は手紙にも返事が返ってくるかなあ、とか。励めっていうのは、励んで早く俺のとことまで辿り着けって意味だったらいいなあ、とか。このままだと浮つき過ぎて気合すら抜けていきそうな気すらして、勢いよく右手を挙げる。

「俺!俺も手伝います!体はすっかり元気なんですけど、今日まで安静で。落ち着かなかったんです。だから丁度いいので!」
「おい……」

 義勇さんの手から巻藁を半ば奪うように受け取ると、間髪入れずに後頭部に拳が軽く乗せられた。後藤さんだ。眉根は寄っているのに怒っている匂いはしない、不思議な顔をしている。

「俺たち、見本をもらったら冨岡様の使う道場に材料を運び込んで作ることになってんだよ。仕事取るんじゃねえ、休んでろ」
「そうですか……」

 義勇さんの役に立てるし無理をしないでも済むいい仕事を見つけたと思ったのに。考えてみると確かに、義勇さんの屋敷は大きいが大勢居る鬼殺隊の隊士たちを迎え入れられるほどじゃない。本格的に柱稽古に加わるなら広い場所が必要だ。思わずしゅんと項垂れると、落ち着いた声が炭治郎と俺の名を呼んだ。

「来い」

 義勇さんはいつも早春の小川がせせらぐみたいに静かに話す。でもなんだか今日の声には匂いでうまく捉えることのできない柔らかさがあって、まるで見えない糸に引っ張られるように義勇さんの後に続いた。辿り着いた先はいつも義勇さんが鍛錬に使っている道場だ。

「俺がいつもやっている鍛錬を教える」
「えっ!?」
「お前の呼吸に合うかは分から」
「本当ですか!?ありがとうございます!!」

 有頂天になって、しのぶさんに怒られる覚悟すら決めていたけれど、指示されたことだけならその心配もなさそうだった。

 詰まっているものを、一度全て捨てる。

 瞑想だ。そうだ、義勇さんも俺や錆兎と同じ鱗滝さんの弟子なんだ。瞑想は集中力が上がる、これは鱗滝さんの教えだろう。ゆっくり深く呼吸して、空気を体中に巡らせる。

 でも鱗滝さんは「捨てろ」とは言わなかったな。「気付け」と言っていた。集中して集中して、呼吸の巡りに気付け。これは俺の心が揺れたり呼吸が乱れたりした時、窮地を救ってくれる教えだった。

 見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、思うもの。それも捨てて、空にする。それで、間合いを広げる。これが義勇さんのやり方なんだ。目や耳を閉ざすのは禁じられた。見えるし聞こえるし触れられる、そして今もこうして色々なことを考えているけど、それを全部一枚一枚剥がしていって、空にしないといけない。空に、空に、空に──義勇さんもいつもそうしているのか。

「何を考えている?」

 突然背後に気配が生まれて今度こそ肩が大きく跳ねた。振り返ると呆れた匂いと共に義勇さんが俺を見下ろしている。まるで俺が考えている突飛な空想を見透かされているようで、そんな未熟を咎められているようで、不甲斐なさに目を伏せた。

「考えている内は広がらない」
「はい、すみま……ん!?」

 だが、いつも傍にある、慣れ親しんだ匂いが鼻に馴染んで驚いて顔をもう一度上げる。よくよく見ればその肩には紐がかかっていて、霧雲杉の箱が肩先から覗いている。カリカリ、と爪が箱を掻く音まで。

「禰豆子!?」
「鍛錬は中止だ。指令が来た。お前も連れて行く」

 箱が差し出されたので慌てて受け取って床に置き、扉を開ける。するとむっと口元をへの字にした禰豆子が飛び出して抱き着いてきた。

「これ、いらない」

 拙い言葉と共に、いやいやと首を横に振っている。匂いから察するに、もうこの箱に入る必要はないのに押し込められたのを嫌がっているらしい。義勇さんはどうして禰豆子を連れて来たんだろう。蝶屋敷で禰豆子が太陽を克服したことを聞かなかったのかな。

「あの……」
「刻が無い。準備をする」

 義勇さんは片手に抱えていた着物を差し出してきた。曰く、蝶屋敷で借りた。着ろ、ということらしい。義勇さんもいつもの隊服ではなく、隊服の中の立て襟のシャツに臙脂の着物を着た袴姿だ。姿を変える必要があるのか。潜伏する指令かな。前にも遊郭に入るために女装をさせられたっけ。客間を借りて着替えさせてもらってくると、後藤さんが籠をふたつ持ってきた。片方に禰豆子を入れるように言われる。覗き込むと中には布が敷き詰められていた。

「いらない」
「禰豆子、兄ちゃんと出かけよう。俺が負ぶってやるから。禰豆子は着くまで寝てたらいい」
「だいじょうぶ」

 歩けるから大丈夫だと言いたいんだろう。でも義勇さんの様子を見るに、どうも禰豆子を隠して行きたいようだ。禰豆子も長女だから、自分でできるところは自分でやらなきゃ、という頑固なところがある。どうやって宥めようかと考えていると、冨岡さんが俺のすぐ隣に腰を下ろして膝を付いた。禰豆子の目線に合わせている。

「禰豆子。先生に会いに行く。驚かせたいから隠れていてくれ」

 義勇さんの言う「先生」は鱗滝さんのことだ。禰豆子は鱗滝さんが大好きだから、鱗滝さんに会えるぞ!と声をかければ大喜びで小さくなって鞠のように籠に飛び込んでしまった。

「俺が箱に入れと言った時は四半刻は揉めた……」
「なんだか、すみません……」

 義勇さんからしょんぼりした疲れた匂いがする。禰豆子は義勇さんの言う「先生」が分からなかっただろうし、これまで義勇さんとそんなに関りもない。一番記憶に残っているのは鬼になったばかりの時に刃を突き立てられたあたりの事だろうし、怖がっているところもあるかもしれない。蝶屋敷ではきっとアオイさんたちが説得してくれたんだろう。

「ところで、どうして鱗滝さんに会いに行くんですか?」
「……言ってなかったか」

 言ってませんね!全然まったく!

 太陽を克服した禰豆子。珠世さんの手紙によれば、今禰豆子は鬼舞辻無惨にとって喉から手が出る程欲しい存在らしい。それはお館様も察しているようで、禰豆子は鱗滝さんが注意深く迂回をしてとある場所に匿われることになったそうだ。その中継を任されたのが義勇さんというわけだ。考えてみれば柱稽古中は禰豆子を見ていることはできないし、禰豆子をよく思わない隊士も居るかもしれない。鱗滝さんが見てくれるなら安心だけど、やっぱり少し寂しい。

「すみません、義勇さん」

 義勇さんは俺の言葉を不思議そうな面持ちで聞いている。大きな笠がその目元に影を落としていた。頭には大笠、刀は刀袋に隠して小脇。物売りと言うには袴姿がちぐはぐな感じだけど、旅人と言えば信じてもらえそうだろうか。少なくとも街道ではこちらを訝しむ匂いと擦れ違わなかった。

「せっかく柱稽古に参加するって決めたところで……」
「お前の妹を敵に渡すわけにはいかない。これも重要な任務だ」
「はい……」

 長く歩いて分かった。やっぱり体が鈍っている。義勇さんはそんな俺の速さに合わせてくれているようだった。義勇さんにはいつもお世話になりっぱなしだ。迷惑をかけて申し訳ないな。だけどまた、沈む気持ちを掬い上げるような匂いが鼻先に触れる。

「ありがとうございます」

 義勇さんはまた不思議そうな顔で俺を見た。初めて見た時は氷のように冷たい人のように見えたけど、今は全くそうは思わない。それに気づけたことが嬉しい。

「心配してくれているって、匂いで分かりましたから」

 義勇さんは言わなかったけれど、この指令だって本当は義勇さんだけに下ったものじゃないかと思う。どういう気持ちで俺を連れて行くことにしてくれたのかは、詳らかには分からない。でも俺はそれが義勇さんの優しさだと信じている。

 それに、「驚かせたいから隠れていてくれ」だなんて、なんだか意外だ。どこか可愛らしい言葉選びでしたねえ、なんてほっこりしていると、義勇さんの歩く速度が一段──いや三段くらい速くなった。

「あれっ義勇さん、待ってください急に速くなりましたね!?義勇さーん!あっなるほど、これも稽古なんですね分かりました!遅れないように頑張ります!義勇さん!」

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