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零れる、拾う



 笑みを苦しげに歪ませていた男が、ゆっくりと胸元に崩れ落ちた。その背には幾重もの千代紙が重なっている。千代紙の色は相変わらず白だ。だが、色とりどりの細い線が水の流れのようにじわじわと生まれ、走り、綾をなし、白い千代紙の上に咲いていく。ここが何の場か忘れそうなほどの美しさだった。これは性根だ。この男の、まっすぐで、素直で、優しさの尽きない、豊かな心の全てだ。もう揺れないと思っていた心が何かよく分からないものに掴まれ、目元を熱くするが無理矢理押し殺す。今はそんな場合ではない。

「綺麗、綺麗ィ」
「着タイ、私、ズット着タカッタァ」
「コレヨォ、コレヨォ」
「くそ……っ」

 鬼が術で千代紙を巻き上げていく。必死に男の体ごと抱え込んだが、とても片手で留めて置ける量ではない。それは、鬼のいいようにされていいものじゃない。誰にとってもあたたかく、尊く、慕われるこの男の心根だ。もう男の名も出てこないが、それだけは分かる。俺は生きる。そして鬼を殺す。それが繋いでいくことだ。この男がそれを俺に思い出させた。だから俺もこの男の全てを絶対に失わせない。俺はこれだけは手放さない。それだけ手放さないでいれば、戦っていける。怒りに震えて立ち上がった。

 鬼は男の白く美しい千代紙を体中に纏っている。肌は赤や黄の鮮やかな千代紙で覆われており、その対比がなんとも気色が悪い。背筋に走る寒気を押し殺して刃を向ける。

「人のものを奪って、花嫁気取りか」

 お前などが。鬼に全てを奪われた人が着れなかった晴れ姿を。鬼は俺の言葉に一気に剣呑になる。だが先ほど大技を出したばかりだ。先ほどの攻撃はもうできないだろう。この鬼はきっとそう人間を喰っていない。知能も低く弱い。多少奪わせても攻撃を受け流し、近づき、今度こそ頸を斬る。踏み込もうとして不覚にもたたらを踏んだ。袴の裾を掴む指がある。意識を前方に向けたまま振り返れば、男の妹だ。何をするかと思えば、腕を伸ばして俺の刀を力いっぱいに握り込む。手のひらから血が滲み、ぼたぼたと刃を伝った。

「やめろ!何をして」
「だいじょうぶ」

 途端、血から炎が生まれ刃を走り、足元の千代紙を燃やす。妹の腕の中にある青い千代紙にも炎が灯って消えた。頭の中が掻き回されるような眩暈をこらえる。これは男の妹──禰豆子の血鬼術だ。話に聞いていた。

「おねがい」

 その真に迫った形相に深く頷きを返す。畳を大きく踏み込み、勢いを付けて鬼に肉薄する。

「水の呼吸、壱ノ型──水面斬り」

 鬼の頸が飛んだ。炎がその頸を、鬼の体を、部屋中を包んでやがて消えていく。う、と呻き声がして慌てて振り返れば、炭治郎が禰豆子に頬をぺちぺち叩かれていた。

「炭治郎!」

 駆け寄ってしゃがみ込むと、炭治郎は額を抑えて呻いている。炭治郎は多く千代紙に奪われていたから、戻ってきた衝撃も大きいんだろう。

「義勇さん……」
「戻ったか、俺が分かるか」
「俺は許さない」

 意識の混濁に苦しんでいるとは思えない気迫に、思わず深く息を吸って刀の柄に手をかけていた。びりり、と空気が震える。あまりに切迫していて、その空気の元が炭治郎の怒りによるものだと気づくのに時を要した。

「人の弱みに付け込み、その心を弄ぶ。鬼舞辻無惨を俺は絶対に許さない」

 炭治郎は憤っていた。何がきっかけでその怒りを蘇らせたのは分からない。鬼殺隊士であれもが誰でも持つ怒りだ。もしかすると千代紙から取り戻した記憶によるものかもしれない。だが、この期に及んで何を言っているのか。今更だろう。今はそれどころではなかったはずだ。思わず手が上がっていた。ばしり、と頬を叩く大きな音が部屋に響く。

「だったら容易く奪われるな!お前は判断を間違えた!禰豆子が居なければ戻って来れなかったかもしれないんだぞ!」

 炭治郎は先ほどの怒りが嘘のような間抜けな顔でこちらを見上げている。それから眉根をぐっと寄せて口を開いた。恐らくは謝罪を口にしようとしたのだろう。だがそれを途中で止め、一度口を閉ざして大きく息を吸い、吐き、また口を開けた。

「俺が弱かっただけです。判断を間違えたとは思いません」

 思わぬ口答えに眉が逆立つが、それくらいのことで怯む炭治郎でもない。深々と頭を下げていながら声は堅いままだ。

「俺は強くなります。迷う余地がないほど。迷わなくても、全部守れるように」

 何か返そうとしたところで何も浮かばない。俺は元々口下手だ。どうせこいつだって何も言われても意志を曲げないだろう。ここ数日でそれを嫌と言うほど学んだ。そしてこいつは言ったことは必ずやり遂げる。

「……そういう奴だな、お前は」

 はあ、思わず呆れたため息が漏れた。俺も覚悟を改めよう、炭治郎。お前が守りたいものを守る時、お前自身が疎かになったら俺が守ってやれるよう。

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