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二言目 (キ学)



 学園へ向かう足取りは羽のように軽やかで、今にもスキップでも始められそうなくらいだ。この危うい浮遊感は夏の終わりからずっと続いている。人生で初めて好きになった相手が、その想いを受け入れてくれてからずっと。校門が視界の先に入ってきて、足の回転が益々速くなって最後には駆け足になる。まだ始業より30分も早いのに。

「おはようございます!」

 満面の笑みで挨拶をすると、その人はやはりクスリともせずに静かな目で俺を見て──竹刀を振るう。相変わらず見事な太刀筋ですごく危ない。限り限りのところで体を逸らせて後退する。それでもなんだか反応できるようになってきた気がするぞ、と思っているところに掬い上げて顎を狙ったもう一撃。本気なのだこの冨岡先生はいつも。前にこれ喰らったら落ちますよね、と尋ねたらその隙にピアスを没収すると真顔で言っていた。なので俺も本気で逃げないとまずい。父さんの形見だけは絶対に肌身から離せない。地面を蹴って校門脇の塀を駆け上るように跳躍、先生の背後を取る。うん、俺もなかなか鍛えられてきたなあ。きっと将来パン屋に役立つぞ。

「あっ先生、そのまま!」

 振り向きざまにこちらへ竹刀を横薙ぎに振るおうとしていた先生は、俺の言葉でピタリと止まった。校門の前に立っている善逸が怪訝と驚きを半分ずつ混ぜたような顔でそれを見つめている。いつから居たんだろう挨拶しそびれたな。

「ついてましたよ!」

 真っ赤に染まった小さな紅葉だった。校庭の木々から流れ着いたものだろう。先生の長い髪の毛の端っこに引っかかっていた。どこから髪を飾っていたんだろう。体育館にある教官室から校門に出るまでだろうか。職員室から体育館に向かう時か。家から学校に向かう途中だったかもしれない。長い時間だったなら少しだけ可愛らしいなと思う。

「じゃあ!」

 新入生の頃は地の果てまで追いかけて来られるのではと本気で心配していたけれど、一学期も終わる頃には校門で攻撃を躱すと先生はそこで諦めてしまうようになった。思い返してみればあの頃は贅沢だったんだなあ。校則違反は心苦しいけれど今になってそんなことを考えてしまう。手の中で紅葉をくるくる回しながら教室までゆっくり歩いた。何度か振り返ると姿勢を正して校門に仁王立ちする後ろ姿だけが見えている。

 ふふ、と小さく笑う。先生からまた「しまった」の匂いがした。俺の好きな人は少しだけうっかり屋だ。

 先生が俺を追いかけ回していた理由。多分それは「不公平」だからだと思う。事情によって許していくとキリがなくなるから、俺はピアスを付けている限り全校生徒の前で追いかけ回されてなきゃいけなかったんだ。だけど、俺が校則違反のお詫びとして先生に付いて回って手伝いを引き受けるようになってから先生の追及の手は少しだけ緩くなった。校則違反と罰とのバランスなのかな、と思っている。確認したことはない。

 竹刀を持って無言で殺気をぶつけてこない先生は、基本的に静かな人だ。余計なことを一切話さない。ただ、俺が何か話しかけるときちんと考えた上で返してくれる。子供だからとか、そういう軽んじ方をされたことはなかった。誠実で大人な答えに、俺は次第に先生を尊敬するようになったし、そんな先生が一人でいるのが勿体なくて悲しいなあと思っていた。それを口にする度に心外そうな顔をされたけど。

 夏休みに入る頃には、俺はもう幾分先生のことが好きになっていた。自分でもどういう好きかよく分からないが、とにかく夏休みに先生と会えないことが寂しくてたまらない「好き」だった。夏休みは弟たちも学校が休みになって手伝いの手も増えるから、剣道部の副顧問として学校に来ているという先生を訪ねていくのが日課になった。勉強をするなら構わないと教官室に入れてもらい、たまに掃除や物の移動を手伝ったりしつつ、未だかつてない速度で俺は夏休みの課題を終えつつあった。

 教官室は体育館の二階にあって、バスケ部やバレー部の声がよく聞こえている。隣の道場からも煉獄先生の熱心な指導の声がする。冨岡先生は基本的に煉獄先生に任せきりにして、最後の稽古試合の時だけ助っ人に入っているらしい。その頃には俺も店に戻って夕方の書き入れ時に備えていたいから丁度いい。後はプールも近くて、天気のいい日に窓を開けていると水面がゆらゆら揺れる光が先生の後ろの白い壁に移り込んだりする。ピッという鋭い笛の音、ばしゃばしゃと小気味が良い水かきの音。何かの報告書のようなものを書いているらしい先生はずっと無言でペンを動かしている。俺は反対に課題の手を止めてそんな先生の真剣な横顔を見ていた。俺は汗が首の後ろに滲んでいるのに、不思議と先生は涼しそうに見えた。映り込んだ水面のせいだろうか。綺麗だ。

「好きです、義勇さん。ずっと俺の傍にいてください」

 先生はペンを止めた。手元の紙をじっと見つめたまま固まってしまっている。何度かぱちぱちと分厚いまつ毛が上がったり下がったりして、それから静かな瞳がゆっくりとこちらを向いた。

「お前がそう乞うなら」

 俺は正直、何から何までわけが分からなくなっていた。落ち着け。落ち着け炭治郎。俺は一体何を考えて、口走って、冨岡先生はそれにいつものように、誠実に、本気で、俺になんと答えた。

「えっ」

 いや、これ落ち着けるのだろうか?落ち着いてしまっていいのか?今、ものすごく大変なことになってないか?考えれば考えるほど混乱してきた。ついでに顔や耳や首やとにかく体中が熱い。だめだ、俺は全然冷静じゃないぞ。

「あれ!?いや、俺今、混乱してまして、まず順番に行きますね!?」

 俺はとりあえずシャーペンを叩きつけるように机に置いて立ち上がり思いっきり頭を下げた。それはもう深々と。確かにここのところの猛暑で頭が茹で上がっていたかもしれないけれど、何もかもあんまり突飛だ。大体まず、なんなんだ「義勇さん」って。どこから出てきた。

「ええとその、いきなりすみませんでした!先生のこと突然名前で、」

 まずはここから謝らないと、そう思ってハッとする。俺は人より少しだけ鼻が利くので、その人が何か強い感情を持っているとそれを嗅ぎ分けてしまうことがたまにある。

「あ……」

 今微かに鼻先に過ったのは間違いなく「しまった」の匂いだ。鼻の奥にすうと涼しく染みる匂い。先生の表情は相変わらず何も変わらないけれど、先生は明らかに何かを後悔している。きっと、うっかり俺に答えてしまったことを。先生は椅子を回して俺に体ごと向き直った。手招きされたのでのろのろと近づいて項垂れる。上から見下ろすと先生のまつ毛の分厚さがよりよく分かった。そんなこと考えている場合じゃないのに。

「俺は教師で、お前は生徒だ。この壁が壊れることはあるべきじゃない」
「……はい」

 反省を迫られている。そう思うと俺は先生の静かな瞳を見つめることすらできなくなった。咄嗟に何かの拍子で飛び出た言葉だったけれど、それがあんまり綺麗に俺の気持ちに名前を付けてしまったところだったから、それを瞬く間に否定しなければいけないのはひどく辛い。でも、好きな人を困らせるのはもっと辛いことだ。振り切るように口を開いた。

「勘違い、してしまいました、俺が。自分の都合のいいように。ええっと、大丈夫です」

 全然大丈夫じゃないし、何も納得できていないけれど、俺は長男だから。誰かに笑ったり嬉しくなってもらうために譲ったり我慢したりすることには慣れている。むしろそうすることで俺の好きな人が幸せなら俺も幸せなんだ。ぎゅっと拳を握り込んで意を決して顔を上げた。

「だが、男に二言もあるべきじゃない」

 そして驚いてしまった。普段怒鳴る時くらいしか表情の変わらない先生が、呆れたような困ったような、それでいて少しだけ親しげな柔らかい顔をしていたからだった。

「勘違いじゃない」

 俺はその言葉こそ自分に都合のいいように理解して今日まで浮かれている。

「俺、一日ずっと眺めてましたよ、これ」

 先生に頼まれたプリントのコピーが終わるのを教官室の旧いコピー機の前で待ち構えながら、手の中の紅葉をくるりと回した。他の体育の先生は部活の監督に出ていて誰も居ない。冨岡先生と俺だけが残っている。窓が開いているけれど、あの日みたいな水面のきらめきはもう映り込んでいない。時間帯のせいなのかもしれないし、水が濁ってしまっているせいなのかもしれない。早くなった日没の茜色の光が涼しい風と一緒に部屋に入り込んでいる。紅葉から水彩絵の具が溶け出しているみたいだ。

「先生にくっついていられて羨ましいです、こいつが」

 ガシャン、ガシャン、と大きな音を立てているコピー機を危ぶみつつ、子供っぽいですよねと自分で自分を笑う。でも紛れもない本心だった。昼休みに善逸に話すとすっかり呆れられてしまったけれど。

「大人になれば、もっと傍にいられますかねえ」

 先生は黙々と印刷済みのプリントをまとめてホッチキスを止めている。合宿の資料らしい。夏休みも終わって、こうして二人きりでいる時間はぐっと減ってしまった。秋から冬は大会や練習試合が続いていて忙しいらしい。

「お前がそうしたいと言ったんだろう」

 独り言かと思われるかもしれないと思っていたのに、きちんと返事があった。いつもなら嬉しく思えるはずなのに、ちらりともこちらを見ない先生が少し寂しい。これじゃあいよいよ小さい子供みたいだ。我慢、我慢、いつもはうまくいく自分への言い聞かせが何故だか今日はうまくいかない。

「先生は、そう思ってくれてますか」

 長い指でプリントを絶え間なく捌いていた先生の手がピタリと止まった。まずい、と思ったけれど何がまずいのか言えない。おろおろと狼狽えている俺を先生はじっと見上げ、それから小さくため息を吐いた。ますます狼狽える。

「竈門」
「はい」

 緊張して背筋を伸ばした。恋敵の紅葉は胸ポケットに大事に納める。先生はすぐ背後にあった椅子に腰を下ろして、その隣りの椅子をコロコロと転がして自分の横に並べた。

「座れ」

 はい、断る理由もなく素直に従って先生の正面に座る。膝が触れるくらいの距離に益々緊張してしまう。いよいよ呆れられたのか、怒られるのか。先生は俺の目をじっと見つめて言葉を探している。小さく口が開いたが、それがまた閉じて──そういうことが三度続いた。

 先生は結局、何も言わない。いよいよ口も完全に閉じてしまった。でも鼻先には少しだけ先生の気持ちが触れていた。怒ったような匂い、寂しいような匂い、諦めたような匂い、それから。

 何を考えているか分からない目と匂いになった先生の手がそっと持ち上がった。長くて骨ばった大人の指が俺の頬をすうっと撫でて、それから右目のあたりを柔らかく撫ぜた。あんまり急なことに頭が真っ白だったけれど、頬には熱が上がってきているらしく少し冷たい指が心地良い。思わず右目の目蓋を閉じてしまった。その上を親指が柔らかく撫ぜる。

「……炭治郎」

 ぱっと両目を開ける。また「しまった」の匂い。「義勇さん」は俺の頬に手を添えたまま少しだけ目を見開いて驚いている。自分で言ってしまっただけなのに。それがおかしくてふふ、と笑みが零れる。

「しのぶさんにドジっ子だって聞いたことがあります」

 逃げていく指を掴んで止めた。鼻を摺り寄せるようにして深く息を吸い、懐かしい匂いに涙が滲みそうになる。驚きのまま手を引き抜こうとする義勇さんの力に逆らわず、そのまま椅子から立ち上がった。

「本当にそんなところもあったんですね、義勇さん」

 笑みで黎明の海のような瞳を呑み込む。義勇さん──「先生」は珍しく分かりやすく困った表情をしている。何故か。俺がこんなに近づいていて、頭が真っ白になったのでよくは分からないがおかしなことを口走ったからだ。

「あ、」

 そこでようやく俺は先生とあんまり顔も体も近いことを意識して体中から火が出るかと思った。俺はなんてことを。わけがわからなくなったにしてもやっていいことと悪いことがあるぞ!こんなんじゃ電車に対して変態行為を働く男と同じだ。好きだからって全て許されるわけじゃないんだから。

「すみません!ごめんなさい先生俺、」

 とにかく体を離し、指を離し、慌てて左右を見渡し、それに何の意味もないことを悟って動揺し、とにかく頭を下げた。角度は直角だ。

「出直します!!」

 教官室から飛び出すとナイシュー!とバスケ部の掛け声が聞こえてきて何故か自分がものすごく恥ずかしくなる。手伝いはまだ残っているので逃げ出すわけにもいかない。トイレで顔でも洗って落ち着くことに決める。無理やりにでも落ち着くんだ炭治郎、お前ならできる!何せ俺は長男だ!

 トイレまでの道を駆けながら、いけないと分かっているのについつい右頬に触ってしまう。
 いつか「しまった」でなく、したくてこんな風に触れてもらえるようになりたいな。そうして、世界中にこの人が俺の大切な人なんだと言って回りたい。

「本当に忘れてるのか……?」

 ずっと俺の傍にいてください──『前』にも聞いていたから、つい口が勝手に答えてしまっていた。心外だが、「ドジ」と呼ばれても仕方がないのかもしれなかった。『あの時』は状況が状況だったので聞こえぬフリを押し通すことができたというのに。炭治郎は『あの時』何も言わない俺を笑顔で許した。それから、ありがとうございますと言った。何も答えていないのに。

 しまった、と思った。

 教え子の思いにうっかり答えてしまったことでもなく、炭治郎が『前』のことを思い出したのだと勘違いしたことに落胆したわけでもなかった。ただ「しまった」と思うのは、あの時返せなかった言葉を返せたことを嬉しく思ってしまう間の抜けた自分にだった。どうせ俺の答えは『あの時』からずっと変わらない。だったら『あの時』もそう答えてやるんだった。それをひどく惜しく思っている。

 だから炭治郎お前ももう、二言を言うな。

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