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零れる、拾う



 意識が遠のいてからどれだけ経ったんだろうか。血の匂いがする。禰豆子の血の匂い。それから、義勇さんの微かな匂い。怒っている匂い。戦っているのかな。起きないと。俺も戦わなきゃ。

 ここがどこか分からない。今すぐ起き上がりたいのに頭に靄がかかっているみたいだ。紅葉の山みたいに鮮やかな色彩はどこにも見当たらない。白い世界だった。でもよく見るとただの白じゃない。色々な柄が見事に縫い込まれている。白絹に刺繍。花嫁さんの白無垢みたいだ。

 遠くの方にぼんやりと何かが見えて目を凝らしてみる。豊かな黒髪の女の人がお侍さんのように立派な身なりの男に人に抱え込まれている。女の人の格好は少しだけみすぼらしいけれど、美しくて何より幸せそうだ。二人の手の中には白絹がある。婚礼の相談かな。その幸せそうな空気についついつられて笑みになったけれど、ふっとその姿が消えてしまった。また遠くに何かが見える。

 今度は暗がりだった。何人もの大柄の男の人が集まって何かをしている。女の人の泣き叫ぶ声、悲鳴。はっと驚いて「駆け出した」。ここはどこだ。禰豆子も義勇さんもいないのに俺は駆けている。とにかく今はあの人を。でも足先がそこへ届く前に人びとの姿はまた掻き消えてしまった。

 女の人がぼうっと部屋の隅に座っている。その顔には何もない。何もかも削ぎ落したような、疲れ切ったような、虚しい顔だった。そこに誰かがふっと現れて、女の人は大きく体を震わせて泣き始めた。何も無かった顔に恐怖が浮かんだ。唐突に現れたのも女だ。恐ろしいほど美しいのに、目の色が真冬の空気よりもまだ冷たい。

「哀れな」

 そんな顔をしているくせに、声にだけは気持ちが悪いほどの同情が滲んでいた。鋭い爪のつく長い指が女の人の頭を撫でてやると、女の人はたちまち泣き始めた。誰も私の言葉を信じない、憎い、忘れたい、何もかもなかったことにしたい、憎い。

「奪われたのならそれ以上奪えばいい。私がその力を与えてやる」

 美しい女の顔がたちまち俺の知る顔に変貌して女の人に血を分け与えた。体が震えるほどの怒りがたちまち駆け巡る。

「無惨!!」

 大きく足を踏み出したが、そこには最早誰の姿も無かった。これはきっと「今」じゃない。それを薄々感じ始めている。それでも怒りが治まらない。呼吸を整えながら左右を見渡すと、遠くにまた人がいる。

 うずくまって泣いているようだった。周りには何十、何百の美しい千代紙。もう鳥たちの甲高い不快な声はしない。か細い声が、嗚咽交じりに疲れた、と言った。もう人を憎むのは、疲れた。

「君のしたことは許されない」

 鬼の体が震える。鬼になる前もそうだったんだろうか。細くて小さな体だった。大勢の男の人に囲まれて乱暴されたら、それはそれは恐ろしいだろう。近づかないでおく。ただ静かにその場に腰を下ろしてその背に声をかけた。

「でも、もう苦しまなくていいんだ」

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