文字数: 7,328

零す、焦がれる



「よォよォ、やってんな」
「えっ!?宇髄さん!?」

 この先で隊士たちを待つ男の気性を表したような、地味で鬱蒼とした竹林を抜けた先、無数の巻き藁に囲まれてうんうん唸っている後ろ姿をやっと見つけた。男は羽織を翻しながら勢いよく振り返り、赫みがかった真ん丸な瞳を大きく見開く。そしてそれをすぐに喜色いっぱいの笑顔に変えた。相変わらず底抜けに素直な奴である。

「どうしてここに!?そうか、義勇さんと稽古でしょうか!?ってことは、うわあ、義勇さんと宇随さんの見取り稽古ができるんですね……!ちょっと待っててください、今義勇さん外に出てて……」
「盛り上がってるところ悪いけどよ、俺は野暮用ついでに寄っただけでな。すぐに移動するぜ」

 それに、正直なところ今の天元では義勇と拮抗する程の力を出せないだろう。鍛錬は続けているが、片目と片手を失った状態での戦い方には未だ慣れ切ったとは言えない。以前ほどの力に戻るまでの技に譜面を編み直すのにはしばらく時間がかかりそうだ。

 ここに寄った理由はむしろこの、残念そうな笑みを浮かべている少年のほうにあった。輝利哉の密命を受けて人に会うついで、手ずから鍛えて送り出した連中の様子見をしてここまで来た。その中で飛び抜けて成長著しいこの少年がどれほどのものになったか興味もあったし、借りを返す意味で禰豆子の健在を伝えてやりたくもあった。そして何よりもう一つの大きな目的があったので、むしろ義勇の不在を狙って来ている。

「だがよォ、俺と冨岡を引き合わせていいのか?お前もド派手な喧嘩が好みか?」

 きょとんと沈黙。こてんと首が傾げられたかと思えば、すぐにカッと目が見開いた。ああーっ、と大声が静かな竹林を揺らす。そうそう、この反応。天元は思わずしたり顔になった。その表情に天元が故意だったと確信したのだろう、眉がきっと吊り上がっている。

「どうして言ってくれなかったんですか!あれがお酒だって!!」
「言ったら酒だっつって渡すだろが」
「そりゃそうですよ!!」
「いやあ、お前の手紙。ありゃあ傑作だったわ。うちの嫁たち皆捧腹絶倒」
「宇髄さん……?」

 正確に言えば天元がまず爆笑し、窘めるような目をしつつ共犯でもあるためまきをが笑いに沈み、雛鶴は困ったような目線を天元に送りつつ忍び笑いをし、須磨も炭治郎に申し訳なさそうにしつつもぷるぷると笑みに震えていた。いつもは溌剌と輝く瞳がじっとりと疑念で湿っているのを見て、やり場のない怒りと甘酸っぱい困惑とで乱れに乱れた文面が思い出されて噴き出してしまった。炭治郎の顔色が益々渋くなる。

「まァそう怒るな。面白かったろ?腹割って話すにゃ酒ってのの典型みたいな奴だからなあ」

 数年前──と言っても、もう十年ほど昔のことにさえ思える記憶に思いを馳せる。すると、いつもはハキハキと打てば響く炭治郎が黙り込んでいることに気が付いた。ちらりと目を遣れば、何とも言い難い表情を浮かべている。目だけでどうした、と問えばおずおずと口が開かれた。

「宇髄さんは……よく義勇さんとお酒を飲んだりするんでしょうか」

 見つめあってまた数瞬の沈黙。天元は思わず己の顎に手を当てて唸った。ほほお?炭治郎をじろじろと見つめる。炭治郎の同期である善逸も聴覚が優れた少年だ。人間の体が発するあらゆる音を聴き分けてその感情さえも知ってしまう。悲鳴嶼のところには寄らなかったが、きっと今もやかましく騒ぎながら鍛錬に打ち込んでいることだろう。

「な、なんですか……?」

 ともかく、善逸は音から人の心さえ読む。これは天元の聴覚とは「捉え方」が少し違っている。天元は全ての五感を音によって補い延長しているようなものなので、どちらかと言えば実体に作用するものだ。反響で物の有無やその距離、質量や速度を察知、戦況判断に織り込んでいく。即ち、天元は音によって感情を読む、という「捉え方」をしない。しかしだ。優れた聴覚と人生経験が絡み合えば声から感情を読むのは人より多少得意にもなる。

「いんやあ?ついこの間までガキだガキだと思ってたが、なかなかいい譜で鳴らすじゃねえか?」
「えっ……と?」
「それにしてもだ、お前はこの宇髄様が認めた男だってのに肝心のところで地味に趣味が悪ィよなあ」
「あの……?」

 天元だからこそ断言できる。素直な興味に見え隠れするのは幼い嫉妬心だ。

「ま、これぐらいにしてやるかね」

 しかし本人に自覚がないものをいくら掘ってもしょうがない。人の感情は繊細で、美しく澄んだと思えば簡単に淀みもする。無理に掘り返してもいいことはないものだ。納得のいってなさそうな炭治郎を放り出して元の話に戻ってやる。

「逆に聞くが、あんな地味な奴とド派手なこの俺が楽しく酒なんか飲んでると思うのか?」
「……もしかしたらそんなこともあるかもと、いう気も、したんですけど……」

 答えつつ、声に出してみるとそれが難しい想像であることを次第に悟ったらしく、炭治郎の声はボソボソと小さくなっていく。それをハッと笑い飛ばして天元はその場に腰を下ろした。炭治郎もおずおずと続く。

「一回だけ飲んだんだよ。ありゃあ煉獄が柱になったばっかの時だったが──」

「つうことでまァ、祝杯も兼ねて派手に深めようじゃねぇか。お仲間同士の親睦ってやつをよ」

 杏寿郎が炎柱に任じられた会議の後、首根っこを捕まえることに成功した二人を前に天元はやる気なく言い放った。杏寿郎はともかく義勇を引き摺るのには大層骨が折れた。行きつけの料亭の狭い座敷に強引に押し込んだためだろう、どちらも困惑の滲んだ微妙な表情を浮かべている。天元だって多少気にかかることはありつつも、基本的には野郎どものお守りなど進んでやりたくはない。ただ産屋敷たっての願いを受けていたために仕方なく動いているのだ。だからその顔をやめろ。特に冨岡。

「気持ちはありがたいが、俺は酒が強いほうだとは思えん!席だけはありがたく頂こう!」
「俺は仲間じゃないので失礼する」
「冨岡は何を言っている?俺たちは同じ鬼殺隊の隊士で、今は同じ柱同士だろう!まあ座るといい!」
「違う。失礼する」

 立ち上がって去ろうとする義勇の肩と腕を抑え込む杏寿郎。力が拮抗しているのでどちらもぷるぷると震えている。気性が鋼のように真っ直ぐな杏寿郎は、社交的という言葉を逆立ちさせて服を着せたような義勇とこうして度々事を起こす。諍いと言うほど噛み合っておらず互いに悪感情も無さそうなので大事には至らないものの、これが隊士の一人一人を慈しむ産屋敷の気にかかっているようだった。

「まー待て待て待て」

 手をぱたぱたと上下させたが、二人の拮抗状態は緩む様子がない。だが一応は二対の瞳がこちらを見ている。一方は何を考えているか──どこを見ているのかさえよく分からない、揺らぐ炎をそのまま閉じ込めたような瞳。もう一方も何を考えているかまるで映し出さない、しかし冷ややかさの底光りする凍った湖面のような青い瞳。これが全く愉快な気持ちにならない。

 天元としては、この二人の仲の良し悪しなどどうでもいいことである。むしろ悪化して派手な喧嘩にでもなってくれりゃいい娯楽だな程度に考えていた。しかしこの二人、多少の波風は立ってもそうはならない。一方は己を厳しく律し、一方は己を強く抑え、両者の掴みどころがない性格も手伝って、結局は互いに噛み合わない内に事はいつもうやむやに終わる。

 そう、天元の気がかりはひとつ、好奇心である。こいつらがド派手にみっともたくなるところが見たい。

「とりあえず座れって。お館様も言ってたろォ?皆一丸となって励んでほしいとよ」

 お館様、さすがにその言葉には反応があった。少しだけ力比べの緊張が緩くなったようで震えが止まっている。内心よしよしと頷きつつ間髪を入れずに人差し指を立てた。それにだ。

「指令によっちゃァ潜伏任務ってこともあるだろうが。酒を飲まなきゃなんねえ場面くらい腐るほどあんだろ?どんぐらいの酒量なら派手に耐えられんのか知っとくのも大事だろ」
「なるほど!一理あるな。さすがは宇髄、元忍だ!」
「納得するのはまだ早いぜ、煉獄。そういう時にゃ呼吸で酒を抜くことにもなるわけだ。まさかやったことねぇなんて言うなよ」
「……」

 我ながら惚れ惚れする口から出まかせであったが、杏寿郎はすっかり義勇から両手を離してうんうん頷いているし、義勇も義勇で立ち上がる素振りすら忘れて思案顔のまま座り込んでいる。どちらも真面目一辺倒で酒などほとんど口にしたことがない、という読みは当たったらしい。駆け引きとか知らねえのかな?こいつら大丈夫かな、と思ったが、幼子でもない大の男二人だ。おまけに柱などと冠されている以上、よそではうまくやっているだろう。余計なことは考えないようにして脳裏から捨てた。

 異論はねぇようだな?問いはしたものの返事は聞かずに外に控えていた小僧に酒と肴を持ってくるように伝える。

「ワハハハ!愉快、愉快!いやあ、冨岡実に面白い男だ君は!」
「さっきからひとっことも話しちゃねえがな」
「顔が!面白い!!」

 他人事ながら失礼な話だ。義勇の肩をバシンバシンと叩きながら杏寿郎は声を立てて笑っている。耳も頬もどことなく赤い。良い香だ、と芋焼酎を気に入り、わっしょいわっしょい言いながら煽り続けた結果がこれである。ただでさえ陽気なのに更に陽気になってどうする、と思いはするものの、その顔は年嵩をすっかりどこかへ置き忘れたかのような幼さで、お前そんな顔もできたんだな……と天元は素直に感心した。一方の義勇には何の面白味もない。黙々と燗ばかり空けているのでお前はジジイかと呟いたが聞こえた素振りすらなかった。大笑いしている杏寿郎が手元を狂わせるのだけは気になるようで、頑なに手酌で軽く五合は空けている。しかし顔色がまったく変わらない。

「……面白いのか?俺の顔は」
「うおっ、喋った」
「ワハハ、ハハハ、うむ、面白い!自信を持つといい!」
「……そうか、初めて言われた」

 だろうよ。天元は心中で答えた。いつ見ても崩れぬ鉄面皮は今日も健在だ。同性の目から見てもそれなりに整っている顔立ちだと分かるが、顔に筋肉がないのだと告白されても驚かないくらいに表情が浮かばない。この能面のような顔を面白いとか好きだとか思える奴がいるなら相当猛者な物好きである。

 義勇は杏寿郎を見つめたままわずかに小首を傾げていたが、手にある猪口をとんと膳に戻した。そして杏寿郎に膝でにじり寄っていく。何がおかしいのか更にふふはは笑う杏寿郎。ついに始まるのか喧嘩が、天元はわくわくと義勇の言葉を待った。

「もっと見てくれ」

 そしてぽかんと阿呆面を晒す羽目になった。

「これは助かる!」

 杏寿郎は酔っている。おまけに来たものを来たまま受け止める男だからその奇異さに全く気づいていないだろう。しかし離れてそれを眺めている天元にとってはとんだ異常事態だ。杏寿郎の両腕を掴んで正面を向かせた義勇がその顔を覗き込んでいる。至近距離の義勇の顔に笑いの止まらない杏寿郎。なんだこの画は。俺にとっては地獄絵図だぞ。ここで天元ははっきりと悟っていた。柱合会議で人にできる限り寄り付かないようにしている義勇が未だかつてこんなに間近に人を置いたことはない。これは酔っている。この表情を母胎に忘れてきたような男も酒を呷れば酔う。なるほど、酒は柱より強い。──思い返して認めよう。この時、天元もやや酒に呑まれていた。

「宇髄」

 杏寿郎の両腕を掴んだまま義勇が突然天元を振り返った。不覚にも肩が跳ねる。ここまで次の譜面が読めぬことは人生において一度もなかった。すっかり酩酊に陽気を引き出されている杏寿郎が片腕を上げて義勇の首に回す。まったくそれに構わない義勇。尽きない哄笑。知らず天元の体は後ろに傾いている。

「お前は伴侶が三人もいると聞いた」
「……それが?」
「どうしたらそんなことができる」

 様々なことが同時に起き過ぎて、一瞬本気で言葉の意味が全く分からなかった。しかしじっと義勇の無表情を凝視している内に、やっと事が「らしい」展開になってきたことを悟る。笑みを取り戻し姿勢を前に傾けて膝を打った。

「へェ、なんだァ、嫁を取りてーのか?意外だが、まあお前もその歳なんだから当然か。しっかし顔に出さねぇな!むっつりってやつか」
「よもや!そうか、そうか!めでたいことだ!どうだ一献!ワハハ、冨岡のむっつりに乾杯だ!」
「酔うとめちゃくちゃだなお前」

 つい本心が口から出たが杏寿郎は気にした様子もなく義勇から離れ、にこにこと手元の盃に焼酎を注いでいる。手元が狂って注がれたせいでてかてか濡れて光る盃を躊躇いなく煽り、義勇は言葉を繋いだ。

「いや、嫁はどうでもいいが。常に三人の人間と共にあってうまく事を収めているわけだろう。俺には無理だ」

 何だ、つまんねえ。いっつも酒かっくらってたらいいんじゃねえの、と思ったが、それを口に出すと正気に返り己の身に起きている事態に気付きそうだったのでやめておいた。いや、もうここまで来たら後戻りは不可能な気もするが。

「俺は口が下手だ。どうにも、言いたいことが正しく伝わらないから話したくない」

 酒は口を滑らかにすると言うが。常のこの男ならば絶対に言わないだろう言葉に目が点になってしまう。

「口だけじゃない。俺は、何もできない」

 やけに静かだなと思えば、酩酊に半身を気持ちよく預けているはずの杏寿郎でさえ目を瞬いている。しかし義勇はそんな空気にまるで気付いていないようだ。盃に残った焼酎をぐいと飲み干し、元の姿勢に戻った。ひたと静かな瞳が天元に向く。

「お前達の時を奪うだけだ。もう、声をかけないでくれ」

 なんだこいつは。咄嗟に天元は思っていた。まず感じたのは不快感だ。だがその怒りにも似た感情をどこに持って行けばいいやら分からない。まず間違いなく義勇に押し戻すべきなのだろうが、きっとこいつは受け止め損ねるという残念な確信があった。ふら、と義勇の頭が小さく揺れる。

「れんごく」
「うむ!?」
「かりるぞ」
「……うん!?ワハハ、冨岡!なんだ急に、ワハハハ……」

 義勇がわずかに身を引き、杏寿郎の羽織を背から掴んで引き剥がした。驚いているはずの杏寿郎は、その突拍子のない行動が却って笑いを誘発したらしく再び幼子のようにケラケラ笑っている。まんまと杏寿郎の羽織を手に入れた義勇は、それを布団代わりに包まってばったりと畳に伏せてしまった。思わず中腰になったが、深い呼吸の音がする。鍛え抜いた身体がとうとう警鐘を鳴らしたのか、酒を抜こうとしているようだ。本人が意識的にやっているとはとても思えない。

「仕方のない男だな、冨岡は」

 どこか優しい声で杏寿郎が言う。そして子供のようにくすくす笑う。しかし仕方のないのはこいつも一緒だ。こんなことを仕掛けようと思った天元自身でさえそうなのかもしれない。どいつもこいつも、子供がそのまま図体を大きくしただけのような仕方のなさだった。

「それからしばらくは俺のことも煉獄のこともめちゃくちゃ避けるようになったんだよな。よっぽど応えたらしいわ」

 義勇はいかに深酒をしても全ての記憶をしっかり覚えている性質らしかった。とんだ失態を犯したと思ったらしく、人間嫌いの野良猫もかくやと思うくらいには警戒されていた。目線すら合わない徹底ぶりだ。二度と酒の席には連れ込まれないという固い信念が窺えていっそ愉快ですらあった。一方の杏寿郎は逆に深酒した記憶をすっかり忘れる性質らしく、しかし義勇と腹を割って話したような印象だけは残っているようで、義勇に気さくに話しかけるようになっていたからそれが余計にトドメを刺したようだ。最早友のようなものだろうとまで言い切られて目を丸くする義勇はなかなかの見物だった。

 思い返せば笑えてくる愉快な記憶だ。しかしぽっかりと失われた穴を思えば少し苦くもある。苦笑を浮かべて炭治郎に目を遣れば、こちらもまた随分複雑そうな表情だ。

「いいな」

 天元の話を愉快で微笑ましく思うが、自分がそこに居ないことを、もう二度と見れはしないことを惜しむ顔だと推測する。ひとつ寂しげな笑みを零して炭治郎は目を伏せた。

「大人になりたい。俺も早く」

 珍しく力のない呟きだ。なんだこいつは。いつかも感じたような気持になったが、明確に違うのはそこに慈しむ気持ちがあることだった。この少年はまだ子供だ。子供がそのまま大人になったような生き物ではない。

「馬ァ鹿だなあテメェは」

 ほれ、と俯く額をデコピンで弾くと、すっかり油断していたらしい炭治郎はぽかんと目を丸めた。さすがの石頭のおかげで何の痛みも感じていないようだが、うわあ、突然なんですか、びっくりしたあ!と赫い瞳が爛々と天元を見つめていた。

「嫌でもなんだよ大人になんか」

 この幼く純粋な少年がほんの少しでも今より速度を落として大人になって、そんなこともあったなと笑えるといい。決戦の不穏な気配を前に、それが難しい願いだとは分かっている。しかし今、今だけは強くそれを願いたかった。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。