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憂いを捨て、海へ出よ



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=14076150
※ 三代目ワンドロさんの一周年記念にワンライ×6回で参加したものです。

 瞑想をする時は、ひとつひとつ意識というものを捨て去っていかなければならない。目を閉じ、姿勢を正し、膝に置いた手はゆるく握り、頭に胸に絡み合って詰まる言葉を呼吸と共に解き、空にしていく。やがては「瞑想している」という自覚さえも剥がれ落ち、自己という認識が滲んで消えていく。どこまでも静かに、自分と世界の垣根を失うように。

 ───さわ

 遠く、意識の外で音がした。葉の揺れる音だ。五間の先で青々と茂る若葉が庭で揺れる音。今はすっかり花を落とした桜の木が薄緑の葉を陽に透かして風に揺れる音。一つの音から失われたはずの知覚が次々に蘇り、一期は瞑想の水底から引き揚げられた。ゆっくりと目を開ける。

 瞑想から戻るったばかりの目には、薄雲が時々隠す初夏の光でさえ眩しい。その中で真正面に座す男の姿は尚更輝かしかった。月夜を沈めた瞳を嬉しげに光らせて、いつの間にかまじまじと一期の姿を眺めていたらしい。

「……三日月、」

 ためらうようにおかしな間が生じるのは、三日月が敬称を外した名で呼んでほしいと乞うたからだ。どうしても呼び慣れた『殿』という言葉を自分の胸裏へ探しに行ってしまうのだった。ふ、とひとつ満足げに微笑んだ三日月は、両手を伸ばして一期の膝の上、その両手に触れた。

「終わったか?」
「ええ……まあ。何かお待たせしていましたか」

 拳を解いて三日月の両手を取って握り返してやると、三日月は益々目を細めて微笑む。そうして、散歩がしたいなどと乞われれば一期に断る理由などないのだ。たとえ瞑想でもそぎ落とせぬひどい執着の先に、この男があろうとも。

 三日月がすっと引いた手に誘われるように後を追った。影の少ない広い庭を連れ立って横切る。青に紫にと咲き誇っていた紫陽花も、そろそろ茶色い骨を見せていた。生き生きと歩くその青い背とは対照的だ。

 薄雲が払われてきらきらと輝く池面に浮かぶのは小舟だ。さて、こんなものがこの本丸にあったかと思ったが、無いことを調べたこともない。現に今ここにぷかぷか浮かんでいるのだから深く思い悩むことでもないだろう。

「これに?」
「うん、これに」

 愉快げなその笑みに思わず一期も眦を緩ませながら先に舟に乗った。思うより安定した足場であることを確かめて、手を伸ばし三日月も乗せる。二振分の重みで小舟は少しだけ沈んで揺れた。縁に括り付けてある櫂を両手に取って人真似で引いてみると、がたりと大きく揺れる。はっはっは、快活に三日月が笑った。その笑みの眩しさに、喜びとも照れともつかない心持ちになった。

「案外、難しいものですな……」
「どれ、俺もやってみよう」

 一期から櫂を受け取った三日月が思い切りそれを引くと、小舟が大きく揺れて船首を曲げた。思わず櫂を安定させるように押さえつけてしまった一期も耐え切れずに笑う。そうやってくすくすと笑いを喉元で転がしながら船漕ぎを交替する内、次第にコツが掴めるようになった。進みたいと思った方向へ舵取りができる。

「よきかな、よきかな。お前は器用な男だなあ」

 一期は自身のことを「器用」などと一度も思ったことはないが、満足そうに舟縁に肘をつく三日月に口を挟まなかった。長い睫毛を心地よさげに伏せる様は、どれほど見ても見飽きる気がしない。思わず櫂を動かす手を止めて、はたと気付いた。波がある。流れがある。本丸の庭池にあろうはずもないものだ。

 舟漕ぎに──正面の伴侶に夢中になって気が付かなかったが、はてさてここはどこか。すぐそこにあったはずの池のほとりがまるで見えず、一面が日で光る白い水面だ。それを呆然と眺め、視線を戻した先に笑みがあった。窺うように三日月は一期を眺めている。

「……貴方は、まったく」

 ふ、と心底楽しそうに三日月は笑みを漏らした。そもそも三日月も一期も人ならざるものである。できるかどうか分からないが、できないことを確かめたこともない。小舟と同じだった。一期は考えるのをやめて、櫂を再びゆるく動かした。ちゃぷり、水が泡立ち跳ねる。

「不思議ですね。戦の最中こんなに静かだ」
「なに、いつも戦をしているわけではないさ。すべて、ほんの一時だ」

 三日月はまた長い睫毛を伏せて、船の揺れに身を任せている。おかげで一期はその姿を何の遠慮もなく眺めていることができる。夜露を思わせるどこか艶のある声を耳に心地よく聞いた。目の前に三日月が、三日月だけが座し、一期の行く先に身を任せている。そこのことがいかに甘美で、恐ろしい魔力を持つものか。想像を絶しているな。顔には出さず、一期はそれを愛しくも恐ろしくも思った。

「皮肉ですな。得るのも失うのも、その一時のみで決まるとは」

 はっはっは……三日月は声を上げて笑うが、面白いことを言ったとも思えないただの相槌だ。困惑して苦笑を返すと、いや、なにと三日月はまた笑った。

「お前らしいと思っただけだ」

 そうして、小舟を揺らせてどれほどの時が経っただろうか。一言二言、交わしては笑い、触れ、また舟の揺れに身を任せを繰り返し、次第に舟の胴に波を感じることが少なくなってきた。凪の中を進むと、重たそうな雲が空のあなたを埋め尽くしているのが目に入る。手を止めたが三日月が何も言わないので再び櫂を動かした。先へ進めば案の定、霧のような雨が手袋や外套を湿らせて重くし始める。しかしこの頃には、大して力を込めなくても舟は勝手に先へと進んでいた。湿って額に張り付いた三日月の髪の先から雫が流れ、首筋を伝う。それを憂いてもいるし、美しいものとして邪に眺めてもいる。

「あれ……」

 ふと、声が上がった。三日月のものではなく、当然一期のものでもない。見やれば小舟はいつの間にか岸近くまで辿り着いていた。池の淵に並べられた庭石の向こう、草むらに腰かけているのは、見かけたことのある──しかし同じ霊力を根源としない男だった。

 黒い装束も、黒い髪も、白皙の面も、霧のような雨の中ですっかり濡れそぼっている。しかし惨めったらしく見えないのが不思議だった。むしろ妙な色香さえ漂わせている。金の一つ目が驚いたように丸められていた。

「驚いた」
「驚かせたな。邪魔しているぞ」

 三日月は泰然と微笑んでいるが、一期としてはどう返したものか考えあぐねる。とりあえず会釈をするに留めた。燭台切はそんな三日月と一期とをしばらく交互に見つめていたが、やがて丸めた金貨の瞳を微笑みに熔かす。

「ようこそ。ここは雲居の本丸だよ。いつも空には雲が居て、こうしてよく雨が降るんだ。傘が必需品なのさ」

 やはり一期と三日月は逢瀬の果てに別の本丸へと流れ着いたらしい。よもやそんなことがあるとは燭台切も思っていなかっただろうが、互いに殺気悪意の類は感じない。ひとまず歓迎へと転じてくれたようだった。にこやかに微笑んだまま、燭台切は地べたに寝かせていた唐傘を取り上げた。言葉の通り、使い込まれていて枝が擦り減っている。

「どうぞ持って行って。僕はもう濡れているから。本丸もすぐそこだ」
「ありがとうございます」

 間抜けなことに、つい受け取ってしまってから気が付く。傘があるのなら、どうしてこの燭台切は雨の中濡れそぼって座り込んでいたのだろうか。唐傘をばさりと開き三日月へと傾けると、はたはたと小さな音で雨粒が跳ねた。

「……このままでは、風邪を引く。戻ったほうが良いでしょう」

 余計な言葉かとも思ったが声をかけた。燭台切は優しい微笑みを崩さず、しかしまたその場に腰を下ろした。貼りつく前髪を撫でつけるように額に触れる。

「ありがとう、一期さん。でも、ううん、何だろう。何故だか戻りたくない気分なんだ」
「何かあったか?」
「あったんだろうね、きっと」

 はたはたと音を立てる傘の下、ぐいと腕を引かれて舟が揺れた。三日月に引き寄せられて、寄り添って傘の下に入る。燭台切はそれを何の陰りもなくくすくすと笑った。

「一振になりたくて……でも、一振になりたくない気もしていてね。おかしいだろう?」

 おかしいとは言い切れそうにない。一期にも覚えがある。己の弱さが、執着が憎くなりそれを捨て去りたいと思っても、その先に微笑む男を、このすぐ間近の温もりを片時も手放すことはできないのだ。

「だからね、来てくれてありがとう」
「いや、なに。通っただけだ」
「それでもだよ」

 燭台切は柔らかく目を細めて、立てた片肘に枝垂れるように身を寄せた。つ、と一筋頬を雫が走って顎の先から離れる。

「こんな時、どうしたらいいんだろうね。誰か、何か、答えを知ってるんだろうか」

 笑みは変わらないが、どこか途方に暮れた物憂げな目に自分を見たような気がして、一期は言葉に詰まってしまった。代わりに答えたのは三日月だ。なるほど、なるほど。一期から傘を取ってその場で立ち上がる。小舟が小さく揺れたので思わず櫂を掴んだ。

「雲居の本丸か。降るか、晴れるか、待つ本丸だな」

 三日月は傘の先で中天を突くように腕を上げ、円を描いて傘を伏せ、ばたりと閉ざす。露を払って傘の先を中天へ戻せば、その先には一条、雲の隙間から光が下りていた。

「ほら」

 呆然とする一期と燭台切を置いてけぼりに得意そうに微笑む三日月に、燭台切もくすりと笑みを零す。一期もそれに続くしかなく、何となく目を合わせて笑う。

「そんな風に考えたことはなかったな。そうだったら素敵だね」
「お前がひとのための傘を持っていて助かった。礼を言うぞ」

 きょとんと一瞬、初めに見た時のように金貨の目を丸めた燭台切は、またそれを滲ませてこちらこそと答える。浮かんだのは一層穏やかな笑みに見えた。

「君たちはこうしてよくデートするのかい?」
「でーと」
「逢引のことさ」
「うん、する」
「じゃあ、また会えたらうれしいな」

 その傘は次でいいよ。その言葉に甘えて櫂を手にする。手を振り手を振り池から離れ、大した苦も無く再び白波に揺られた。

「いいところに流れ着いたなあ」
「そうですな」

 再び舟の縁にもたれる三日月の腕には紅色の唐傘が残っているが、髪も服もすっかり元の通りに戻っている。やはりこれも考えても仕方のないことで、一期は薄く笑って乾いた手袋で櫂を漕いだ。

「本当に、その通りだと思いました。こんな時、どうしたらいいんだろう、と」

 言って、それが何とも「自分らしからぬ」ものに思えて一期は口を噤んだ。やはり私には弱さがあって、それが判断を時に大きく誤らせる。それを恐れている、私は。

「おかしなことを言いました。お忘れください」

 言うと、舟縁に肘を預けたまま、三日月はゆるやかに笑うだけだった。

 筆を持ち上げ、何かを勢いよく書きつけようとするのだが、実際には何も進まず、ただうろうろと筆が彷徨うだけだ。墨を落とさぬうちに硯へと戻し、白い日記を前に浅くため息を吐く。多くのことがこれまでにあった。三日月と出会うまでも出会った後も、そして今に至るまで。それを何か、形にするべきではないかと思うのだが、結局はうまくいかず、いつもこうしてため息を吐いて終わる。不毛だ。それは分かっている。

 きしり、きしり、足音が近づいてくるのに気が付いたが、馴染んだその気配にただ身を任せた。日記を閉じることもない。どうせただの白紙だ。

「一期」

 甘い声に、衣擦れの音。すぐ真後ろの畳に膝を付く気配がして、肩から顔を覗き込まれた。そう変わらぬ身丈の男なのに、猫の子のような愛らしささえ感じて、一期は思わず笑うほかにない。

「はい」
「でえと、だ」
「はいはい」

 まさに二つ返事。連れ立って庭へ下り、小舟へと一期が乗って、三日月がそれに続く。池のほとりから離れ、また波に揺られた。池のほとりから離れる時のこの、何とも言えない爽快な気持ちは何だろうかと不思議に思う。だが深く考える前に、櫂を大きく振り切った三日月が水しぶきを上げて笑ってしまった。

 ふと、水面に一つ大きな葉が円く広がっているのに気が付いた。ひとつ気が付けばふたつ、ふたつ気が付けばみっつと緑の円を追うように船首を進める。その内に絨毯のように葉が敷き詰められていき、薄紅の花弁が零れるように咲く花々が目に付き始めたが、空の色は却って暗くなっていく。空の中に星々が見え始め、しかし光は弱い。遠くに山際があり紫で滲んでいる。黎明の中に蓮池が現れ、緑の絨毯の間に作られた一条の道を小舟がひとりでに進む。薄闇の中にはほのかな熱気があり、水面から湿った気が立ち昇った。

 三日月は擦れ違うことの多くなった薄紅の花を慈しむように眺めている。その度その度が美しく、まるで絵のようだった。それに見惚れている内に小舟が止まる。どうやら行き着くところまで行き着いたらしい。

「これは、数珠丸殿。おはよう」
「おはようございます」

 まばらに並ぶ蓮の蕾を一層挟んでその向こう、池のほとりに凛と立つのは数珠丸だ。墨に染め滲んでいくような長い髪、ほっそりとした立ち姿を飾るような数珠。蓮に飾られるのに相応しい清廉さが朝の気配に馴染んでいる。

「不思議な縁もあるものですね」

 燭台切とは違い、驚いた様子もなく数珠丸は口元で柔らかく微笑んだ。突然すみませんと会釈すると、そういうこともあるでしょうと返されてしまった。

「ここは夏空の本丸。いつでも陽は燃え盛り、葉は青く茂る、晴朗の庭です」
「良い所だ。この蓮、見事なものだな」
「ええ、とりわけ朝陽の昇る時こそ美しいのです」

 数珠丸は静かに答え、指を伸ばした。その先にあるのはまだ身を縮めた蕾だ。この本丸が黎明だからなのだろう。一期たちは開いた花の中を遡ってやって来たのかと気付く。

「この刻ではそれを知らぬ者も居るでしょう。惜しいものですな」
「自ずから識るということにもまた、意味がありますから」

 数珠丸はそれ以上言葉を重ねず、場は静寂に包まれた。不意に三日月も指を伸ばし、一輪の蕾に指先をかけてくすぐった。黎明の気配を敏感に感じ取っているのか、今にも綻びそうな花だった。

「識る時というのはいつも、偶さかに来るようだな」
「そうでしょうか」
「うん、身に覚えがある」

 三日月の言葉に答えたのは数珠丸だったが、三日月が見ているのは一期だ。くすりと笑って身を乗り出す。小さく揺れる舟の中から三日月は唇で蕾の先に触れた。

「こんなに美しい所を見つけたのも、一期を好いたのも、そうだったからな」
「なるほど」
「お前はどうだった?」

 相変わらず相槌を打つのは数珠丸だけだ。一期も何かを答えようとはしていたのだ。だが、まさかよその本丸、そこに顕れた数珠丸の前で、こんなに直截に言葉を求められるとは思わず、言葉に詰まってしまったのだった。

「照れているか」
「仲睦まじいのですね。よいことです」
「うん。よきかなよきかな。はっはっは……」

 伸びやかで朗らかな耳に心地よい笑い声を、甘受するような気持ちで聞いた。まったく、この方には堪らん。意趣返しのように櫂を握り込んでゆらゆら揺らせば、心底おかしそうに三日月がまた笑う。

「……朝陽を待つんですか」
「うん。数珠丸殿が許してくれるなら、そうしたい」
「陽が差すのも、水面が凪ぐのも、蓮が開くのも皆、仏の慈悲のようなもの。あなた方と日の出が待つことができることを嬉しく思います」

 空はもう随分明るくなっていて、多くの花がほつれ始めている。既に咲いているようなものもあり、一期も三日月も、恐らく数珠丸も、そういう花を目で探している。

「ここは……晴朗の庭だと伺いました」
「ええ、そのように言いました」
「この本丸には陰ることはないんでしょうか。いつも、己を隠す雲のようなものは過らんのでしょうか」

 美しい景色が今まさに生まれようとする中、そこにうまく馴染めるかも分からない一期はつい口を挟んだ。数珠丸はしばらく思案するように一期へ面を向けていたが、また静かに声を上げた。

「何か、思い煩うことがあり、それを癒したいのなら、芥子の種をもらうことです」

 芥子の種、聞き慣れぬ言葉を繰り返すと数珠丸はひとつ頷いた。ええ、芥子の種を。

「ただし、一度も苦しみや悲しみが訪れたことのない者から分けてもらったものでなければなりません」

 あなたはそのような方を見つけることができるでしょうか、問われたが答えは無かった。分かり切った答えがひとつ、そこにあるからだった。ともすれば突き放すような言葉を、数珠丸は穏やかに繋ぐ。

「これもまた仏の教えです。やはり私は、まず、それを自ずと識らなければならないように思います」
「識らぬままなら、どうなりますか」

 まるで追い縋るような言葉だと思った。唇の端に笑みを滲ませた数珠丸はやはり何も答えない。その時、朝陽が山の稜線を金色に染めて光った。薄紅の花々にも光が降り注ぎ、緑の葉の隙間もまた黄金で敷き詰められる。まさにとりわけ美しい風景だ。忽然と目を細めて一期を眺める三日月も、黄金の縁で形取られ薄紅の花々に飾られていた。

「戻るのが惜しいな」
「どうぞまた、見にきてください」
「やあ、嬉しいな。ぜひそうしよう」

 櫂に力を込める。手を振り手を振り池から離れ、大した苦も無く再び白波に揺られた。

「いいところに流れ着いたなあ」
「そうですな」

 ただひとつ頷く。最後の問いについてまだ考えていた。少なくともあの本丸を識らぬままなら一期は、あれだけ美しく彩られた三日月が、一期を正しく見つめていたことを悟ることはなかった。

「自ずから識る、というのは……難しい言葉ですな。識って、それからどうするんだろうか」
「ううん、そうだな。俺はお前を愛ずることにしたぞ」

 不意の言葉に、櫂を漕ぐ手を止めてしまった。それを目ざとく見つけ、三日月は嬉しそうに櫂を奪って漕ぐ。やはり舟は大きく揺れて水しぶきが上がった。

「貴方は、まったく」

 的を射ているのか、外しているのか。くすりと笑みを零すと、三日月もにっこりと目を細める。

「笑った」
「ええ、笑いました」
「嬉しいな」
「そうですか、もう」

 戦場で敵となるのは刃の先に居る相手だ。だが鍛錬は違う。木刀の切っ先に相手は居ても、いつも敵は己の中にある。それを殺さず、ただ越えなければならない。ひたすらに振り上げ、払い、突き──そうして一期は待ち合わせに遅れた。

「お待たせしました!」

 少しの距離でも息が上がるのは、鍛錬を慌てて切り上げ、片付けもそこそこに服を着替えて駆けつけてきたからだ。しかし三日月にはひとつも気分を害した様子はなく、むしろ嬉しげでさえあって、服に乱れが残っているのではと一期は気後れする。

「いや、なに。何をも構わず駆けてくるお前を見るのがいい」

 そうして三日月は長い睫毛の縁を幸せそうな笑みに煙らせた。その細くなった瞳に浮き沈みする月を眩しく見つめ、一期は弱り果てた笑みを返した。

「貴方は私をいつも、有頂天にも……ひどく惨めにもする」

 きょとん、と目を丸めた三日月の背を優しく押す。行きましょう、と誘えば、うんと素直な返事があった。

 例によって小舟に乗り込み、波間に浮かんで半刻もしたところ。何かがひらりひらりと目端を過った。蝶のように気まぐれに風に乗るそれを三日月はひょいと摘まみ上げる。人の赤子の手の平ほどの大きさの紅葉だった。てらりと艶やかに光るのは、湿っているためのようだった。

 それを合図にしたかのように、ざああと豆がざるから転がり落ちるような音が近づいてくる。空のあなたに重く暗く立ち込めるのは雨雲だ。慌てて唐傘を取って開くと、三日月がそれを受け取った。

「俺が差そう」
「ありがとうございます」

 間もなく唐傘を雨粒がばたばたと弾き始めた。櫂の上でも雨粒が跳ね、震えが手の平にまで伝わってくる。傘では防ぎきれなかった雨粒が足元を濡らす。自然、いつもより三日月との距離が近くなった。紅く陰った世界の中、三日月は一期のすぐ傍で、一期だけを見つめている。

 櫂から手を離すと小舟は勝手に先へと進んでいる。もうそれには構わないことにして、身を乗り出して三日月の両腕に触れ、唇だけを重ねてすぐに離れる。

 ひゅう、と甲高い音がして間近で目を見つめ合わせた。三日月が傘をわずかに傾けると、その先には庭池のほとりが見える。庭石の前でしゃがみ込む男の手にも唐傘があり、顔の半分が隠れてよく見えない。しかし口元には見慣れたほくろがあり、からかうような笑みが曲線を描いている。

「……ひとんちでよくやるよねえ」

 唐傘よりも深い色をした着物に、黒い袴。見慣れた内番着だ。紅い鼻緒の目立つ履物の下には同じような色をした紅葉がまだらに広がっている。見れば、紅葉は小舟の周りにも浮かんでいて、秋色の池を作っていた。

「ようこそ、お熱いお二人さん。ここは秋雨ってんだよね。紅葉はキレーだけど、年がら年中雨だからデートには向かないかもしんないよ?」
「そんなことはないさ」
「ま、そーみたいね」

 どこだっていいんだろーけど、と投げやり気味に放られる言葉にもからかうような親しみがある。どうやら歓迎されているらしいと容易に分かって、三日月と笑みを取り交わす。

「紅は濡れると一層、美しいものらしい」

 ふ、愉快そうに息を漏らしながら三日月は手の中の紅葉を指先で弄んでいる。ああ、それは。紅葉が無くとも分かります。一期は心の中だけで答えた。先ほど触れた唇を横目に眺めながら。

「嬉しいね。分かってくれるんだ」

 声には笑みが滲んでいる。しかし加州は相変わらず傘を前方に傾けているままだ。まるで紅葉の一部になったように、赤く燃える木々の中に紛れている。

「お前は、傘を差しているのか」
「そりゃ雨だしね。そっちもそーでしょ?」
「ああ、だがそうしない男をよそで見た。わけを聞いたら、一人になりたいが、だが一人にもなりたくなくてそうしていると言っていたな」

 ふうん、今度は興味があるともないとも知れぬ相槌。湿った冷たい風がゆるく吹き、水面に浮かぶ紅葉がゆらゆらと小舟と共に揺れる。

「そういう時こそ、傘がなきゃと俺は思うよ」

 ざあざあと降り注ぐ雨の音、ばたばたとそれが傘を叩く音、たぷたぷと舟にぶつかる静かな水音の隙間、加州はぽつりと呟いた。

「外が土砂降りでも、嵐でも、傘の中はいつも晴れてる」

 加州の持つ唐傘は大きく、その体を全て傘の下に納めている。それでも袴の先は水が染みを作り重たげに見えた。どれほどの時、そこに立っていたのか分からない。

「それは……忍耐、でしょうか」

 耐えろというのなら一期は多分、もう随分長く耐えた。耐えて耐えた先に、報われたものがあるのかもしれない。しかしそれは辛く苦しいものだった。美しい結果があったとしても、何もかもその中に収れんするわけではない。

「どうかなあ、そんなにカッコイイものじゃないよ。誰にも見えないように隠してるだけかもね」

 加州は明るく言って、その場に立ち上がった。ぐっと傘の柄を握りそしてそれをわずかに後方へと傾ける。

「笑うように、泣いてるのかも」

 紅は濡れると美しい、三日月はそう言ったが、加州の瞳の色もまさにその中の一つだった。薄く水の膜の張る瞳は、紅葉の中にあっても紅玉のように光って見える。

「傘の下は、誰のためでもなくって、俺の自由ってだけ」

 にっと口元を引き上げて、加州は一期もよく見知った風に笑ってみせた。それから興味津々といった様子で小舟を覗き込んでいる。

「お二人さんは何でこんなとこまで?」
「でえとだ」
「それはまあ、見たら分かるけど」

 加州はあからさまに呆れた表情を作って半眼になった。それを三日月が愉快そうに笑う。その笑みの柔らかさを目でなぞりながら一期も答えた。

「……色々なことがありました。ありすぎました。だから私はこの方とできるだけ共に在りたいと思う」

 傘の中にあるものを少しだけ見せてくれた加州へ、何か返してやりたいという想いなのかもしれなかった。あるいは、ただそれをこの正面に座る伴侶へも聞かせたかったのかもしれない。三日月は一期を見ている。一期の言葉をそっくり受け入れるように柔らかく笑っている。

「ふうん、デートってよりハネムーンみたいなもの?」
「はねむうん」
「そ、結婚した後に行く旅のこと」

 はねむうん、口の中で何度も新しい言葉をなぞる様は、まるで幼子だ。千年は時を渡った名刀がそうして目を伏せているのが可愛らしくて横目で眺めていると、加州がまた呆れた声を出す。はいはい、ごちそうさま!

「また来なよ」
「うん、またはねむうんしに来よう」

 櫂を手にし、手を振り手を振り池から離れ、雨脚も次第に遠のき、大した苦も無く再び白波に揺られた。

「いいところに流れ着いたなあ」
「そうですな」

 舟の中にさえ溜まりつつあった雨水はいつの間にか消えているが、そこに浮かんでいた紅葉のいくつかは残って舟底に張り付いている。それをひとつふたつ拾った三日月は、水面にそれを浮かべて眺めている。

「この傘は、お返ししたほうがいいでしょうか」
「さてなあ」

 三日月は柄を肩にかけたままの傘を頭上でくるりと廻した。加州は傘の中は自由だと言った。燭台切にもそういう傘が必要なのかもしれなかった。

「あの燭台切がそれを望めば、そうしたほうがいいのかもしれんが」

 三日月が傘ごと前かがむと小舟が一際揺れた。一期のほうへ舟がわずかに沈む。

「俺はもうしばらく、こうしていたいな」

 触れるほどの距離に三日月の鼻先が、眉が、睫毛が、瞳が、そして唇があり、抗いがたく一期はそれにもう一度口を付けた。ふふ、笑み交じりの吐息がその上に触れる。

「……ずるい方だ」
「ずるいか?」
「ええ、とても」
「そうか、そうか。ずるい、ふふ」

 堪えきれないという風に息を漏らした三日月は、最後にはとうとう声を上げて笑い始めてしまった。

 すう、すうと、呼吸の度に上下する様さえ愛しく思う。横向きになって眠る三日月の顔を後方から肘をついて眺める。指先で髪を弄び梳いて愛でた。穏やかな時間だ。時折くすぐったそうに身じろぐのが何とも生き物らしく、艶めかしく、おかしく思ったり口付けたくなったり。淡い欲を感じては、自分のそんな様に呆れているのだった。

「ん……」

 ふと、三日月の睫毛が震え、白い瞼がそっと押し上がった。障子の先が白みつつあるので目が覚めたのだろう。ぼんやりとした瞳が何かを探すように彷徨い、首を一期へと傾けて笑みに崩れる。

「大丈夫ですよ。まだ眠っていても」
「いや、一期。俺はな……起きる」
「そうですか、おはようございます」
「うん、おはよう」

 手を伸ばすので、先に起き上がって引っ張ってやる。この寝起きのどこか覚束ない様子が好ましいのだった。寝乱れた髪を撫でつけると、手のひらに沿って頭を擦りつけられてしまい笑みが漏れる。

「手伝ってくれ。着替える」
「ええ、もちろん」
「それから、はねむうんへ行く」

 元々朝の早い三日月が、寝起きにぼうっとしているのはほんの一瞬なのだ。そのほんの一瞬の権を持つのも一期だけなのだが。ともかく、今の三日月の瞳には鮮やかな打除けが浮かび、固い意志が言葉に宿っている。

「今からですか」
「うん、今からだ」

 二振りして着替えをし、夜が明けたばかりの白んだ空の下を気配を消して進む。初夏の朝は早いが熱気はそれほどでもなく、夜気に冷やされ湿った靄がすれ違いざまに首筋を舐めていった。音を立てぬようそろりと三日月を小舟に下すと、手を握ったまま三日月は笑みを零した。

「まるで逃げ出すようだな」

 一期はそれに薄く笑みを返す。いつものように腰を下ろし、櫂を手にし、緩やかに漕ぎ出して──庭石が小さくなる様を見て気づいた。ああ、この時が最も爽快だったのはこういうことだったのか。

「もし──あなたと二振、この世の理の全てから離れたら……いえ」

 つまらないことだ。今、ここには小舟があり、庭池から航海に出て、目の前には三日月がいる。全て疑いようもないことだ。それ以上は考えても仕方がない。それ以上を望む執着が、全てを失わせるかもしれないのだから。

「また、私は……おかしなことを」

 三日月は何も言わず微笑んでいる。しかし眉尻がわずかに下がった、珍しい笑みだった。おかしなことを言って不安にさせただろうか。名前を呼ぼうとして、それよりも先に三日月が一期の名を呼んだ。戦場で聞く鋭い響きだった。

「一期!」

 抱き着かれるように三日月のほうへ引き寄せられて倒れると、そのすぐ上を石つぶてが横切っていった。反応が遅れた隙をついて三日月に口付けられて更に反応が遅れる。一瞬、笑みに戻った三日月はたちまち目元を引き締めて立ち上がった。慌てて櫂を取って転覆を防ごうと力を込める。

 立ち上がった三日月が抜刀し、飛んできた石つぶてを刀で弾いてしまった。それが霊力によるものだとは一期にも分かったが、正体の分からない相手に随分無茶なことをする。ひとまず石つぶてが止んだので、三日月は刀を納めて腰を下ろした。岸が近づいて朧気ながら相手を見定めることができるようになったからだろう。小舟はひとりでに進んでいる。

「すみません」
「いや。お前がこちらに座っていれば、お前がこうした」
「……口付けもですか」
「そうだったら、俺は嬉しいぞ」

 ふふ、三日月が笑うので、張り詰めていた気を抜いて一期も笑った。その瞬間に、舟が大きく揺れた。岸にぶつかったのかと思えば、そうでもないらしい。船首を傾ける勢いで革靴が小舟に乗っていた。

「曲者め。ここが寒梅の本丸と知っての狼藉か」

 見下ろす瞳も冷たければ、吐く息も白い。よくよく見れば、庭石の向こうは銀化粧に覆われていた。小舟のまわりも薄い氷に覆われており、その隙間を縫ってここまで辿り着いたようだった。

「これはまた美しいな。寒梅か」

 氷雪を纏った庭木は一様に白いが、その隙間を縫うように艶やかな紅が色づいている。それを絵画のように背負う男の装束は紫色と黄金色とで鮮やかだ。鈍色の髪が白刃のように雪の白を照り返し、瞳の紫が鋭く光る。体中が冬の冷気に冴える刃のような男である。

「何をしにきた」
「はねむうんだ」
「はあ?」
「一期とでえとでな。すまんが邪魔するぞ」
「何を言っているんだ、こいつは。いや、こいつの言っていることで理解できるものはないが」

 突き出す刃の先に三日月がいるのは手近なためだろう。しかし、長谷部は初めから三日月とまともな対話を諦めているらしく、一期に顎を向けて答えを待っている。

「敵意はありません。たまたま、流れ着いただけです。ご容赦を」
「どうだかな。間諜が素直に事情を話すはずもない」

 どうしたものか。ここは友軍の本丸。敵陣ではないと分かっている。しかし、己の顔に笑みは残しているものの、無遠慮に伴侶へ白刃を向けられて心穏やかでいられるほどの丸さは持ち合わせていない。

「長谷部殿は、見回りですか」
「……そうだ。お前らのような不届き者に侵入を許すわけにはいかないからな」
「ですが、本丸は主の結界に守られるものです。敵意ある者を入れたとしたら、綻びを疑わねばなりませんな」

 ぴくり、白刃が小さく揺れた。射抜かれるかと思うほど睨めつけられたが、つまらなそうな鼻息一つ、やっと刀が収められた。

「主のお力は強い。無礼だ。その物言いを取り下げろ」
「これは、ご無礼を」
「白々しい。害意がないと言うならさっさと去れ」

 はあ、これみよがしなため息が白く広がって冷気に滲んで消えた。踏み込まれていた片足が上がり、沈んでいた小舟が平行に戻って揺れる。おお、とそれさえ愉快そうに三日月が笑うので、一期もついつい苦笑になってしまう。

「そうか……しかし、お前は何かを思ってこのほとりに立つのではないのだな」
「……何が言いたい」
「なに、いや。そういう者を多く見ただけだ」

 長谷部は不本意そうに眉根を寄せ、しかし何も返さずに目を逸らした。そこで、その鼻先や耳がわずかに赤いことに気が付く。これほど冷える水辺で、この男は審神者の力に厚く守られた庭を見回っていたのだろうか。

「何かを、憂え、悩み、悲しむとき、お前はここへ立たず、どこへ立つ」

 どす、と鈍い音がどこかからする。雪の重みに耐えかねたどこかの枝がそれを振るい落としたのだろう。それがこの本丸の日常なのか、長谷部は気にした風もなく相変わらず明後日を見つめて口元をへの字に引き結んでいる。

「くだらん問いだな」
「くだらん、でしょうか」

 割り込んできた一期の声に、目だけが戻ってきた。一期も思わず身を乗り出している。

「それが身を灼くほどに苦しくとも」

 くだらぬことなら、私だってこんなに長く。じっと冬の気に磨き上げられた藤紫の瞳を見上げていると、長谷部はまたそれをどこかへと逸らしてしまった。

「……どこかで聞いた話だが。悲しむ者は幸いだそうだ」
「なぜ」
「慰められる」

 どす、また雪が滑る音。男の語る言葉もこの音にどこか似ていた。飾らず、朴訥として素直だ。

「より深くこの身にかかる慈愛を知るからだと」

 男が口を閉ざせば、雪が染み取ってしまうのか、辺りからはまるで音が消えたようになる。耳が痛い静寂の中、そうかと三日月が優しく答えた。

「それをお前は一振、思っていたか」

 長谷部は大きく息を吸い、目と肩を怒らせた。また抜刀するのかと一期も構えそうになったが、大きなため息がまた白い煙になって流れていくほうが早かった。何かが放られ思わず受け取ると、氷雪にまみれた寒梅の枝だった。

「去れと言ったぞ」

 小舟がまた大きく揺れた。今度は蹴り出されたらしい。三日月が振り返って片手をのんびりと上げた。

「邪魔したな、また来る」
「二度と来るな!」

 見送る気もないのか、長谷部はさっさと踵を返してその背もすぐに見えなくなった。冷気は次第に薄らぎ、大した苦も無く再び白波に揺られた。

「いいところに流れ着いたなあ」
「そう……ですな」

 どうしても歯切れが悪くなり苦笑する。そんな一期を三日月も愉快げに見つめていた。櫂から片手を離し、膝の上に乗せた寒梅を手に取った。華を縁取っていた氷雪は溶け、薄紅の花が鮮やかに枝に映える。

「やはりよく似合う」

 三日月にかざすように持ち上げると、宵闇の髪に紅がよく映えた。

「貴方は、私の中でいつもうつくしい」

 気配を感じて目を開けた。いつものように、瞑想によって己と世界との垣根を失っていく最中、それでも一期はこの想いだけは剥がすことができないでいるから、すぐその気配に気が付いてしまう。

「貴方はいつも、私を見ていますね」

 瞑想する一期の正面に座り、笑みを傾けているのはやはり三日月だ。その表情の、瞳の柔らかさにどれほど心を潤され、逆にどれほど苦しめられているか、きっと三日月自身は知らないことだろう。知らないままで構わない。

「お前はいつも何を見ている?」
「……貴方、でしょうな。私は、貴方のことばかりだ」

 自嘲に近い笑みを零して立ち上がった。三日月へ手を差し出すと、嬉しげな笑みで後に続く。

「行くか?」
「ええ、貴方が行きたいのならどこへでも」

 いつものように庭へ降り小舟へ乗り込み舟が動き出すと、櫂を動かす一期を愛しげに眺めながら三日月はぽつりと零した。

「俺も、お前のことばかりだがなあ」

 拗ねたようなからかうような慈しむような、不思議な笑みだった。それをどう受け止めたものか分からず、一期はやはりまた弱く笑うだけで済ましている。三日月はそんな一期のすべてを愛しげに許してしまうので、穏やかに航海は続いた。ゆらゆらと波に舟が揺れ、ちゃぷりちゃぷりと櫂で水が跳ねる。

 半刻ほど進んだところで、ひらひらと舞い寄るものがあった。今度は紅葉よりも小さく、軽く、薄い色をしている。最初はひとひらだったが、すぐにいくつも雨のように流れてきたので答えを知るのは容易だった。刀剣男士にとっては見慣れた花。桜の花弁だった。

 舟の縁に身を預け、水面に浮かぶ薄紅を眺める三日月にも薄紅が色づいていく。それをやはり飽きずに一期は眺めている。

 薄紅の風に誘われるように舟を進めるうち、吸う息さえも薄紅と見紛うような庭のほとりへと辿り着いた。赤い布をかけた腰掛に座る男が桜の雨に降られながら翡翠色をした瞳を瞬いている。

「これは、珍しい客だな」

 萌え出ずる若芽のような柔らかい緑の髪に、揃って誂えられた緑の瞳。無駄のない体つきに穏やかな表情。そのひとつひとつが春から持ち出されたような容をしている。春陽よりも朗らかに、柔らかく男は笑った。

「よく来た。ここは春霞の本丸だ。ああ、丁度良かったな。茶の準備もあるぞ」

 腰掛には盆がひとつ、湯飲みが二つに急須がひとつ。まるで本当に一期たちのために用意されたかのようだが、無論そんなことがあるはずもない。一期たちがこの小舟に乗る時は、いつでも、どこを訪ねてもただの過客なのだ。

「どうかお構いなく」
「そうか?」
「うん、でえとだからな、俺たちは」
「そうか、でえとか。ならいいな」

 分かっているのかいないのか。にこやかに三日月が答え、鶯丸もにこやかに受ける。会話にさえ春は宿るのか。敢えて何をか口を挟もうという気も起きずに和んでいる一期にも春は染み入っている。

「お前によく似合う庭だな」
「そうか、ありがとう。お前たちもよく似合っているぞ」

 言って、鶯丸は盆の上の湯飲みをひとつ取って啜った。は、と吐く息にもまた春がある。薄紅がひらひらと横切り、その姿を惜しみなく飾った。

「誰かを、お待ちになっているんでしょうか」
「ああ。うまい茶は、誰かと飲むとよりうまくなる」

 湯飲みで両手を温めながら、陽気に目を細めるように鶯丸が微笑む。それは既に幸いに満ちた表情にも見えて、一期は無性にそれを羨むような気持になった。

「一振では、まずいんでしょうか」
「いや、それはないな。ほら……うん、うまい」

 もう一度湯飲みを持ち上げ、茶を啜った鶯丸はまた嬉しげに笑む。それから湯飲みを盆に戻して一期を正面から見つめた。

「一振でもうまいさ。だが俺はそれを分かち合いたいやつがいる。それだけだな」

 言うまでもなく、それがもうひとつの湯飲みの持ち主なのだろう。その言葉のあまりの明るさに、一期は言葉を失った。続く言葉を見つけるためには、うら暗い己の心に立ち戻らなければならない。

「思い煩う時も、そうすると美味くなるか?」

 声を上げたのは正面に座る三日月だった。舟縁に身を預け、愉快げに鶯丸を見上げている。その髪や肩、膝の上に桜が新たな模様を着物に色づけていた。

「ううん、そうだな。どうだろう。どちらにしても俺は……笑うかな」

 くすり、言葉の通りに鶯丸は笑って見せた。何かを──恐らくはここへやって来るだろうもうひとつの湯飲みの持ち主を思い描くように目を上げ、やがてはそれを閉ざした。

「笑い返されたら、それは分かち合って泣いたことと同じだな。俺にとっては」

 その時、さくさくと軽快に叢を踏み分ける音がして、一人の男が庭池へと近づいてきた。精悍な印象を与える立ち姿、赤銅のように鮮やかな髪色、鋼を秘めた瞳。その全てが人目を引き寄せるような男だ。鶯丸の待ち人としては、簡単に予想のつく男でもある。

「おい、鶯丸、来たぞ……と。何故お前たちがいる」

 張りのある声で腰掛に近づき、それから鶯丸の足元の小舟を認めて大包平は目を丸めた。目の動きと言葉にこもる力が正しく繋がっていて、嘘偽りのない春めく明るさがこの男にも感じられた。

「でえとだそうだ」
「……何だそれは」
「でえとだ」
「答えになっていないが」

 大包平は鶯丸の直截過ぎる説明を扱いかねて怪訝げな表情だ。しかし慣れても居るのだろう。呆れた様子で腰掛の前に回って鶯丸の隣に腰かける。頂くぞ、と闖入者にさえ礼儀正しく、しかし当然のように湯飲みを取り上げた。

「お前はどうする?」
「だから何の話だ」

 鶯丸とよく似た所作で茶を啜り、は、と息を吐く。それがなんとも和やかで微笑むと、三日月もふっと笑み交じりの息を零していた。目だけを交わす。

「思い煩うことがある時、どうする」
「そういう話だったか?」

 湯飲みを盆に戻し、大包平は腕を組んだ。思案するように目を伏せ、そう時間をかけずに口を開く。

「戦に出る」
「ほう」
「鍛錬、内仕事、あとはまあ食って寝る。それを繰り返すほかあるまい」
「なるほど?」

 受ける鶯丸は心底愉快げだ。それを気にしてもいない様子で、大包平はうんと大きくひとつ頷いて言葉を繋ぐ。

「思い煩うということは、打つ手がないんだろう。なら、我が身を可愛がって時を待つことだな」

 大包平らしいな、鶯丸の呟きに全てが込められている。俺の意見なのだから当たり前だろう、大包平は両断して一期と三日月とを不思議そうに見下ろした。

「それを聞きにきたのか?」
「いえ、」
「……うん、そうだ。ありがとう、礼を言う」
「当然のことをしたまでだ!」

 三日月に礼を言われたことが嬉しいのか、大包平は鷹揚に頷いて見せた。鶯丸はそれを、くすくす喉を鳴らして笑う。

「今度は茶を飲みにこい。頭数が多いほうがいい」
「うん、また来よう」

 櫂を手に取ったのは三日月だった。大きく舟が揺れて、水しぶきが桜を舟に上げる。それでもなんとか手を振り手を振り、再び白波に揺られて舟は戻る。

「いいところに流れ着いたなあ」

 櫂を三日月に預け、返事もせずに思案する一期を、三日月は窺うように笑む。答えなくては。何か、この方を安心させる言葉を。決して私は貴方の行う一切を嫌だとも不快だとも思うことは決してないのだから。一期の敵はいつも一期、ただ一振だ。

「『流れ着いた』んでしょう、か」

 三日月は嘘のつけない男だから、ただただ微笑むだけだ。櫂から手を離し舟を傾けて三日月は一期に近づく。膝先が触れた。

「俺も、お前と共ならどこへでも行きたい。お前をいつでも見たい」

 逢瀬で色々な景色を見た。薄雲のかかる空もあれば、蓮の花が光る夏空もあった。雨に濡れる紅葉も雪に彩られる梅も息すら薄紅に染める桜も見た。だがそのどれよりも美しく、今目の前には三日月の瞳があった。

「目を閉じないでくれるか。お前も、いつも俺を見てくれ」

 三日月はいつも甘美だ。そして容赦がない。どれもこれも一期がそう思うだけの話だが。三日月に好かれるというのはきっとそういうことだ。私にしか分からない。

「思い煩う時も、ですか」
「うん」

 人の形を取るものは誰しも、あるいは取らぬものでさえ、思い悩むことはあるだろう。多くの場合、それは一人の胸の内での苦しみだ。だが三日月は傍に居たいと言う。そんな弱く惨めに打ちのめされた一期とでも。

「貴方は……本当に私を駄目にするようだ」
「お前はいつも、俺にとって好ましいぞ」

 たとえどれだけ駄目になっても、このひとのことで悩む時でさえ、私はこのひとと連れ立っていくだろう。デートでも、ハネムーンでも、どこへでも海原の先へ。

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