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振動覚 (進撃の巨人・エレアル)



※Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=2523284

振動覚

「おい」

 突然頭上に降り注いだ声の重さに、アルミンは思わず防御の姿勢を取りそうになった。長年苛め抜かれ鍛え上げられた防衛本能の警鐘を聞きながら、ベッドに腰掛けたまま視線を上げる。そこには声と同じ重さを持った空気を纏わせた同期生の姿があった。その肉薄する不機嫌に及び腰にならなかったことを誰かに褒めてほしい。残念ながら、他の訓練兵たちは皆思い思いに消灯までの時間を過ごしており、引きつったアルミンの笑顔など一瞥もしていなかったが。

「ジャ……ジャン?」
「何話してた」
「へっ?」

 断っておくと、アルミンはジャンとさほど友好的な関係を築けていない――直接的な衝突は皆無に等しいのだが、エレンを敵視しているジャンにとってはアルミンも厭うべき存在らしかった。恐らくはミカサとの親交の深さも不興を買う一因に違いない――ともかくそういうわけで、アルミンにはジャンが何を言いたいのかさっぱり分からなかった。思い当たる節も無い。そうなれば当然アルミンは薄氷を踏まなければならない。一体どういうことかと問い返さなければならないのだ。案の定ジャンは顔色を変えてみせた。

「何話してたって言ってんだよ!さっき!ミカサと!」
「えっ、ああ……見て」
「こうやって……!手なんか取って……っ!」
「落ち着いてくれジャン、誤解だ!」

 クソ、エレンはカモフラージュか、などというでたらめな言いがかりと共に強く握られた手首を激しく振り動かされる。今になってようやく部屋中の人間の注目を集めているようだが、こんな情けない姿を見られたいわけではなかった。どう切り出し、どうジャンを落ち着け、どう誤解を解くか。逡巡する間にふと、ジャンの動きが止まった。

「……何してんだ」

 ジャンの背後から現れたエレンがその腕を掴んで動きを止めたのだ。またエレンに助けられてしまったのか、一方ではそうやって自分に失望し、アルミンの手首を掴むジャンの腕をエレンが掴んで止めている、一方ではその状況に奇妙を感じてもいた。

「お前には関係ねえ」
「離せよ、その手」

 顔を更に険しくしたジャンは、アルミンを一瞥しエレンにその剣呑な顔を戻した。持ち上げていたアルミンの手首を捨て去るように解放する代わり、ジャンとエレンとの間の空気は瞬く間に硬化している。このままではまた騒ぎになる。ジャンに引きずられるようにして中腰だったアルミンはそのまま立ち上がった。

「ミカサとはっ!ミカサとは、本当になんでもない話をしただけだよ……相談があるって言うから、それを聞いてただけだ」

 アルミンの言葉は二人の気を引くことに成功したようだ。気づかれない程度にほっと息を吐く。しかし身代わりにミカサを差し出してしまったような気がして罪悪感も募る。心の中で小さく謝罪をしておいた。ミカサ、ごめん。

「話しても構わないと、思う。けど……ミカサは人の居ない場所を選んで僕に相談したんだ。それでも聞きたいの?」
「うっ……」

 率直すぎるきらいはあるが、基本的にジャンの心根は善だとアルミンは理解している。そしてそれを実証するように、ミカサ個人に無遠慮に踏み込むことをジャンは躊躇ってくれた。もう一押しほどで渋々引いてくれるだろう――しかし悪いことに、その一押しを加えたのはアルミンでなくエレンだった。

「ミカサの相談なんかお前が聞いてどうするんだよ。アルミンが聞いてやったんだし、もう充分……」
「う、うるせえ!さっさと知ってること話せ!全部!」

 よりによって恋敵(だとジャンは思っている)エレンの口から、実質お前には何もできないと言われ、更には敵のおまけぐらいに思っているだろうアルミンにまで及ばないのだと宣告されたのだ。前のめりになって迫ってくるジャンにアルミンは深い溜息を吐き出した。

「アルミン、聞いてほしいことがある」
「え?でももう部屋に戻らないと……」
「分かってる。すぐに終わる」

 ミカサの頼みごとは大抵、アルミンの返事を待っていない。ぐいぐいと腕を引かれつつ、それは果たして「頼みごと」と言えるのだろうかなどと考えたが、結局アルミンは幼馴染たちのためなら何に対しても助力は惜しまないだろう。ならばミカサの行動も間違ってはいないか。闇夜に丸呑みされた闘技訓練場の傍で立ち止まる。辺りに人の気配はなく静かだ。

「ミカサ?」

 ミカサは寡黙な性格ながら言うべきことまでは惜しまない。すぐに話が始まるとばかり思っていたが、髪の先に指先で触れてみたり、マフラーで口元を隠したり現したりとなかなか言葉が出てこない。もう一度ミカサ、と名前を呼ぶと、遠い宿舎の明かりに塗れた黒い瞳が真摯にアルミンを見つめた。

「エレンは……笑顔のほうが好きなの」
「え?」

 高確率でエレンの名が出てくるだろうと思ってはいた。しかし後に続く言葉は咄嗟に意味を把握できない程には唐突な問いだった。返答を迫る視線に追い立てられるように言葉を捻り出す。

「まあ……笑顔じゃないよりは笑顔のほうが好きなんじゃないかな」
「教えて。どうやって笑えば一番いい」

 あまりに思い詰めた表情が間近に迫ってきてアルミンは一歩後退してしまった。一体なぜそんなことに考え至ったのか。聞けば、女の笑顔が男を引き付け男を縫い止める……などという話を耳に挟んだらしい。最近身近にバカップルが成立したせいか、どうにもこういう話題が増えたように思う。特に女性はこの類の話を好むものだから、ミカサもそれに巻き込まれたのだろう。

「む、無理に笑おうとしなくったっていいんだ。自然に……ミカサの心が動くのに任せていればきっとエレンも……」
「自然に。私の心に」

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりとアルミンの言葉を吟味したミカサは顔を上げた。そこにあったのは普段あまり見せない表情だ。きっと他の人間が見てもその違いを見つけられないだろう。けれどアルミンには分かる。どこか幼さを感じさせる、途方に暮れた顔だった。

「でも、動かない。私の心は。ずっと、エレンの傍にある」

 時折、エレンに対するミカサの感情や言動に不安を覚えてしまうことがある。けれど、アルミンも詳しく知っているわけではないが、エレンが居なければ今のミカサはきっと存在していなかったのだろう。だったらやはりそれを間違いだと言うことはできない。しようとも思わない。
 二人の傍にはアルミン自身がいる。誰にも得がたい二人の許容の中にアルミンは居るのだ。だから、不安はアルミンが解消すればいい。それはアルミンの希望で、責任だと自負してもいる。

「ミカサ、手を出して」

 唐突の要求に一瞬戸惑ったようだが、ミカサは素直に手のひらを差し伸べてきた。その手首にできるだけそっと触れる。親指を何度か動かして脈動を探り当てた。

「エレンのことを考えてみて」
「……いつも考えてる」
「じゃあ、笑ったところ。嬉しそうに、得意そうに、馬鹿みたいに、強がるみたいに笑ってるところ」

 さすが幼馴染と言うだけはあって、口にするだけでエレンの様々な表情が音や色を伴ってアルミンの中で鮮やかに広がった。拗ねたり、怒ったり、つまらなそうだったり、満足そうだったり、優しげだったり――それは間違いなくミカサも同じだ。推測ではなくてミカサの鼓動が教えてくれている。ついつい笑みがこぼれてしまった。

「アルミン?」
「……ミカサは、本当にエレンが好きなんだね」

 鼓動が速くなったことを告げると、ミカサは小さくうつむいた。何故か分からないけれど、少し恥ずかしい。そんな呟きにまた笑ってしまう。

「ミカサの心はここにあるよ。だから、この音に任せればいいんだ」

 しばらく不思議そうにアルミンの言葉を聞いていたが、ミカサなりに結論に辿り着けたのだろうか。口元のラインが少し柔らかくなった。度々戸惑うこともあるが、一途なミカサはやはり好ましい。エレンももう少し分かってあげればいいのに、などと思いつつ二人で宿舎へ戻ったのだった。

「という、わけなんだけど……」

 あまり余計な私見は加えず、事実のみを簡単な言葉でまとめた。しかし向かい合うジャンの表情は複雑だ。幼馴染であるアルミンへの羨望と、ミカサの想い人であるエレンへの嫉妬、それがどうしようもない怒りを生むが、現状はジャンにとってどこまでも絶望的である。憤怒と落胆の間で硬直したジャンは、それを不審がったエレンの手を反射で叩き落した。無言でのしのしとドアの外を目指していく。

「なんなんだよ、あいつ」
「ほっといてあげよう」

 同期の間でも何かと抜きん出ているミカサの相談事が、結局エレン関連であることに物言わぬ聴衆たちも飽き飽きしているようだった。不自然に静まり返っていた部屋に賑やかさが戻る。秘密でも不都合でも無いので打ち明けてしまったが、やはりミカサには悪いことをした。しかも肝心のエレンが――

「あっちじゃなくて、ミカサのほうだよ。巨人をぶっ殺すために……駆逐するために、俺たちは毎日訓練してるんだ。ヘラヘラ笑ってなくたっていいだろ」

 ――この有様なのだ。つくづく、もう少し持ち前の鈍感を研ぎに出してくれればと思う。

「ええっと……ミカサはエレン、君のことが好きだから……」
「今更笑顔がどうとか気にする仲じゃないだろ。いつも言ってるってのに、俺はあいつの弟でも子供でもない」

 この状態がしばらく続くのは避けられないのだろう。今のエレンには巨人駆逐以外に向ける余地が多くない。ミカサも恐らく自分の感情をはっきりと定めきれていないと思う。ミカサがゆっくり考えていられる時間もここにはないから。体中に溢れるエレンへの好意を本人ですら持て余し、ただ全身全霊でぶつけようとしている。

「好きなんだからしょうがないんだ、エレン。僕たちが……」

 『外』の世界を見てみたいように。

 どうしてこんな言葉を思い浮かべてしまったんだろう。ぞんざいに扱われたミカサの想いをかわいそうに思ってだろうか。それにしたって引き合いに出すのはおかしい。最近はめっきりエレンが口にしなくなった『外』のことなんて。子供の頃の無邪気な夢もヘラヘラ語るべきではないと切り捨てられたら――アルミンは一度口を閉ざした。

「僕たちが、お腹を空かせて、眠くなって、明日も生きていこうと思うのと同じだ。理性じゃどうしようもないんだと思う」

 もういい寝る、そう言ってベッドに上り横になるエレンに苦笑して続いた。話がややこしくなると返事があいまいになったり、上の空になったり、ぶっきらぼうになるのは相変わらずだ。タイミング良く消灯時間がやって来たらしく、鐘の音と共に光が消えた。

「……アルミン」

 昼間の訓練の疲労が早々に眠気の後ろ髪に触れた頃、かすれた声がアルミンの名をなぞったので目を開いた。ゆっくり瞬きをしながら真横に首を動かすと、いつもは背を向けているエレンがアルミンを待ち伏せていた。ひとつだけ灯されているドアの外の灯火が、窓からほのかな光を夜に含ませている。

「手、貸せよ」

 すぐに言葉の意味を理解しないアルミンにエレンはせっかちだった。布団に腕を突っ込んでアルミンの手首を探り当てる。拭うように入念にそこに触れた。

「俺を見ろ」

 意志の強さがそのまま瞳になってエレンの顔に表れたのだと時々思う。暗闇の中でも相手に逃げを許さない強い光が爛々と輝いているのが分かる。何も考える暇は無かった。アルミンはただ、言われるままにエレンを見つめていた。

「お前、好きなんだな。俺のこと」

 愉快そうな囁きと共にかさついた指先が離れていく。からかいたかったんだろうな、でもエレンってこういうのあんまり得意じゃないもんな。僕も人のこと言えないけど。無理しなきゃいいのに。そうやって自分を納得させながら何度か寝返りを打ったが落ち着かず、ついに固い寝台にうつ伏せになってしまった。嫌でも自分の心拍を数える。

 速い。

(2013-07-02)

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