文字数: 37,863

恋とは



Mov.1

「君たちを見込んで、ひとつ相談があるのだが。ぜひ聞いて欲しい、ぜひとも」

 ベンチに座りひと時の休憩を言葉という言葉で埋め尽くしていた三人が、ぴたりとその時間を沈黙に明け渡した。突然の静寂の来客に戸惑い、またその原因が自分である自覚もあって、キースは苦笑を浮かべるほかにない。邪魔をしてすまない、そう呟くとパオリンはカリーナを、カリーナはネイサンを、ネイサンはカリーナをと視線が一巡する。

「スカイハイが?」
「ボクたちに?」

 まるで示し合わせたかのように三人はキースに向かって身を乗り出してきた。カリーナとパオリンは不思議そうな表情を浮かべているが、その後ろに立つネイサンだけは嬉しげな笑顔だ。

「あら、いいのよ何も言わなくたってぇ、分かってるわよ!恋ね恋!ラ・ヴ!そうでしょ!?」
「参ったな、本当に。まだ何も言っていないのに」

 恐るべしは女の勘と言うべきか。幼い頃した失敗の内で母親に隠し通せたものがひとつも無かったことを思い出す。キースが両手を挙げると、視線はまたも一巡しキースに戻ってきた。

「マジなの……!?」
「ひょっとして前言ってた人!?会えた!?会えたの!?」
「ああいや、それは……まだだが……」

 顔いっぱいに咲かせたカリーナとパオリンの笑顔が春よりも短い時間で枯れ萎んでしまい、ますます困り果てる。キースとしてもいつかは彼女たちに吉報を運べたらと思っていた。良い結果を報告できないことに感じる口惜しさや寂しさは、いつの間にか消え去ってしまっているけれど――きっと、彼のおかげで。

「まだ……うまく言えないんだ。とにかく、その人のために急いで何かしたいと思うのに、呆れたことに私には何も思いつかないんだ」

 だと言うのに、キースは彼に何かできているだろうか。今まで彼のためになることをひとつでもやっていただろうか。彼がキースも気づかぬうちに隣にそっと置いてくれたような素敵な何かを、キースは返せているだろうか?自分の過去の行いなら、自分自身が誰よりも詳細に理解している。

「スカイハイ、少し整理してもいいかしら?『その人』って言うのは、待ってた相手とは違うのね?」
「ああすまない、そしてすまない。うん、違う人だよ。ここのところずっと、私と一緒に彼女を待ってくれたんだ」

 嬉しそうな笑顔を少し難しい表情に変えたネイサンに頷きを返す。キースの話しぶりがあまりに唐突で分かりづらかったのだろう。けれどキースにもどこから話せばいいのかさっぱり分からない。起点さえ分かっていれば、もっと遠くまでジャンプできたのだろうか。

「はじめは、私はそれをその人の優しさだと思っていた。けれどそれにはきちんと理由があったんだ。……私の思い上がりでなければ、だが」

 キースがあの時発した言葉に、彼は普段見せないような弱い笑みを浮かべた。愚かなことに、キースはその時点ですらその表情と言葉の意味を深く考えようとはしていなかったのだ。彼はただ物分りの悪いキースに呆れていただけではないのだ、と思う。

「なるほどねえ」
「え?彼女?あの人?違うの?どういうこと?」
「だからね、現れない女の人をずーっと待ってるスカイハイを好きになっちゃった新しい女の人が登場したってこと。それで、スカイハイは今やっとそれに気づいたってカンジかな。でしょう?」
「えー!?すごい!なんかすごいよスカイハイ!ドラマみたい!」
「……アンタそんなドラマ見るの?」
「うん!お昼ごはんの時にこっそり見てる!今丁度ゲスヤローをハンバーガーにしてシュラバだよ!」
「……アンタ、それもう見るのやめなさいよ。今度面白い映画貸したげるから」

 緩やかな曲線を唇で描き笑みを作っているネイサンの視線の下、パオリンは喜び、カリーナは呆れている。その話題からキースは早々に弾き出されているようだったが、お喋りの交戦場から不意に流れ弾を受け止めてしまった。

「ゲスヤロー……ハンバーガー……シュラバ……」
「いやスカイハイのことじゃないから!ドラマ!ドラマの話!」
「うん……ただ、少し後悔しているんだ。もっと早くに気づいているべきだったのに」

 交戦中の武器を咄嗟に放り投げてキースに身を乗り出してくれるカリーナに、笑みで礼を口にした。当然そんな大仰な言葉が自分の生活に突然出現するとは思っていない。けれどやっぱり、悔いる気持ちはある。彼をないがしろにしてしまっているような気分がする。それも知らず内に、というのがますます厄介だ。

「……別に早けりゃいいってモンじゃないと思うけど?」

 気づかぬうちに俯いていた顔を上げた。ネイサンはやはり柔らかい笑みを浮かべたままだ。カリーナとパオリンの間を割り入るようにしてキースに接近する。

「時間をかけた方がうまくいくことだってこの世にはいっぱいあるじゃなぁい?料理でしょ、芸術もそうね。お化粧だってそうよ。美容にはむしろすんごく時間がかかるのよぉ?もちろんお金もだけど」
「ファイヤー君……」
「それで?スカイハイはその人のために何かしてあげたいってわけね?」

 そう、キースは気が付いたのだ。それが遅かれ早かれ、良かれ悪かれ、気づいたのだったらやはり何かしたいと思う。何もせず見ない振りをして通り過ぎるなどということは、キースの性格ではとてもできそうにない。

「今まで少なくない時間を一緒に過ごしたけれど……その時間に名前を付けたいと思ったんだ。これが一番良いやり方かは分からないが……」
「デートね!」

 ただでさえ近い距離のネイサンが更に身を乗り出すので、キースは後退を強いられてしまった。心なしかネイサンに続く二人の少女の顔色が明るくなった気がする。

「……日付?」
「ノンノン!デェエート!」
「なるほど……デェエート……!そしてデェエート……!」

 二人で一緒に過ごすことに、もし仮に意味と名前を見つけるとしたらその単語に帰結するのだろうか。ううん、ひとつ唸って腕を組む。

「しかし恥ずかしながら……私はこのデェエートに成功したことが無いんだ。まずは空気の可視化とムード理解の勉強から始めなければ……」
「それじゃ一生かかっても成功しないってアンタ……」
「えっ」

 いとも簡単に重大な宣告を受けて衝撃を受けるが、カリーナはそれ以上言葉を加えてくれず頭を抱えるばかりだ。なんとキースには一生不可能な事業だったのか。なるほど失敗が続くわけだ。

「デートか……それじゃボクうまくアドバイスなんてできないな。やったことないし、よく分かんないや」

 パオリンは表情に名残惜しさを残しつつも、つまらなそうにその場から数歩後退した。こういう話題に長じているであろうネイサンやカリーナに場を譲ろうとしているのだろう。しかしその姿を見てキースには却って閃くものがあった。パオリンを引き止めて腕を取る。

「ならば、一緒にトレーニングしようじゃないか!」

 パオリンが瞳を丸めて瞼を上下させているので、安心させるように満面の笑みを浮かべ、深く頷いた。案じることはない、失敗は成功の母、そして成功の母は失敗なのだ。世の中の成功の大半は演習の累積によって結実する。

「トレーニング……?」
「思えば今まで、トレーニングを重ねることで克服できないことは無かった。そうだろう!?君さえ良ければ、デートを克服する者同士として共にトレーニングに励もうじゃないか!」

 キースの言葉を次第に理解したらしいパオリンの表情がみるみる明るくなった。このトレーニングセンターをキースと一二を争うようにして使い倒しているのはパオリンだ。ことトレーニングに関して言えば、互いに会社を超えた何かを感じる仲と言ってもいい。

「うん!そうだね!トレーニングしたい!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよアンタたち……!デートってトレーニングどうこうって話じゃ……」
「そうねえ、スカイハイとドラゴンキッドじゃちょっと歳が離れてるかしらね」
「とっ……歳は関係ないんじゃないの!?」

 ネイサンの指摘に誰より早く反応したのは、キースでもパオリンでもなくカリーナだった。その勢いにはネイサンもさすがに目を丸めている。

「オーケイ!何も問題は無いようだ!ではトレーニング!そしてトレーニングだ!」
「トレーニング、そしてトレーニングー!」
「あっ、ちょ、ちが……」

 パオリンと手を取り合って新たな目標に向けて気分を高めていたが、ふと気になることがあって振り返った。何故だか再び頭を抱えているカリーナをネイサンが呆れた様子で宥めている。

「聞いてもいいかい?デートのトレーニングとは一体どういった方法が効果的なんだろう?」
「知らないわよ!」

Mov.2

「待った?」
「いいや?君に待たされる時間なんて一秒も無かったよ。有るのは君がいつやってくるか待ち望む私の愉快な時間だけさ。実に愉快なね」

 待ち合わせの駅前に駆けてきたパオリンは一度大きなグリーンの瞳をマーブルのように丸め、それから満面の笑みを浮かべてキースの両手と手を打ち合わせた。パチン、と勢いをつけて音が弾ける。

「ごめんなさい、ナターシャにデートのトレーニングって説明するのに時間かかっちゃって」

 パオリンが申し訳なさそうな上目遣いでキースを見上げた。事情をとことん追求されて、相手がキースであることとその理由を吐かされてしまったらしい。またも新たな人にキースの不甲斐なさが知れ渡ってしまったのはやはり恥ずかしいが、別に後ろめたいことがあるわけでもない。ヒーロー事業部の関係者で、しかもパオリンの世話役の女性ならば面識もある。情報は決してスカイハイに不利益なようには扱われないだろう。気にしてはいけない、と軽くパオリンの背を押す。そこでふと、いつもと少し違った華やかな印象に気が付いた。

「いつもの動きやすい格好も良いが、今日の君はとても素敵だ、とても」
「ヤダな、いつもの格好でいいって言ったのに着替えさせられちゃってさ……!」
「実によく似合っているとも。特にその髪飾りはキュートそしてグッドだ!」
「やめてよぉ、でも……ありがとう!あれ?……スカイハイもいつもとちょっと違う?」
「うん、ファイヤー君とブルーローズに普段着ではいけないと言われていたからね。会社の仲間に相談したんだ」

 パオリンは花柄のワンピースだ。両親に買ってもらったものだという。対するキースも、いつもと違うジャケットやジーンズ、シャツやストールを着込まされている。相手がパオリンであることこそ明かさなかったものの、根掘り葉掘り事情を聞き出されたことも同様だ。パトロールから社に戻ると、既に退社しているはずの事業部の仲間たちが待ち構えていて、長時間の協議の結果だとこの服装をまるごとプレゼントされてしまった。年下ならこれで間違いない、幸せになれとのことなので、仲間たちのためにもこのトレーニングをハッピーに成功せねばなるまい。バーナビーもキースより数歳年下だから、この服装でも問題ないだろうか。

「へー……そっか。じゃあボクとイーブンかぁ……」
「もう恥ずかしくないかい?」
「うーん……まだちょっと恥ずかしい……けど、相手とイーブンじゃないとペアのトレーニングはうまく行かないよね」

 パオリンらしい答えが好ましく、ついつい笑顔になってしまう。時々自分の格好を確かめるように見下ろしているパオリンと共に、ゆっくりと舗道に足を踏み出す。ヒーローから少し距離を置いたゆっくりした時間を、こうして誰かと過ごすのは少し不思議だ――思えば、バーナビーと過ごす時間の中ではあまりそういうことを考えなかった。気づけば、隣に彼が居ることが嬉しいだけの事実になっていた。

「スカイ……あっ」

 パオリンが突然言葉を止めたので首を傾げて目線を下げる。口に両手を当て、しきりに周囲を気にしている。駅前の広場は比較的大きなスペースなので気にならなかったが、街道に出ればすれ違う人々の距離はぐっと縮まる。パオリンはそれに気が付いたのだ。

「呼ばない方がいいよね。どうしよう?」
「それもそうだ。ううん……」

 バーナビーがデビューし共にジェイクの件を乗り越えてからは、ヒーローたちの間でプライベートの時間を共有することがぐっと増えていた。しかしどこか閉鎖された空間に集うことが多いので、人目のあるところでは案外二人称で済んでしまっている。しかしこれはデートである以上、何か対策を講じるべきかもしれない。腕を組み一通り唸る。

「ハニー……だとか、スィートだとか……だろうか?」
「わー!なんだか美味しそう!」

 口慣れない言葉を少し照れながら押し出したが、パオリンはただ嬉しげな笑顔だ。なんだかそれが可愛らしく写る。それをよく見るために顔を覗き込んだ。

「好きな食べ物はなんだい?」
「え?えーっと……一番は餃子だけど、最近は……天亮閣の小籠!」
「じゃあ君の事は今日一日シャオロンと呼ぼう」
「ほんと?じゃあスカ……好きな食べ物は?」
「うーん……カレーだろうか」
「じゃあボクはカレーって呼ぶね!」
「ははは、いいとも!」

 シャオロン、カレーと呼び合いながら歩いている内に、そんなこと言ってたらお腹空いてきたよとパオリンが呟いた。そもそもの目的が昼食を共にすることだったので、パオリンの直感に任せて一軒のレストランに入る。イタリアンがメインの店のようだが、ランチタイムはブッフェになっていた。

「はーお腹いっぱい!」
「いつも思うが、君の食べっぷりは実に気持ちが良い、実に。つられて食べ過ぎるところだったよ」
「あのお店のパスタ美味しかったなー。ねえカレー、やっぱり名前パスタに変えていい?」
「オーケイパスタ、腹ごなしに少し散歩をしようか」

 二人でくすくす笑いながら、満腹を抱えて再びゆっくりと舗道に戻る。昼下がりにすれ違う人々のほとんどは、キースとパオリンのようにゆるやかな時間を陽光から摂取しているように思えた。そのような感慨を隣に並ぶ誰かと共有できることは、それだけで既に尊いことだ。

「楽しいけど……これがデートなのかなあ……」

 だからこそ、キースにもパオリンにもデートの特異性を見つけられないのだろう。平和も危機も隣に立つ誰かを限定させはしない。少なくとも今までのキースの人生の中では。

「あっ、そう言えばデートって手を繋ぐんだっけ……?」
「では、手を借りてもいいかな?」
「うん!」

 差し出した手のひらにパオリンの手のひらが乗る。斜めにかかる目線の橋の両端で微笑みを浮かべた。昼食という目的を果たし、当て所も無く歩みを進める。後援の脇を通り過ぎようとしたところで、パオリンがぱっと顔を上げた。

「聞こえる?」
「……何がだい?」
「こっち!行ってみよう!」

 引っ張られるままに公園に駆け込み、数十メートル進んでやっとパオリンの言葉を理解する。平和な昼下がりを祝福するような軽やかな音楽が空気を震わせていた。パオリンは耳が良い。バイオリンやフルート、アコーディオンの演奏に合わせて、欧州風の民族衣装を着込んだ人々が踊っている。この公園を拠点にパフォーマンスを行っているグループのようだ。飛び入りらしい私服の人々もいくつか見られる。

「この曲……」
「知ってる曲?」
「うん……いや、ここのところ頭から離れないんだが、実を言えば曲名を思い出せなくてね、実を言えば」

 奏者が軽妙に奏でている曲は、キースの日常の隙間に滑り込んでくるあの名前のない鼻歌と間違いなく同じメロディーを持っている。聞いてみよう、とパオリンが足を踏み出したところで短いその曲は終わってしまった。すぐに次の曲が始まる。近づいてきたパオリンを歓迎するように、二人組でダンスをしていた人々が手招きをして微笑んでいる。

「えと……」
「行こう!そして踊ろう!」

 恥ずかしそうに尻込みするパオリンの手を今度はキースが引いて、人々の輪に入った。生憎演奏されている曲にもそれに見合ったダンスにも詳しくないので、二人して見様見真似だが。足や肩をぶつけつつ、ぎこちなく人の動きをなぞっているだけなのに、何故だかとても愉快だ。

「ボク、やっぱりよく分かんないけど、今日すっごく楽しい!」
「私もさ!」
「知ってる!」

 予測の外にあった返事に少し驚く。パオリンの瞳の中のキースは、笑顔に浮かべた瞳を丸くしていた。それを心底おかしそうに笑ってパオリンは小さな声で言う。ボクが楽しいのはスカイハイが楽しいからで、スカイハイが楽しいのはボクが楽しいからだよ。

「スカイハイが楽しいって思ってたら、きっと相手も楽しいって思ってるはずだよ!」

 一曲が終わり、また新しい曲が始まる。返事が分かっているので、この先どうするかはお互いまだ口にしない。

「ありがとう、そしてありがとう。……マイパスタ?」
「どういたしまして!マイカレー!」

Mov.3

「この前と同じ」
「……えっ?」

 公園のモニュメントの前で携帯電話を確認していたカリーナは、それをパチンと音を立てて閉じると一言そう言った。言葉の意味を把握する文脈を得ることができず、あいまいな笑みを浮かべることしかできない。

 クイズ番組の収録を終え、出動が無ければトレーニングへ向かおうかと思っていたところ、突然カリーナから連絡が入った。時間と待ち合わせ場所がマークされた地図が送られ、いつもの私服禁止、オシャレすること、時間厳守とある。数日前に予定を聞かれた記憶があり、何か折り入った話でもあるのかと駆けつけて──の、一言目がこれだ。

「この前と同じ格好、って言ってんの」
「あ、ああ……私の服は動きやすいものばかりだからね。君のような若い女性に合わせてオシャレをしろと言われると……このぐらいしか持ち合わせが無」
「ドラゴンキッドと私の歳は全然違うんだけど。分かる?」
「もちろん分かっているとも!同い年ではなかったと記憶しているよ」
「だったら!相手に合わせて!服も変えるの!分かった?」

 指を鼻先に突きつけられ、見えない力に頭頂部を押さえつけられているように深く頷く。どうやらキースの無配慮がカリーナの機嫌を損ねてしまったようだった。

「お、オーケイ……。だが、どうして君は先日の私の服を知っているんだい?」
「へっ!?そっ、それは……!」

 しかめられていた顔が熱湯で開く茶葉のように驚きに染まり、焦燥が煮出されていく。しかしカリーナの不機嫌の理由すら見つけられないキースには、その理由がいよいよ分からない。何やら口ごもってしまったカリーナを見つめ、いくつか自分の中に仮説を立ててみる。

「ああ!なるほど、そういうことか!そしてそういうことか!」
「……そうよ、悪かったわね。うまくいくか心配だったの!だから……ファイヤーエンブレムと一緒にこっそり……」
「ドラゴンキッドにトレーニング内容を聞いたんだろう?」
「え?」
「隠すことなど何ひとつないとも!重要な仕事にはホウ!レン!ソウ!スピナッチが重要だとワイルド君も言っていたよ!ハッハッハッ……!」

 実のところその言葉の意味はよく分からないのだが、東洋系のことわざか何かなのだろうと思う。どうやら連絡の重要性を説いており、口馴染みがいいので気に入って最近は普及に励んでいる。ぽかんと口を開けてキースを凝視していたカリーナはやがてひとつため息を吐き出した。

「アンタさあ……ま、いっか……行こう。時間無いし。夜パトロールしてるんだよね?」
「行くって……どこへ?」

 デートに決まってるでしょ、カリーナは子供を叱るように口を尖らせ、何かに気づいたようにはっと目を丸めた。それから少し頬を赤らめトレーニング!とさらに語気を強くした。なるほど、あのメールはキースをデートのトレーニングに誘うものだったのだ。やはりキースはいつも気づくのが遅い。瞬く間に感動が体中の血液を沸き立たせる。

「ブルーローズ君!ありがとう!そしてありがとう!実を言えば私もまだまだトレーニングが足りないと、自分の無力さを痛感していたんだ……君の助力に感謝する!そして感」
「はいはい、分かったから。いいわよもう」

 カリーナの手のひらが重たげに上下する。キースとしてはまだまだ言い足りないところなのだが、ひとまず大人しく口を閉じた。

「この前のって……ただ近所の子供と遊んであげてごちそうしたのと全然変わらないじゃん。あんなのデートなんて呼べないわよ。大体なんなの?カレーとかパスタとか……」
「美味しそうだろう?」
「美味しいかどうかはどうでもいいの!」

 ぴしゃりと言いきられてしまい、またも口を閉じざる得なくなる。随分年齢が離れているし、もちろん子供っぽいところもあるけれど、やはりカリーナはキースの何倍もしっかりした仲間だ。眉尻が情けなく下がっているのが自分でも分かる。

「それじゃあ君の事はなんと呼べばいいだろう?それが分からなければ、君の手を取る許可をもらえないんだ」

 赤の滲み始めた陽光の下に手のひらを晒して差し出すと、カリーナはそれを凝視して黙り込んでしまった。

「……どうかしたかい?」
「カリーナでいいわよ。変な名前付けようとしないで」
「了解、そして了解だ。お手を拝借しても構わないかい?カリーナ」

 ぞんざいな頷きが返ってきたので手を伸ばすと、それより先にカリーナがキースの左腕に両手を伸ばしてしがみついた。表情は渋い。

「この前も滑り出しは良かったのよね……顔も悪くないし、イイ線行ってるはずなのにな……」
「何か言ったかい?」
「別に。独り言」
「どこへ向かえばいいかな?」
「そういう時は『どこへ行きたい?』って言わなきゃ」
「な、なるほど……そしてどこへ行きたい?」

 カリーナが歩き始めたので、それに歩調を合わせて公園を出た。夜から逃れるかのように人々は忙しなく街道を流れていく。

「そしたら大体の子は『どこでも』とか『貴方は?』とか聞き返してくるわね。ひょっとしたら『貴方の行きたいとこ』とか言われるかも」
「ふむ……そしてふむふむ……」
「だからこういう時のためにとっておきの場所をいくつか知っとくの。雰囲気が素敵なとこよ!行きつけのファストフードなんて連れて行かれても女の子は喜ばないから!」
「なるほど。だが私は……」
「今日は突然だったから私が決めたげる。一回行ってみたかったカフェがあるの!友達だけじゃちょっと入りづらくて……あ」

 それまで頼もしいコーチとしてキースを教え導いたカリーナが咄嗟に言葉を止めた。またも表情がぱっと変わる。今度はキースにもそれが失言を後悔する表情だと分かった。

「お役に立てて光栄です、レディ?そしてカリーナ!」
「ちょっと!バーナビーみたいなこと言わないで!」

 その指摘に少し驚く。そんなキースにも気づかず、絶対に相手の前でそういうこと言わないでよとコーチングに戻るカリーナの隣、じわじわと広がるなんとも言えない気持ちを噛みしめる。気恥ずかしいような、しかし嬉しいような、不思議だ。

「……別にそれが目当てだったわけじゃないんだからね」
「分かっているとも!君の助言は実にためになる、実に。ありがとう!そしてありがとう!」

 上機嫌のキースにカリーナが少しだけ怪訝そうな顔をする。それがおかしくて小さく笑ってしまった。

「あー楽しかったー!」
「私も楽しかったが……少し疲れたかな」
「それ!それも本番じゃゼッタイダメ!言ったらすぐ嫌われちゃうわよ!」

 膨れ面でまたも指を突きつけられ、首肯の魔法にかけられる。疲れたとは言ったものの、この二時間ほど街を練り歩いたに過ぎない。普段のトレーニングの方が確実に過酷だ。しかし終点も目的も決めずに歩くということに、キースの身体は思いの外慣れていなかったらしい。

「本当に何も買わないでよかったのかい?」
「いーの!あんな高い物、今買ったって着たり使ったりできないよ。もっともーっとイイ女になって、それから全部買ってやるんだから」
「……ふふ、そうか」

 カリーナらしい芯の揺るがない考えに好感を覚えて笑うが、何故だか不本意げな目で見つめられてついつい両手を上げる。呆れたような冷めた目でキースを一瞥したカリーナは、ため息をひとつ吐いて自分の腕時計に目をやった。

「わっ、もうこんな時間なの!?行こ!」
「まだあるのかい!?」
「なに!?不満なの!?」
「いや、決してそうじゃないが時間が……」

 空の色もすっかり夜に塗り変えられてしまっている。睡眠時間、パトロール、ジョンの散歩、夕食と逆算していくとそろそろ厳しい時間帯だ。カリーナはごめんと勢い良く謝罪をして、それでもキースの腕を強く引いて歩を進めた。

「もうちょっとだけ。デートの仕上げ!」

 長い時間は歩かなかった。ストリートをいくつか跨ぎ、小さなバーに辿り着く。初めて来た場所なのに店の名前に覚えがあった。バーナビーの話でよく聞く、虎徹行きつけの店の名前と情報がすぐに結びつく。戸惑うキースを尚ぐいぐいと引っ張って中央のテーブルに座らせ、カリーナは店の主人と何言か言葉を交わし店の奥へと消えてしまった。挙動に迷っているところに差し出されたグラスに尚更困惑する。しかし恐る恐る匂いを嗅いでみればアルコールの匂いがしない。意気込んで口を付ければ味もしない。正真正銘のミネラルウォーターだ。

 店の照明が絞られ、ステージにスポットが当たる。短い口上を終えて登場したのはカリーナだ。ピアノの前に腰掛け、ゆっくりとしたテンポの曲を歌い上げる。胸に染み渡るような声だ。店内にはこのカリーナの歌声を敢えて聞き逃す酔っ払いも居て、ここは彼女の演奏に対して充分な環境とは言えない。けれどステージとキースの間には、感動を滲ませる静寂と余韻が確かに存在した。

 一曲だけ終えた彼女は、少しインターバルを置くことを断ってステージから退いた。拍手が収まった頃にキースの元へそっと戻ってくる。ねぎらいと感動を一気にまくしたてようとしたが、カリーナはそれを首を振って静止した。

「どうしても聴いてほしかったんだ。これが私の本当の、一番見てほしい、ありのままだから」

 だから、何も言わないで心の中で持ってて。カリーナがかすかに浮かべた笑みは、いつもとは違う不思議な雰囲気を持っている。キースを見ているようで、もっと遠くを見ているようにも思えた。

「色々言ったけど……好きな人と一緒に居るならありのままを知りたいし、知ってほしいよね。本当はファストフードでも全然いいんだ、私……。エラそうにして、全然参考にならなかったかも。ごめん」
「いいや、君には……本当に素敵な、そして大事なことを教わった。ありがとう、そしてありがとう」

 笑みはいつもの少女らしい無邪気な照れ笑いに変わった。早く行きなさいよと押し出されるように店を放り出され、街道を歩く。いつもより予定が少しずれ込んでいるのだ。急がなければならないはずなのに、カリーナの歌の余韻を引きずったままステップを踏むように軽やかに歩いている。頭から離れないあの音楽が周囲の空気に漂った。心の中に音楽があることは、きっと幸福なことだと思う。

「あっ、これがなんの曲か聞いてみれば良かった……!うっかり、そしてうっかりだ……」

Mov.4

「ええ……っと?」

 限界まで相手の言葉を待ったのだが、とうとうキースは文字通りに音を上げた。眼前――こちらも文字通り、目から数インチ離れていない間隔で微笑みを浮かべるネイサンは、キースの一言を聞いて更に顔を近づけてきた。鼻と鼻の先が触れそうな勢いだ。

「分からないかしら?」
「な……何がだい、そして何がだい?」
「テンネンはアナタのチャームポイントだけど、ドンカンは悪い男の持ち物よ。ああん、まさかスカイハイがそんな人だったなんてぇ!」
「わ、悪い男か……すまない、そしてすまない。以後、重々気をつけよう。重々」

 しかしいくら注意を払っても、何故トレーニングセンターに入るなりネイサンがこのような至近距離を維持しているのかキースには理解できないのだった。真剣にああでもないこうでもないと記憶の砂山をスコップで掻き回している内に、ネイサンはやれやれと首を横に振った。やはり至近距離のまま。

「仕方ないわねぇ、じゃあヒントあげちゃう!」
「そうか、それは助かるよ!頼む!そしてお願いします!」
「ドラゴンキッド」
「うん!」
「ブルーローズ」
「うん!」

 ヒーローの名前を言う度にネイサンは一本、二本と指を立てた。しかし三本目には何も言わず、ただ微笑んでみせるだけだ。キースが黙ってると、今度こそ分かったでしょうと念まで押してくるので弱りきってしまう。

「えっ……それで終わりかい?それで……」
「もうっ!焦らし上手なんだからっ!ドラゴンキッドとデートして、ブルーローズとともデートしたんだから次は当然最後のレディ!そうでしょ!」
「ふむ、そしてふむ!しかし……忙しいアニエス君が私の個人的な事情に協力してくれるだろうか……?」
「……アータじゃなかったら消し炭にしてるわよ、言っとくけど」

 確かにトレーニングは多様なものを繰り返すほど持ちうる能力の幅を広くする。アニエスをいかに説得するかを真剣に考え込んでいると、腕を強引に引かれた。バランスを崩し前のめりになる。

「じゃ!そういうことだから早速行きましょ!」
「えっ」
「着替えも用意してあるからなあんにも心配要らないわよお!」
「えっ」

 まだトレーニングに取り掛かってすらいないと言えば、今日はもともとオフでしょと切り捨てられた。道理を片手にした仲間を強引に引き剥がすこともできず、ずるずるとロッカールームへ牽引されている。先にトレーニングへかかっていたイワンと目が合ったが、彼はぽかんと口を開けてキースたちを凝視しているだけで、見送られる形になってしまった。

「君はよくここに来るのかい?少し……意外だ、少しね。君はもっと君の店のような華やかな場所が好きなのかと思っていた」

 抵抗を感じるような硬さも体が沈むような過剰さもない、適度な柔らかさを持つソファの上でキースは食後のコーヒーに手をかけた。昼下がりのレストランだが喧騒や混雑の気配を感じない。それぞれのテーブルに対し料理だけでなく時間もきれいに切り分けられているようだった。明るすぎない採光や主張の少ない内装も、そのゆったりした時間の生成に一役買っている。

「もちろんああいうの大好きよぉ?だってアンタ、あの店は私の趣味でやってんだから。……けどデートだったら話は別じゃない。大体、デートって何のためにするものかしら?」

 言葉を出すために口を開いたはずなのだが、おかしなことにその言葉が出てこない。そもそも解決策としてデートを提示したのはネイサンであって、キース自身はその意義とバーナビーをうまく結びつけることができていなかったのかもしれない――ということに今更思い至る。自覚できるほどに眉根の寄ったキースの沈思をネイサンは小さく笑ってみせる。

「相手を知るため。そうでしょう?」

 映画もいいわ、テーマパークも悪くないわね、私の店だっていいわよ……ネイサンは指折りデートスポットを挙げ連ねてみせてから、その両手をひっくり返してみせた。でも静かな場所で相手の話を聴くのが、一番早い道じゃない?

「そんなに難しく考える必要なんてないわよ。トレーニングだって本当は要らないの。お互い相手を知っていくうちに、自然に次に行く場所が決まっていくんだから」

 ネイサンの話には道理がある。対して、今までのキースのトレーニングには肝心な目標設定に問題があったように思われる。腕を組みひとつ大きく頷いた。

「なるほど……では、このトレーニングも本来は不要と言うことだろうか……」
「いいえ、これは必要」
「えっ」
「やっぱりアタシの見立て通りね~!イイ男にはイイ服を、そして美女、このアタシを!カンッペキね!」

 今、キースが身に纏っている服は全てネイサンが事前に用意していたものだ。キャメル色のジャケットにタイの無い柔らかなシャツ、バックルが目立つようにデザインされたベルトに暗い色のジーンズ。カジュアルスーツとでも言えばいいだろうか。これならフォーマルな店でもカジュアルなスーツでも臨機応変に対応できる、とのことらしい。キースとしてはシャツをズボンに入れてはいけないという言いつけがなんとも落ち着かない。

「これはアタシのワガママ。スカイハイとデートがしたかったっていうアタシの希望よ。あー満足した!……さ、アナタの番よ」

 広げられた手のひらがキースの目の前に巡ってくる。しかしキースはそれを瞬きと共に眺めることしかできない。

「一体何の番だい?」
「んもーだから焦らしちゃイヤンって言ってるじゃなあい!」

 鈍感は悪い男の装飾品、などと言われても、キースにとっては身に着けた覚えの無いものだ。またも弱り果てたキースにネイサンが身を乗り出した。

「何かしたいことがあるかしら?どこか行きたいところは?今日だけはなーんでもお願い聞いてア・ゲ・ル!」
「そ、そうかい……?ありがとう、そしてありがとう……」

 なるほど、ネイサンの希望に続いてキースの希望を述べる番、ということだったらしい。しかしこれがまた難しい問題だ。心地の良い店で、ネイサンと楽しい時間を過ごしている。キースにはこれ以上に求める物が思いつかない。

「実のところ、私は君が嬉しそうにしているだけで……」
「ハーイ、ストップ!」
「ハーイ……ハハーイ?」
「ハーイ、ハハーイストップ!ってそうじゃないわよ!あのねえ、スカイハイ……」

 しかしキースの提出したものは出来の悪い答案だったらしい。ネイサンは頭を重そうに抱え、マニキュアを光らせながら指を振った。それから不意に顔を手のひらで覆ってみせる。

「忙しい中、突然ごめんなさいねぇ……やっぱり迷惑だったでしょ?好きでもない場所へ好きでもない服を着て好きでもないアタシなんかと一緒じゃ……そうよね分かってる……」
「そんなことないさ!一体何を突然言い出すんだい!突然何を!」
「でもアタシの何も要らないんでしょ、アナタ」

 ネイサンに続いて身を乗り出すと、手のひらの隙間から呆れたような視線が覗いているのを発見した。冗談よ、両手を挙げて苦笑される。

「自分だけ欲しがってばかりいたら、まるで悪いことをしている気分になるものでしょ。スカイハイ、アナタが嫌な思いをしていなくたってね」

 飴じゃないんだから、何かを配るだけじゃ恋だなんて言えないと思うけど。

 身を乗り出したまま、ネイサンのパープルの瞳をじっと見つめていた。バーナビーは決してキースに何かを求めたことはない。キースも彼に敢えて何かを求めたことはない。その上で、いつも彼には楽しい時間をもらってばかりいるから、何もしないままでいる自分に焦燥が生まれたのだ。けれどキースは今まで、彼が何を欲しているかきちんと考えたことがあっただろうか。そしてキース自身は、彼に何を欲しているのだろう。

「いい?ラヴはファイヤ~ン!なの」
「ファ、……ファイヤーンかい?」
「そう!時には、何かの片手間にはできないくらい熱く燃え上がるモンなのよ!」
「……ファイヤーン……」
「ファイヤ~ン!欲しがって求めてこそのラブ!ファイヤ~ンラヴ!」
「ファイヤーンラブ……」
「ファイヤ~ン!ラァヴ!好きな人からのワガママはプレゼントみたいなモンよ。ハンサムもきっと泣いて喜んじゃうわよお」
「いや、しかしバーナビー君は……」

 ファイヤーとラブ、二つの単語を口の中で口の中で繰り返していたが、ひとつあまりにも重大な事実がネイサンの口から転がり出たことに、多くの時間を噛み砕いてやっと気がつく。シュテルンビルトの女神に誓って言うが、今までキースは彼の名前のアルファベットひとつ出していないはずだ。

「……どうして」

 驚愕の中にいるキースとは対照的にネイサンは飽くまで楽しそうに微笑んでいる。はは、気が抜けるのに合わせて笑みが漏れ出ていた。椅子に背を預ける。ネイサンがキースやバーナビーの何に勘付き何を知ったとしても、それを悪意で濁すようなことは絶対に無い。それだけは確かなので、キースにはそれ以上重ねる言葉が無い。

「……君の店のレモネードがそろそろ恋しいんだ。最近、少し忙しかったからね」
「しょうがないわねぇ。特別に飲ませてあげてもいいわよ?」

 気まずさも気恥ずかしさも今は極力考えないことにする。少し勢いをつけて立ち上がった。パオリンやカリーナに続いて、素敵なデートを教えてくれたレディをエスコートするために手を差し出す。

「では行こう、行こうでは!ネイサン!」
「やだぁ、キースったら積極的なんだから!」

 手を取って立ち上がり、キースの腕にしがみついたネイサンと共に店を出た。外はのどかな陽光で満ちていて、照明の落とされていた店内から出ると眩しいくらいだ。心の中まで余すところなく照らされたような気分になって、つい音楽が鼻先で踊る。

「あら」
「知っているかい?この曲……頭から離れないんだが、何の曲だったか、どこで聴いたのかさっぱり思い出せない。さっぱりね」

 陽光に輪郭を象られたネイサンは意外そうに目を丸めた。キースが困惑を滲ませると、たちまち表情を笑顔に変える。

「さて、どんなモノかしら?」
「君にも分からないのか……うーん残念、そして残念だ……」
「本当ねえ」

 ジャケットを重ねていると暑いとさえ感じるような陽気だが、何故だか小刻みな震えが腕を伝わってくる。何かまた「天然」な言葉を返してしまったのかもしれない。ネイサンは心底愉快そうに笑っていた。

Mov.5

「やっと見つけたぞ!無事か!スカイハイ!」

 キースは日課のパトロールへ、ネイサンはヘリオスエナジーへ、それぞれ店の前で別れようとしている時だった。息を切らして駆けつけてきた必死の形相のアントニオに、キースもネイサンもただただ目を丸くする他に無かった。

「デートのトレーニング、ねえ……」
「心配をかけたようですまない!そしてありがとう!バイソもが」
「ちょっと音量落としとけ」

 手のひらで頬ごと口を押さえられたので黙って頷く。確かにここは賑やかなバーのカウンター席だ。アントニオの行きつけであるらしく、バーテンダーは決して出過ぎた干渉をすることはないと言うが、職務に関することを開けっ広げに話すには適さない場所だ。

「俺はてっきりお前もヤツの毒牙にやられたもんだと……」
「なんてことだ。お前も、ということは君は既に毒牙にかかったということか」
「縁起でもねえこと言うなバカ!そういうことじゃねえ!」
「ハッハッハ……」
「ハッハッハじゃねえよ!」

 アントニオは怒鳴りながら、『失礼な冤罪のお仕置き』という名目でいつものように触り倒されてしまった尻に居心地悪そうに触れている。ネイサンに強引に引きずられていくところを目撃していたイワンの話を、どうやら厳重に受け止め過ぎてしまったらしい。ネイサンの過剰なスキンシップにはキースも度々驚かされている。アントニオが尚更過敏になるのは分からない話でもない。

「デートにトレーニングも何もないだろうが。男ならリハーサルは無しだ。ガツンと惚れた女を引っ張っていけ……おい、何笑ってるんだよ」
「おや、失礼。そして失礼。他意は無い。ただ、君にガツンとエスコートしてもらったジョンは幸せものだと思ってね」

 いつまで経っても引かないキースの笑みはアントニオの顰蹙を惜しみなく買い込んでいるようだった。ネイサンと共に一悶着あった後、やはり当初から予定がずれ込んでいることを知り、ジョンの散歩を申し出てくれたのは他の誰でもないアントニオだ。おかげで何の憂いもなくパトロールへ向かうことができたのだから、恩人の要望に従うべく努めて顔を引き締める。

「……とんだじゃじゃ馬だよ、お宅のお嬢さんは」
「ジョンはオスだが」
「知ってるよ!例えだ例え!大体まずお前が言い出したんだろうが!」
「言い出した……何をだろうか。ファイヤー君の毒牙のことかい?安心してくれ。私も君のピンチにはきっと駆けつけよう。きっとね!」
「こいつは……!」

 アントニオの途切れた言葉の続きを待っていたが、しばしの沈黙を挟んでもういいと努力を投げ出されてしまった。更に促しても返事が期待できそうにないので、突然渡された会話のバトンに戸惑いながら走るべきレーンを探す。

「実は似たようなことは……ファイヤー君にも言われたんだ。こういうことは……本当はトレーニングなんか要らない。相手を知っていくうちに自然と成り立つものだと。だが私は、トレーニングを重ねれば重ねるほど、このデートというものが分からなくなっていく気がしてね」

 この歳ではずかしいだろう、と苦笑してしまう。キースはただ、バーナビーとの時間を名前の無いままどこかへ置き去りにしたくはないと思っていた。そしてそのために取るべき行動の内、最も適したものはデートであるという助言を得た。しかしキースはこのデートというものに不得手である。そのためこうして仲間の協力を得てトレーニングを繰り返してきた。矛盾は無いように思うのだが、どこかに必ずつまずいたポイントがあるに違いない。腕を組んで唸っていると、隣のアントニオがグラスをテーブルに置いて溜息を吐き出す。

「そもそも……デートしたいっつったらお前、ゴールはひとつじゃねえか」
「ゴール?ファイヤー君が私にデートを勧めてくれた理由は、相手を知るためだ」
「そりゃあそういうのもあるけどよ……ほら、お前も男なら分かるだろうが」
「女性には分からないものなのかい?もっとハッキリ言ってくれたまえ」
「いや、あー……ああモウ……!」

 顔を思い切りしかめたアントニオは、目を瞬くキースの前でグラスのウィスキーを一気に空けてみせた。氷がカランと音を立てて喝采を送っている。

「結局、お前は相手とどうなりたいんだ?ってこった!」
「どう、なる……?」
「そうだ。聞いた感じ、今のお前は相手から好かれてるからお前も好きにならなきゃって思ってるように見えるぞ。逆に言えばだ、相手がお前を嫌いになったらお前も嫌いになるのか?」

 別に良い悪いって話じゃないが、アントニオは吐き捨てるように付け加えた。アルコールの匂いが強い。キースであれば既にほろ酔いくらいはしていそうなものだが、アントニオはいつもと変わらぬ顔色でボトルを手ずから傾けている。琥珀色の液体がグラスの色を染め変えていく様を目で追う。溶けた氷がゆらゆら揺れる姿は、思考の海を漂うキースに少し似ていた。

「考え込んでるようじゃ……」
「笑っていてほしい」
「あ?」
「幸せそうに、楽しそうに、嬉しそうに」

 どうなりたい、その言葉は希望する変化を表している。バーナビーが何を思い、何を求め、どんなデートを好むのかはやはり容易に解答が出そうにない。けれどバーナビーと過ごした短い時間の累積を少し立ち止まって振り返るだけで、心の中は何か柔らかいものでいっぱいになる。閃くように脳裏に駆け巡るのは、ひとつひとつ探り当てては注意深く保管していたバーナビーの些細な表情の動きだ。

「困ったようにでも、呆れたようにでも構わないんだ。ただ……」
「……ただ?」
「できれば全て、私の居るところで」

 そうすればもっと、新たなバーナビーを集めることができるから。

 アントニオはキースの言葉を聞いてもしばらく黙っていた。不思議に思ってその表情を覗き込むと、口元と眉根が奇妙に歪んだ表情は一瞬で哄笑に変わってしまった。笑いをこらえていた表情だったようだ。

「な、何故笑うんだい……!」
「面白いからに決まってるだろ!そうか、分かった分かった。今日は俺のおごりだ。飲め飲め!」
「いや、私は……」
「後はもう帰るだけだろう?一杯ぐらい付き合え!分かったな!」

 キースの肩へ腕をかけビールを頼んでいるアントニオの陽気に呑み込まれ、一杯の好意を有り難く受け取ることにする。少量のアルコールならば身体にも明日の職務にもさほど影響は無いだろう。

「ところで、アントニオ君。ところで」
「なんだよ急に」
「これもデートということになるのだろうか?」

 先ほどのキースのように楽しげな笑いを長引かせていたアントニオがはたと目を丸めた。すぐにその表情が思い切りしかめられる。

「……どっちかって言やあ……ならないでくれるとありがたいんだが……」
「そうか!ありがとう、そしてありがとう!楽しいデートだった!」
「聞けよ!そして音量を落とせ!わざとやってんのかお前は!」
「ハッハッハ……私も愉快になってきたぞ!」
「くそ!仕返しか天然かややこしいんだよお前は!」

 肩に回った腕がそのまま首をホールドしたので、くすぐったさにその腕を叩く。すっかり周囲の人々の視線を集めてしまっていることに気がついたのか、アントニオは不服げにグラスの元へ戻っていった。差し出されたビールに口もつけないうちから愉快な気持ちになって、つい鼻歌が漏れ出る。いつものあのメロディーだ。

「……聞いたことあるぞ、それ」
「本当かい!?ぜひ詳しく教えてほしい、ぜひ!頭から離れないのだが、一体どこで聞いた何の曲なのかまるで思い出せないんだ」
「いや、俺も曲名なんかは分からんが……多分、料理番組のテーマ曲じゃないか?ほら、三分のやつだ」

 アントニオが口ずさむ軽快な音律は確かにキースの心にある音楽と同じ楽譜を持っている。料理番組を進んで見ようと思ったことは無いし、今のところ料理を作る方の番組には縁が無い。けれどテレビプログラムに使われたテーマならば、確かにどこかで耳にしていてもおかしくはないように思われた。

Mov.6

 トレーニングの一日規定量を終え、シャワーを浴びるためにロッカールームへ戻ったが、そこには思わぬ先客――しかし本来は意外性のあるはずもない仲間が居て、丁度ジャケットを脱ごうとしているところだった。

「ああ、スカイハイさん。久しぶりですね」

 バーナビーの声にも態度にも何の変わりも無かった。当然だ。何が変わったのかと言えば、それはきっとキースの心中の何かであり、それをキース以外の人間が知るはずもない。だがこの瞬間においてやっと判明したのだが、その張本人であるキースにもその事実に自覚が無かった。つまりバーナビーの顔を見た瞬間、キースは今までに覚えたことのない動揺と緊張に見舞われることとなり、咄嗟の行動と表情を全て見失ってしまったというわけだった。

「……スカイハイさん?どうかしました?」
「あ……いや、君に会うと思っていなかったものでね」
「そうですね。最近やっぱり忙しくて。だから……嬉しいですよ」
「え、」

 出すつもりの無かった声が出ている。バーナビーを不審がらせていることが手に取るように分かった。親しい仲間内だけで見ることのできる彼のさり気ない微笑みは、今まで心の中にいくつも保存されてきた表情だ。だというのに、世紀の新発見に直面した研究者のように驚きうろたえている。

「本当にどうかしたんですか?体調でも……」
「うわっ……ああ、スカイハイさん?」

 ドアの前で立ち止まってどうしたんですか、背後から自動ドアがスライドする音とイワンの声がした。イワンはキースを追い越して初めてバーナビーの存在に気づき、すっかり硬直したキースを気にしつつもバーナビーと挨拶を交し合っている。バーナビーは不意に苦笑を浮かべ、手のひらをキースの方向へ傾けた。グリーンの瞳が何の気負いもなくキースに視線を送る。

「なんだかスカイハイさんの様子がおかしいみたいなんですが、トレーニングルームで何かありました?先輩」
「ええ?いえ、特に、何も……さっきまで全然いつも通りでしたし……」
「やっぱり体調を崩しているんじゃないですか?スカイハイさ、」
「折紙君」
「は、ハイ?」
「ハイハハーイ?」
「は……?え……?えっと……ハ……ハイハハーイ……」

 まだバーナビーの話が終わっていないことは分かっていたのだから、キースは当然その言葉を最後まで待つべきであった。しかし自分でも思わぬほどに真摯な声は既に空気を震わせてしまっており、伸ばした手はイワンの腕をがっしりと掴んでしまっていた。

「折紙君。この後の君の時間を、ぜひ私のために分け与えてくれないだろうか。ぜひ」

「ええっと……お茶です。グリーンティー、飲めましたよね」
「ああ、すまない。そしてすまないね。突然訪ねて来たのは私だというのに」

 椅子も無い丈の低いテーブルにどう向き合うか迷った末、胡坐を勧められその場に腰を下ろした。パオリンと同じようにイワンとはトレーニングセンターでよく顔を合わせる仲だ。プライベートで共に出かけることは今までにも何度かあり、時に個人的な相談を受けることもあったが、家まで訪れたのは初めてのことだった。靴を脱ぐ必要のある珍しい質感の床は、全くの異なった文化の産物なのだが妙な落ち着きを感じさせる。変わった形のカップからくゆる湯気を見つめつつ、肺に残った空気を搾り出すように息を吐く。淡い緑色をした水面がキースの像を崩して揺れた。

「あの……」
「うん?」
「いえ、その……僕にできることがあるかは分かりませんが、できる限り力になりますから」

 いつもより少し早めに切り上げはしたものの、パトロールを終えての遅い時間だ。しかしテーブルを挟んで座るイワンの目に曇りは無く、正面からキースを見据えている。仲間の真心に触れ、キースはうっかり目頭が熱くなる心地がした。

「折紙君……!」
「スカイハイさんに僕ができることなんて……そんなに無い、とは思うんですけど……」
「どうかそんなことは言わないでくれ!君にしかできない頼みがあるんだ!」
「僕にしか……ですか」
「ああ!そうとも!ぜひ私を君の弟子にしてくれ!ぜひ!」

 いわゆる「ジャパン式」の座り方をしているイワンの目線はキースとほぼ同じところにある。真剣な表情が中央に寄せた眉がぴくりと動いた。それから何かに納得するかのような頷きを何度か経て、口が開かれる。

「無理です」
「えっ」

 良い返事を信じて疑っていなかっただけに衝撃も大きい。キースはテーブルに手をついて更に身を乗り出した。丁度その分だけイワンはテーブルから離れていってしまう。

「何故だい!そして何故!」
「意味が分からないです!どう考えても無理ですから!逆ならありえるかもしれませんけど!」
「しかし……私はどうしても習得したい!君の見切れを!」

 唐突にその場に沈黙が下りた。体を不自然に後方へ傾けた姿勢のまま、イワンは逸らしていた視線をキースへひたと戻している。長い前髪に隠れがちなバイオレットがきらりと光ったような気がした。

「見切れ……と申されたかスカイハイ殿……」
「ああ。私には必要なんだ。見切れの力が」

 更にしばしの沈黙。イワンはいくつか深呼吸を繰り返し、元の猫背がちな姿勢にゆっくりと戻った。

「いくらスカイハイ殿といえども……見切れは一朝一夕に習得できるものではござらぬ……。まさに臥薪嘗胆の覚悟で修行に臨み、やっと自由自在に……番組の進行を妨害せず、スポンサーを画面端からアピールできるようになるのでござる……!」
「ふむ!そしてふむふむ!」
「辛く……!苦しい修行です……!スカイハイさんにその覚悟がありますか!?」
「ああ!どんな辛さも苦しみも乗り越えてみせるさ!そしてネバーギブアップだ!」

 拳を握り勢い余って立ち上がったイワンだったが、キースも同じように立ち上がろうとすると慌てて腰を下ろした。その場には他に誰も居ないのだが、どこか恥ずかしげに左右を見渡している。

「その前にひとつ……聞いてもいいですか?」
「ああ!なんでも聞いてくれたまえコーチ!」
「よ、よしてくださいよ……コーチだなんて……えっと、それで……どうして見切れを?」
「よくぞ聞いてくれた!よくぞ!実は……デートのためなのさ!」

 また沈黙。じっとイワンの反応を待っている内に、その体が小刻みに震えていることに気がついた。折紙君、思わず名前を呼ぶとイワンはがばりと顔を上げ、両手をテーブルに打ちつけた。ガタリ、テーブルが大きく翻る。

「見切れをそんなことに使おうとは……不潔!不潔でござるよー!」
「お、折紙君!?ああ!グリーンティーが!」

「……本当にすみません、取り乱しました……」
「いや、気にしないでくれたまえ。私の方こそ悪かった。ただ、フケツとは一体どういう意味だい?」
「……忘れてください……」

 キースの自覚なき言動の何かがイワンの気に障ってしまったことに違いはない。更にその原因はどうやら「フケツ」という耳慣れない言葉に関わりあるようだ。しかし、倒れてしまったカップやティーポットを片付ける合間もイワンは一向して意味に言及しようとはしなかった。仕方が無いので後日改めて調べ、行いを正す外あるまい。

「最近ずっとデートのトレーニングをやっていた……って、ことですか。その『ある人』の笑顔のために」
「バイソン君に助言されたんだ。それなら君に見切れを習ってみたらどうか、と……。実を言えば、私には笑顔と見切れの関係すらまだ分かっていないのだが……!実に情けない話だ……!実に……!」
「いえ、あの……多分それ……ああいえ、もうなんでもいいです……」

 言いかけた言葉が再び出てくるのを待ったが、やはりイワンは口を重たそうに閉ざしたままだ。仕方が無いので新しく淹れ直されたグリーンティーに口をつける。少し苦味があるがとても香りがいい。

「僕にもよく分かりませんけど……まず間違いなく、見切れはデートに必要ないものですよ」
「そうか……では私は一体どうするべきだろうか……」
「どうって……デートって言ったら……チュ、チューとか……?」
「えっ?すまない、そしてすまない、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれないかい?」
「いえ、僕にもチョット。チョーット分からないって言いました」
「そうか……」

 あの場で、まるで逃げるようにイワンをロッカールームから引きずり出したキースを、バーナビーは一体どう思っただろうか。イワンに約束を取り付けてロッカールームへ戻った時にはもうその姿は無かったが、さぞ奇怪だったことだろう。情けなくも心配をかけてしまったのだ。体調に問題無いことだけは伝えておくべきだったと悔やんでいる。

 仲間たちの助けの下、順調にトレーニングは実を結んでいるものとばかり思っていた。しかし今日のキースは一体どうしたことだろうか。まるで退化してしまったかのようだ。何故あのような未だかつて無いおかしな状態に陥ってしまったのか、今のところキース自身にすら見当がつかない。しかし半端なトレーニングは却って筋肉や靭帯、骨などを壊すこともある。きっとキースにはまだ欠けている何かがあるのだ。

「大丈夫ですよ」

 思考の底なし沼に片足を沈めかけたところを、ひょいと引き止められる。伏せていた目を上げると、イワンは何故だか途端にうろたえて見せた。何故だかすみませんと謝られ、どういう意味だかお辞儀をされたのでキースも同じように頭を下げてみる。

「ええっと……無責任かもしれないんですけど……。スカイハイさんは、すごく真面目に、真剣に、努力だってして、この街を僕らと一緒に守っています。その人も含めて」
「……ありがとう。そしてありがとう」

 唐突に褒められたことに戸惑いつつ礼だけは述べたが、イワンは違うんですと慌てたように首を振った。それからすぐに違わないけどと付け加え、ああ、ううと言葉に困窮している。キースは目を瞬いてそれを見守るしかない。

「僕には大切な奴が居て……って言っても、カワイイ女の子でもなんでもない、ただの腐れ縁の友人なんですけど。僕はシュテルンビルトと一緒に、そいつを守ってる」

 それが僕を強くして、僕を守ってくれてるような、そんな気がするんです。
 
 何言ってるんだか分からなくなってきた、とイワンはとうとう恥ずかしそうに頭を抱えてうつむいてしまった。そのつむじをじっと見つめる。思い返されたのは「彼女」のことだった。思えば、ベンチで一人彼女を待つ間、キースの思うことは飽くまで単純だった。花束と感謝の言葉は、仮に直接手渡せなくてもいい。もし会えなかったとしても、スカイハイとしての活躍が彼女への感謝になる。

「だから……つまり、その……スカイハイさんはそのまま、それで充分だと思います。そのままでその人の笑顔を守っているし、スカイハイさんも守られてる。見切れなんか要りませんよ」

 それは実はキースをも強くしていて、明日誰かを守る力を与えてくれていたのか。
 もしもそうだったなら、それはひとつの充分な幸福だ。顔を再び見ることなく、彼女が尚キースに与えてくれた多くの幸せや愉快や力が、頭の中をよぎって心に染み込んでいった。ベンチからもう立ち上がっても、君を待たなくても構わないだろうか、私は。

 今度は私が、そんなふうにある人を力づける誰かでありたいんだ。

「うん……君は、立派なコーチだ。ありがとう。そしてありがとう」
「本当にやめてくださいってば、わけの分からないことばっかり言って、すみません」
「何故謝るんだい?せっかくなら、『どういたしまして』と言ってくれるとありがたい」

 決して長居したわけではなかったが、元々訪ねた時間が遅いものだったのだ。名残惜しいが腰を上げる。
 昼間はせっかくの機会を逃したが、今はきちんとバーナビーと向き合いたいと考えている。やはりキースにはまだ多くの課題が残されているのだと思う。けれど今はとにかく彼の顔を見たいと気が急いた。これがネイサンの言うところのファイヤーンラブであろうか。

「なんて言うか……本当の本当に、スカイハイさんが恋してるんですね……」
「えっ」
「鼻歌、出てたので」

 イワンが控えめながら愉快げな微笑を浮かべている。指摘されてはじめて気づいた自分にキース自身も照れを隠せない笑みが浮かんでしまう。恋というものに関わりがあるかは分からないが、確かにバーナビーとのデートについて悩んでいる間、常にこの音楽の中に身を置いていたように思う。

「バイソン君によれば料理番組のテーマらしいのだが……どうしてそんな曲が頭から離れないのだろうか」
「もしかしたら誰かからうつったのかもしれません。誰かの鼻歌って時々、頭に残っちゃいませんか?」
「なるほど、そしてなるほど……」

 だとしたらキースと同じような感情に戸惑う誰かの鼻歌だったのだろうか。言葉通り鼻歌に感染してしまったらしいイワンと笑いあいつつ、キースは彼の家を後にした。

Mov.7

「よお」

 イワンの暮らす一風変わったアパートの門扉から出て、数メートルも離れていない壁際。そこに背を預けて立つ男が顔見知りであることに、声をかけられてやっと気がつく。何故ならここで見るとは思わなかった顔だったからだ。キースが目を瞬いている内に、虎徹はどこか億劫そうな動作でハンチングを軽く持ち上げた。

「ワイルド君!ワイルド君じゃないか!こんなところで会うとは……!」
「なーんか、みんなとデートしてんだって?」
「いや、正しくはトレーニングだよ、ワイルド君」
「トレーニングね……まあなんでもいいけど、そんならちょっと付き合ってもらうぜ」

 よっ、虎徹が掛け声を上げ勢いをつけて壁から背を離す。それから虎徹の言葉の意味を掴み兼ねているキースに気づき、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「おじさんだからって仲間外れにすんなよなあ、ハニー?」

 じっとその笑みを見つめていると、次第に虎徹が何を言いたいのかが分かってきた。ああ、思わず声が漏れる。

「なるほど、つまりワイルド君も私に協力してくれるのかい?ありがとう!そしてありがとう!だが今日はもう遅い、日を改めて……」
「っだ!いいから来い!そんで頼むからツッコミ入れてくんない?何でもいいから。バニーみたいな感じで」
「ふむ……バーナビー君のような……。私はハニーじゃない、そしてバニーでもない!私はスカイハイ!そしてスカイハイだ!……こんな感じでどうだろう?」
「分かった。もういい。何も言わなくていいからちょっと来い」

 確保された犯人のように腕をがっしりと掴まれ、人気の無い薄暗い夜道を引きずられる。キースなりに真剣に「バーナビーみたいな感じ」を表現したつもりだったが、どうやら虎徹の求める回答とは違ったようだ。

 きっとキースにとってバーナビーはまだまだ見知らぬ街なのだ。横切った切れかけの電灯の住所さえすぐに浮かんで、明日にでも役所に教えてやることができる――そんなシュテルンビルトとは違う。キースは彼について、美しい夜景を作る高層ビルやモニュメントのいくつかを知っているだけだ。その街が魅力的であればあるほど、もっと奥深くまで知りたくなっていく。だからネイサンの提案も、きっと正しい。

 虎徹について歩いたが、そう長い時間をかけずに足を止めた。しかしどうやら目的地へ到達したわけではなさそうだ。ブロンズへ下るルーパーへ乗り込んだからには、その更に先へ目指す場所があるはずだろう。普段はスカイハイのスーツと共に一瞬で下ることが多いため、ルーパーにはほとんど乗らない。虎徹について上ったデッキで風を受けていると妙に新鮮さを覚えた。パトロールの際にも気にしたが、今日は少し風が強い。髪やジャケットが気ままに弄ばれて思わず笑みが出た。虎徹はハンチングを押さえつつ、デッキの手すりに背を預けている。

「それ、何の曲だ。スカイハイの新曲か?」

 一瞬何を問われたのか分からず目を丸めた。虎徹に向き合うようにして風を受けているうちに、ついついいつもの鼻歌が風にまぎれたようだ。ひょっとすると仲間たち皆に聞かせてしまったのではないだろうか。どうにも照れが出てしまう。

「いや、どうやら料理番組のテーマソングのようだ。何故だかずっと頭から離れない。何故だか」
「料理番組?」
「バイソン君が、三分のやつ……と言っていたな」
「ああ?三分のやつ、つったらこうだろ!全然違うぞ?」

 虎徹は手すりに腰を預けたまま器用に口笛を吹いてみせた。なるほど、確かにその軽快な旋律にも聞き覚えはある。しかしどちらが本当の料理番組のテーマであったかは、キースの記憶内の情報では確定できそうに無かった。あいつ田舎者だからなと虎徹がぼやくが、彼らの故郷はほぼ隣り合っていたように記憶している。それを指摘すると理不尽にもしかめ面で毒づかれてしまった。

 ルーパーはゆっくりと夜のシュテルンビルトを滑り降りている。ラッシュ時には混雑すると聞くが、時間が時間だからだろう。人影は少ない。シルバーのプレートを過ぎれば、モノレールが頭上を通過していくのが見える。袖口を軽く引いてPDAで時間を確認する。日付はとうに改まっていた。

「……そんなに心配すんなよ、俺は無欲なカノジョだからな。家までのエスコートで勘弁してやるって」

 虎徹は苦笑して、手すりに寄り添うように身を翻した。ついにハンチングを脱ぐことにしたらしく、それを持ったまま身を屈め手すりに肘をついている。

「君は……あそこで何をしていたんだい?もしかして君も折紙君に用があったのだろうか」
「おっ、いいセンいってるぞ。まあ、用があったのはお前にだけど」

 もしイワンに用があったなら、その時間を奪ってしまったキースは虎徹に詫びる必要がある。しかしその可能性は簡単に否定されてしまった。おまけに用があるのはキースだという。しかしキースはイワンの家を尋ねる予定を誰にも話した記憶は無かった。問えば、ワイルドタイガーの新しい能力だとごまかされてしまう。

「用……とは……」
「だからデートだっつってんだろぉ?ほら、ちょっとこっち立て」

 虎徹が自分の隣のあたりの手すりをトントンと叩いている。ひとまずその言葉に従い隣に立った途端、虎徹は重そうな溜息を吐き出した。

「落ち込んでたぜー、バニーの奴」

 それから、思いもしない言葉も一緒に吐き出した。虎徹の視線は眼下のブロンズにある。声を上げることすらできず凝視しているキースに目を向ける素振りはない。

「あいつ、あれで繊細なんだぞ?突っつくの楽しいってのは分かるけどさ……」
「私の何か……言葉が、もしくは行動が、また……彼を不愉快にさせてしまっただろうか」
「はあ?」
「どうして私はすぐに気がつくことができないんだろう……ワイルド君、私の『天然』はどうすれば改善するのだろうか……」

 腕を組み考え込むキースを、今度は虎徹が凝視していることに気がつく。助けを求めるように目を合わせた。知らない街なら自分の中に地図をゆっくり作っていけば良い。それも楽しい作業だ。けれど闇雲に歩き回った結果でバーナビーを傷つけていたとしたら、出来上がった地図に何の意味があるだろう。

「……諦めろ。そいつは多分一生モンだ」
「えっ」
「ま、個性ってやつだな」

 しかし、と更に言葉を重ねようとするキースを虎徹は首を振る動作だけで押し留める。彼はしばらく思い悩むように額を手のひらで覆っていたが、ふと身を起こし真剣な表情でキースを見つめた。

「お前にひとつ言っとくぞ。一番重要なことだ。よーく聞いとけ」
「……うむ」
「いいか、バニーは……」
「バーナビー君は……!?」
「柔らかくないぞ」

 柔らかくない。反義語、柔らかい。気質、言動、身体的特徴。この言葉は様々な意味を包括しているようにキースは思う。即ち、その一言では虎徹の言いたいことが理解できなかった。全ての指を開いたり閉じたりする動作をとりあえず真似てみる。

「いいか、これはオヤジジョークじゃない。真剣に言ってるんだ……バニーにはコレがない」
「こ、コレ……」
「けどアレはある!アレが!アレがだぞ!」
「あ、アレ……?すまない、もう少し分かりやすく言ってくれると助かるよ」
「っだ!この天然!」
「すまない、そしてすまない……」

 やはり「天然」は一生をかけてでも取り組むべき、キースに残された課題の一つのようだ。弱り果て、手指を動かしながら唸るキースの背を虎徹が軽く叩いた。これも理不尽である。何故なら、てっきり怒っているものだと思っていた虎徹が肩を揺らして笑っていたからだ。

「見えるか?」

 もう少し話をじっくり吟味し、整理する必要を感じているのだが、虎徹は当然のごとくそんなキースを待ってはくれなかった。夜空へ放るようにして手のひらを手すりの向こうへ広げてみせる。

「ブロンズって、やっぱり上と比べると暗いよな」

 手すりに手をかけ少し目をこらした。虎徹の指と指の隙間、ビルやアパートの黒い塊の中で、電灯が大小さまざまな四角を満たしてまばらに光っている。オレンジを空気に滲ませる街灯火が、夜の印象を少しだけ和らげてはいても、やはりブロンズには昼が眠った気配がある。

「ここに住もうって最初に決めたのは、まあ……アレだ。選べなかったんだよな。田舎モンで知り合いなんて居ないし、当然金だって無い」
「今は違うだろう?」
「今もたいして変わんねえよ、お前と一緒にすんな」

 いくらかの幸運もあって、確かにスカイハイは長らくヒーローランキングの上位を維持している。しかしかつては、ワイルドタイガーもやはりランキングの上位で常に存在感を示す強力なヒーローだったのだ。「今もたいして変わらない」わけもないはずだが、虎徹は手のひらで夜の風をかき回し、キースの疑問をもそこに溶け込ませてしまった。

「ルーパーの駅の周りは結構人通りあるんだけどさ、そっから俺んちってなるとたちまちヤバくなる。実際、事件も多かったしな」
「そうか……うん。よく覚えておこう、よく」
「十年前の話だって。今は結構マシになったんだよ。どっかの生真面目ヒーローのおかげでな」

 礼を言ったほうがいいのだろうか。いや、言いたいと思った時がいつでも感謝のタイミングだ。それはスカイハイの、キースの信条だ。けれど虎徹の苦笑を見ていると、それが必要のないことであると言われているような気分がする。この男は、時々不思議だ。

「……でもうちのカミさんときたら、どんだけ遅くなっても今から帰るって言うと駅で待ってるんだよ」

 かつて彼の身上についていくらか知る機会があった。しかし、しめっぽい話はナシだと言って彼自身はあまり多くを語らず、時折娘の自慢話を耳にする程度だった。ルーパーがレールを滑る音は静かで、虎徹の低い声量でもよく通る。

「危なっかしいから、黙って帰ってくるだろ?そうするとメチャクチャ怒るわけだ。ホンット、どうすりゃいいんだよって感じだよなあ……」

 ブラウンの目の中にも、間延びするような声の中にも、優しい柔らかさだけが込められていた。まるで彼の象る人がすぐ目の前、手すりの向こうで彼の話を聞いているかのように。くるり、それが突然キースの方向へ向けられ驚いてしまう。

「今、バカップルって思ったろ」
「えっ……いや、とても素敵だと思ったよ。とても」
「バカ、そういう時はうんって言うんだよ」

 得心できぬまま、しかし仲間の貴重なアドバイスは素直に受け止めたく思い、ぎこちなく発された頷きに虎徹はまた笑った。そして、ビルの隙間を縫うルーパーが目指す方向へと視線を戻す。

「あいつ、多分俺のこと好きすぎたんだよな」

 その言葉はやや平淡に、深い海の中に一粒の真珠を落とすようにぽつりと呟かれた。キースにとってその言葉は実に素晴らしい響きを持って聞こえる。けれど虎徹の言葉にそんな色味は感じられないのだ。それは悪いことだろうか、キースの問いに虎徹は投げやりに答えた。さあな。

「……ただ、それがヒーローよりも命がけの仕事らしいってことは、俺も知らなかったわ」

 言うなり虎徹は手すりから身を離した。のらりくらりとデッキを横断しつつ言うには、そろそろ到着するらしい。風に押し込められるようにルーパーの中に戻り、扉を目指して歩く。虎徹の背を追いながら、キースはジャケットのポケットから切符を取り出した。到着を知らせるアナウンスも、大画面の広告ビジョンの光も、少ない乗客の上をがらんどうに通過する。

「このルーパー、シルバーまで折り返すからそんまま乗ってろ。いいな?」

 ほれ交換、扉に到達した虎徹は有無を言わせずキースの切符を取り上げ、その手にある往復切符をキースに押し付けた。最初からそうするつもりだったらしい。ここまでの話からすれば、彼はよくこのルーパーに乗っているのだ。コミューターパスの類を使わずキースと同じように切符を買っていたのは、思えばおかしなことだった。やはりキースに吟味の時間を与えず、虎徹はドアの向こうへ軽やかに飛び出していく。

「居ないな」

 なんちゃって、虎徹が左右を見渡して再びいたずらっぽく笑う。ドアが閉まるのを待つことなく片手を挙げ、彼はブロンズのオレンジに消えていってしまった。

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