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恋とは



Postlude

 ドアを開けた途端、強い風が喝采を上げてキースを歓迎した。それをやはり笑顔で受け止めながら無人のデッキを歩く。先ほど見た景色が逆流して両脇を流れている。見下ろすオレンジの光の群れの隙間で、往路と同じように暗闇が溺れかかっているのが見て取れた。

 彼がそうしていたように手すりに背を預けてみる。見える景色は同じはずだが、目指す方向は違うのだ。まだまだ眠らないシルバーから光が零れて、風と一緒に顔面へぶつかって弾けていく。下層から上層を見上げた時、遠くに見えるシュテルンビルトの夜空はプレートとビルとが作るパズルの空白だ。それをじっと見上げている。

 虎徹が持っているのは後悔だろうか。悲しみだろうか。罪悪感だろうか。どれも当てはまりそうなのに、結局は全て良く似たピースであるだけだ。パズルの欠けた部分とは合致しない。キース知り得る限りで言えば、虎徹はそれらの感情を持っていたとしても、簡単に誰かへそれを見せびらかしたりしないだろう。不思議と心の中が静かだ。何とは無しに己の両手を進行方向にかざしてみる。

「ハッ……なるほど……!コレ、とはコレ……そしてアレ、とはアレ……!?」

 ゴトン、と重々しい音を立ててルーパーが停車した。到着のアナウンスががらんどうに夜に響く。誰に見られたわけでもないが両手の動作をごまかすように大きく腕を振り、駆け足気味に出口を目指す。やはりまばらな人影と共に改札へ向かった。磁器カードの切符を飲み込ませて改札をくぐると小さなため息が漏れる。ひとつ首を振り、よしと気合を入れ直して姿勢を正せば、上げた視線の先に愉快そうな笑みがあった。

「何が『よし』、なんです?」

 呆然と立ち尽くしてしまったキースの元へ、バーナビーはやや呆れた様子で歩み寄って来る。疲れているんでしょうと軽く背を押され、やっと歩みを再開した。まるで有りもしない背のぜんまいでも巻かれたかのようだ。

「なんだか、今日は驚いてばかりいるようだ……なんだか」
「それは良かった」
「だが、実を言えば今一番驚いているんだよ」
「そうですか?とてもそうは見えないな」

 歩調はいつもより随分ゆっくりしていた。足元のレンガ舗装の目を四つまたぎ、足裏でしっかりと踏みしめる。レンガ一つ分歩幅を大きくすると、隣の足も同じ線上にあるレンガを踏む。レンガ一つ分歩幅を縮めると、やはり隣の足は同じ線上のレンガの上に踏み下ろされる。表現し得ない感情が胸を圧迫しキースは不意に足を止めた。足元から顔を上げ、バーナビーの不審そうな表情を見つめる。

「君に会いたかったんだ」

 眼鏡のレンズの中でバーナビーの目がきゅっと丸くなった。しばらくキースと真正面から視線を交し合っていたが、やがてそれは逃げるように伏せられてしまう。最終的には苦笑に戻って、グリーンがキースを再び映した。

「今日、昼。会いましたよ」
「うん。私は実に惜しいことをした。せっかく君に会えたのに」
「……そうですよ」

 やや沈黙を挟んだ小さな呟きはほんの少しだけ、拗ねた少年のような声色をしている。そしてキースはそれが意味する絶大な肯定に今更気づいている。照れを隠すようにまた歩き始めた。心臓から体中へ心地よいリズムが伝わっている。そのテンポを追うようにレンガの鍵盤を踏む。

「なんだか随分長い旅をして、やっと君まで辿り着いた気分さ」
「それはご苦労様だ。迎えに来て良かったですね」

 ちらりと横顔へ目をやったつもりが、しっかり視線を交わしてしまう。キースの言いたいことをバーナビーはすぐに察したのだろう、虎徹さんから連絡があったのでと一言で経緯を明らかにした。結局何故虎徹がキースの予定を知っていたのかは謎のままだが、今はあまり気にならない。たったひとつを除いて、全てが意識の外にある。

「なんと言えばいいだろうか……つまり、とにかく私は……」

 ええ、バーナビーは落ち着いた声音で相槌を打っているのに、キースの声はどこか所在なげであやふやだ。やけに口の中が乾いているように感じる。ひとつ息を吸った。

 君に楽しい気持ちでいてほしい。そして、君と楽しい気持ちでいたい。
 君を知りたい。そして、君に知ってほしい。
 君に素直でいてほしい。そして、君に素直でいたい。
 君に笑っていてほしい。そして、君と笑っていたい。
 君を守りたい。そして、君に守られていたい。
 本当に、何の用事も、約束もなく、君に会いたくなったんだ。

 言葉は既にシュテルンビルトで夜の一部になってしまった。キースはバーナビーに顔を向けたが、バーナビーはひたすら真正面を見据えている。唇を引き結び、何度か深呼吸をしているのが横からでも分かった。バーナビー君、キースの呼びかけに返される相槌はやはり落ち着いた声音だ。バーナビー君、しかし二度目の呼びかけに返事は無かった。

「……いいですか」
「うん」
「僕のことで悩むなら、貴方は僕に相談するべきだったんだ」
「なるほど、実に画期的な意見だ。実に」
「でしょう。それから」
「うん」
「それから、」
「それから?」
「それから……どうして貴方はいつも……」
「うん?」

 バーナビーが濁した言葉尻は、強い風が乱暴にゴールドステージへ巻き上げていってしまう。表情を覗き込むようにキースがわずかに身を乗り出すと、バーナビーは苦笑を浮かべていた――知っていましたけど。何を、キースの問いにやはり答えはない。

「この速さがちょうどいいんです、僕は」

 相変わらずバーナビーの言葉の意味を掴みかねているキースの肩を彼は軽く叩いた。それは遅すぎることも速すぎることもなく隣合っている。

「特別なことは何も無くていいんです。貴方は僕のことを覚えてさえいればいいんだ。僕も、貴方のことを覚えていますから」
「それは、なんだか……簡単すぎはしないかい?私には……君のような男をどうやって忘れられるかまるで分からないよ、まるで」
「そうですか。なら、良いじゃないですか。それで」

 釈然としないものを未だ抱えているキースを見つめるバーナビーはひどく愉快げだ。その口の端に滲む柔らかい笑みを見ているだけで、キースの不可解もついには心から追いやられてしまう。どこか上機嫌に大きくなるバーナビーの歩幅を、笑みを堪えられないままに追った。ふと、夜の空気の中に耳慣れたメロディーが滲む。最初はついキースが口ずさんでしまったのかと思ったが、それはどうやら隣から生まれている旋律だった。

「……君だったのか」
「はい?」
「いや、そのメロディーがここのところずっと頭から離れないでいたんだ。けれどさっぱり曲名が浮かばない、さっぱりね!良ければ曲名を教えてくれないかい?」

 なるほど君からうつったものだったようだ。ついに解明された謎に感心し、しきりに頷いてみせる。バーナビーはそんなキースをしばらく不思議そうな表情で見つめていたが、最後には笑みを堪えるような愉快そうな表情に戻った。

「……さて、どんなものでしょうか」
「なんてことだ、君まで知らないのかい?」
「ええ、僕にも分からないな」

 ネイサンにも同じように返されたことを思い出し呟くと、何故だかバーナビーは名状しがたい表情を浮かべる。それから気を取り直すように首を振り、呆れたように肩をすくめた。

「けど、曲ならよく知っていますよ。音源も映像も持っています。良かったら今度僕の家に来ませんか」

 どんなものかは分からない。けれど曲のことはよく分かる。つまりタイトルだけが思い出せないということだろうか。つい考え込むキースの肩をバーナビーはまた軽く叩いた。そして肩に手を乗せたまま苦笑でキースを覗き込む。

「つまり、デートのお誘いです」

 分かるといいですね、呟きながらバーナビーはすぐに離れていってしまった。もうすぐ着きますね、キースの家まではもう十数メートルも無くなってしまった。けれど今夜この瞬間に限って言えば、それはどちらもキースに与えられた神の恩恵だ。すっかり言葉を失ってただ心臓の音を聞いている。

 なるほど、これが恋というものらしい。

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