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流れ星を釣るひと (十星)



 目覚めてすぐ呼吸が楽だということに気がついた。咳のしすぎか喉はまだひりひりと痛み、唾もうまく飲み込めないが、体は随分軽くなった気がする。寒気や倦怠感もさほど無く半身を起こす。3段ベッドの最下段ともなればやはり天井は低く、猫のように背を丸めなければならなかった。ずっと横になっていたためかあちこちの筋がわずかに痛む。

 寝覚めでもここはどこだと混乱しなかったのは、遊星の風邪を何かと気にかけてくれた十代を、朧気にでも常に感じていたからだと思う。十代も、十代が連れて来た女医も遊星のことを風邪だと言った。朧気ではあったが、きちんとそれは把握していた。風邪なんて、幼い頃軽いものをジャックにうつされたくらいの記憶しかない。体調が良くないと思っても、いつもならば一晩寝れば治るのだ。大病か、はたまた人知を超えた何かの力かのせいかと身構えていただけに安心した。

 無意識のうちに目で十代の姿を探していたが、狭い室内には居ない。ベッドを出ようかと足を下ろしたところでドアが開いた。タオルと洗面器を片手にした十代だ。

「おっ、起きたのか」

 はい、と返事をしようとしたが吐息しか出ない。なんとか声を出そうと喉に手を当て試みようとしても空咳が出るだけだ。十代が慌てて歩み寄ってきて、分かった分かったと遊星の肩を押さえた。

「丸二日は寝込んでたんだぜ。無茶すんなよ」

 自分のことなのに、遊星は他人事のように驚いてしまった。朦朧とした意識と睡眠との往復を繰り返したせいで体内時計は完全に逆回転だ。窓から入る日差しを見るに昼前くらいかと見当をつける。見ず知らずの場所で二日も寝込み、十代の手を煩わせたのかと思うと忍びない。何か言葉をかけようにも今は熱っぽい吐息しか出ない。次の手が打てないでいる遊星に、十代は手の洗面器を差し出した。

「とりあえず顔洗えよ。汗も拭いたほうがいいぜ」

 洗面器には波々と湯が張られているようだ。深く頭を下げてそれを受け取ると、十代が苦笑する気配がした。何かおかしかっただろうか。水飛沫を飛ばさないように用心しながら顔を洗う。真新しいタオルの柔らかさが心地良い。

「体、動くか?一応替えの服ももらってあるんだ」

 遊星が頷くのを見るや、十代は遊星から洗面器を取り上げて、Tシャツとタオルを膝元に放った。先程笑われたのでどうしていいか分からず、ありがとうございますと嗄れた声を絞り出した。やはり咳き込む。お前なあ、と今度は呆れられてしまったようだ。

「えーっと……他には……参ったな、病人の看病なんて初めてだから分っかんねえことだらけだぜ」
『それ、一昨日から何回目だい』
『ひとまず栄養をつけないと始まらないにゃ』
「そうだな、メシだメシ」

 やはり十代には要らぬ神経を使わせているようだ。何か食えるかと問われて、遠慮すべきかどうか迷った末、素直に頷くと、十代はうーんと呻きながら部屋を出て行った。ただ部屋には十代といつも共に在る精霊の気配が残っている。

 汗で湿っている気がするTシャツを脱いだ。が、その時点で急に体から力が抜けた。ぐらりと視界が揺れて、心臓が遠い部位ほど動きがおぼつかなくなる。それは頭も同じだ。ベッドにゆっくりと倒れこむと、シーツが冷たく、心地良く感じた。つい昨晩まで寒くてたまらなかったのに、今は熱いのか。

『ちょっとキミ、こんなところで寝たら、また悪化するよ』

 せっかく十代が看病してやったんだ、ユベルと呼ばれたカードの精霊がベッドを覗き込んでいる。片目だけを開いてそれを確かめたが、どうにも体が動かない。心臓の動きをシーツに触れた部分すべてで感じる。

『……動けないのか。まったく……』

 呆れた口調とは裏腹にユベルの表情は焦燥で曇っている。それがユベルの性根を示しているようでおかしかったが、起き上がって笑い、安心させるだけの体力が遊星には残っていないらしい。情けない話だ。深呼吸を繰り返す。視界も思考も霞がかったように白っぽい。

『待ってなよ、今十代を……こら、駄々こねるんじゃないよ』

 目を閉じて首を横に振る遊星に、ユベルは厳しい声だ。だがそれは駄々ではない。少しこうしていれば、すぐに呼吸が楽になってまた動けるだろうという目算があったのだ。

「うわっ!遊星!?」
『丁度良かった。呼ぶ手間が省けたね』
「どうしたんだよ!」
『動こうとしてデッキ切れさ』
「だから無茶すんなってー……!」

 しかし、思ったより十代が早く戻ってきてしまった。遊星の肩をつかみ、半身を起こしてしかめた顔で覗き込んでくる。他人に心配されることより心配することの方が多い(と自分では思っている)遊星は、ただこの状況が居心地悪くて仕方が無かった。十代と目が合わないように伏せる。ふう、ひとつ息を吐き出した十代は、ベッドの傍らの、もう温もりがほとんど失われたタオルを手に取り遊星の首元に当てた。ぎこちない手つきで拭われて驚く。自分で、咄嗟にそう言おうとしたがやはり確かな声は出ない。

「だめだって」

 いたずらっぽく笑った十代は、ごしごしと遊星の胸板や腕、背などを丁寧に拭った。なんだかむず痒くてつい体に力が入る。

「君っていい体してんなあ!」
『セクハラってやつかい』
「えー、なんだよそれ」

 パン、と腹のあたりを一発はたかれて開放された。ほう、思わず息を吐いて体の力を抜く。下もやるか、と問われて慌てて首を振る。くらりと意識と頭が離れそうになるのを肩で引き止めて、十代は声を上げて少し笑った。

「冗談だよ、ほらバンザイ。……冗談じゃないって言われたいのか?そうそう。手ェ上げろ」

 半ば無理やり、換えのTシャツを頭から被せられる。今度は黄ばんだ白色で、左胸にデュエルアカデミアのエンブレムが入っていた。満足そうにひとつ、十代は頷く。それから床に放置していた盆を取り上げた。

「トメさん……っていう、購買のおばちゃんがいるんだけど、その人に何がいいか相談したんだ。そしたら味噌汁余ってるからって。これなら食えるだろーってさ。どうだ?」

 椀を受け取り、頭を下げてから口をつけた。ほのかな塩味と温かさが体に染み入る。マーサのスープをどこか髣髴とさせた。何か贅沢なものはひとつも入っていないのに、不思議な満足感で遊星を満たしてくれる。喉の痛みと戦いつつも、少しずつ椀を傾け飲み干した。味噌汁をかけた米飯――いわゆるねこまんまをかっくらっていた十代は、それを嬉しそうに覗き込んでくる。

「うめえだろ?トメさん特製なんだ。すぐ元気になるぜ」

 水分と薬を摂るのを見届けると、もう少し寝てろと十代は遊星をベッドに押さえつけ、その上にシーツを被せた。礼のひとつくらいは言いたいのだが、その隙がない。

「なんだかサンダーを思い出すなあ……」
『懐かしいのにゃ』
「オレ、アイツみたいに面倒見るの得意じゃねえんだけど、それでも結構がんばったからさ」

 サンダー(恐らく人名なのだろう)のことはよく分からないが、遊星から見れば十代は充分過ぎるほどに面倒見がいい。怖いくらいだ。こんなところで病気になって、何日も寝込んでいる暇は無いはずなのに、すっかり甘えてしまっている。力強いのに、どこか子供っぽさを残したような不思議な手のひらが遊星の額のあたりを撫でた。その温度が心地良くて目を閉じる。

「だから、早く元気になれよ」

 十代の前にいると、遊星はまるで子供に戻ってしまったみたいだ。

 遊星は「底」に居た。何ひとつ手がかりとなるものが無い真っ白な空間で、遊星は確かにその事実だけは認識できていた。ここは「底」だ。しかしどこの、何の「底」なのかは分からない。考えるためには、新たな情報が必要だ。しゃがみ込んで地面に触れる、とその右手が何かに掴まれた。

「っ!?」

 手だ。瞬間的にそう悟ったが、見た目はただ黒い泥のようなものだ。振り払おうとするがむしろその手に引き込まれて腕が「底」に沈む。ここは「底」のはずなのに。その下には何も無いはずなのに。気づけば足も手に囚われていて、体がどんどん沈む。

「やめろっ、これは……何なんだ……!」

 ふと、よぎる記憶があった。ルドガーとのデュエルの後、飲み込まれたモーメントの光の中。遊星に群がったのはそのモーメントで全てを失った人々の魂だった。その記憶が遊星の抵抗の意思を弱くする。この手もそうなのか。もしそうならば、遊星が易々とその手を振り払うことは、やはりできない。

 ――「底」の下に何があるか……決まっているだろう、それは闇だ

 声なのか、音なのか分からない。とにかくそんな言葉が遊星の脳内に滑り込んだ。嫌だ、オレは闇に飲まれたくなどない、だが……!不意に何かが遊星の体を強い力で引き上げた。

「――っ!」

 開いた視界の先には手があった。片方は自分の手、もう片方は十代の手。十代の手のひらが、遊星の手をしっかりと掴んでいる。それをしばらく呆然と見つめていたが、遊星はやっとその手の先を辿ることを思いついた。不安げな顔の十代がそこに居る。

「……こうしてたら、悪い夢なんか見ないかと思ったんだけどな」

 十代の表情が苦笑に変わって、手が離れていった。きつく掴まれていたのか、手のひらには十代の手の感触が残っている。恒例となった態でタオルとボトルが差し出されて、遊星は起き上がった。元々、あまり夢見がいい方ではない。だがここに来てからは異常だ。眠る度に、同じ内容の嫌な夢を見る。風邪で弱っているせいなのか。

 十代の手が無ければ帰って来れなかったのではないかと思ってしまう。

「ありがとう、ございます」
「声!」
「……随分、良くなりました。十代さんのおかげだ」
「へへっ……まあな!」

 十代は否定しなかった。それだけのことをしたのは自他共に認めるところだろう。声はまだかすれてはいたが、全く話せないわけでもないし、喉の痛みは随分引いている。空咳も出ない。ずっと横になっていたせいで節々や筋が痛むが、その他は大体良好に思えた。珍しくこじらせてしまったが、元々体は丈夫だ。

「かゆがあるぜ!作ってもらったんだ!」
「いただきます」
「要らないて言ったって食わせるさ!」

 窓の外は夕方の色をしていて、なんだか同じところをぐるぐると回っている気分だ。だが不思議と不安は無い。その功労者とも言える目前の人は、きらきら光の粒子をこぼすような笑顔でスプーンを差し出していた。

「……あの、」
「ほら!早く食えよ!」
「自分でできます……」
「そうかあ?」

 椀とスプーンを渡されてほっとする。せっかくの厚意を無駄にしただろうかと食べながら視線を送るが、ただ上機嫌な顔が待ち構えていただけだった。それはそれで少し食べづらい。うまいか、だなんて子供みたいな笑顔で聞いてくるものだから、遊星までつられて笑いそうになってしまう。

「十代さんは、不思議だ。昔、特別な日だけ食べられた砂糖菓子みたいだ」
「さ、砂糖菓子ぃ?」

 むず痒そうな顔をしている十代がますますおかしい。だがそう思うのだから仕方ない。サテライトで手に入るものだ。今思えばそれは子供から見ればの話だったのだろうが、とてもきれいな細工で、カラフルで、食べるととても甘い。ハウスの誰も彼も、一年に一度食べれるか食べれないかのその菓子が大好きだった。

「……まあ、いいけど……おい、からかうなよユベル!」
『まだ何も言ってないじゃないか』

 意地の悪い顔で笑っているユベルから逃れようとしている十代に、遊星はとうとう小さく笑いをこぼしてしまった。それを油断なくきょとんと拾われて、途端にばつが悪い。謝るべきか考えているうちに、十代がまた砂糖菓子のように笑った。

「オレ、そのために看病頑張ったのかもな」

(2011-08-26)
砂糖菓子のような笑顔(あの人の心を開く5のお題-03

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