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一番星に釣られるひと(十星)



「おっ」

 釣糸がぴんと引いた。失意の長靴を釣り上げてから数十分。今度こそ魚がかかったか。十代は喜色を隠さず釣竿を握り締めた。今日も今日とてデュエルアカデミアの岸壁で釣りに興じているが、今日の十代は一味違うのだ。精霊と繋がるような異変を嗅ぎつけ向かった先で、事件解決と共に何故だか譲り受けることになった名刀ムラサメ――ならぬ名釣竿デュエルキングの初陣なのである。以前使っていた愛用品は今世紀最大の大物を釣り上げる際に折れてしまった。

「なんたって流れ星だからなあ」
『よそ見してていいのかい。そんな釣竿じゃまたすぐに折れるよ』
「そんな釣竿ってなんだよ。コイツは北海のシャチを釣り上げ吸血コウモリや白熊をも退けシャケを釣る伝説の釣竿なんだぜ!」
『……っていう話だってだけだろ。さっきから長靴だとか空き缶だとか、逆に感心するくらいゴミばっかり釣り上げてるじゃないか』
「いいんだよ、オレの釣りで地球がきれいになっただろ!」

 これがヒーローの釣りなんだよ、それらしいことを嘯きながら糸を巻こうとする。だがこれがびくともしない。むしろ針の先の重みに耐えかねて十代が引きずられていた。その場でたたらを踏んでなんとか踏み留まる。

「おっ、……おおっ?こいつは……!ユベル!」
『全く、仕方ないね』

 呆れた様子ではあったがユベルが力を貸してくれる。なんでこんなことに、とぼやいていたユベルも次第に口をつぐんだ。この手ごたえに覚えがあるのは十代だけではないらしい。勢いに任せて思い切り釣竿を引き上げると、ざばりと海から星が上がった。ユベルと目が合う。

「ゆっ、遊星の一本釣りだァー!」
『うるさいよ!一体どういうことなんだい!』

 どういうことかと聞かれても、十代にもよく分からない。実際釣れてしまったのだから仕方ない。しかも手元の釣竿には糸が切れた様子も無かった。ユベルの力があったとはいえ凄まじい強度だ。譲り主の言葉は本当だったのだ。さすが遊戯さんの釣竿。

「見ろよ!しかも折れてない!コレ本物だぜ!」
「でっ、ゲホ、できれば……釣り、以外、……っで再会、したか、ゲホッゴホッ」
『……だろうね。十代、そんなこと言ってる場合じゃないだろ』
「遊星大丈夫か!」

 飲み込んだ水を吐き出そうとして、酸素を求める肺の動きと喉の辺りで衝突したらしい遊星は苦しげだ。しかし以前のように意識が朦朧とした様子も無く、背を撫でてやれば段々に呼吸が落ち着いた。深呼吸が繰り返せるようになったところで、びしょ濡れのジャケット越しに背を叩く。

「久しぶりだなー!」
「……あ、はい」

 遊星はあからさまに状況判断に迷っているようだった。これが夢なのか、夢でないとしてもどこから現実なのか、すぐには把握できない気持ちは十代にも分かる。苦笑して海水で濡れた前髪を乱雑に掻き分けてやる。

「ちゃんと考えてきたのか?」

 それは充分、現実にしろ夢にしろ「続き」であることを遊星に教えたらしい。言葉を探すように口をまごつかせる遊星の両腕を掴んで立たせる。

「とりあえず着替えだな!また風邪なんて引かれちゃ困るし」
「あの時は……弱っていただけだ」

 不服そうな遊星の背を問答無用で押す。授業中のデュエルアカデミアは静かで、ひとまず誰かに見咎められることは無さそうだ。念のため人気の少なそうな道を選ぶ。なんとなく足音を忍ばせると、ずぶ濡れの遊星も苦労しつつそれを真似ている。お前できるな、と声をかけてみたら返事に窮されてしまった。保健室に辿り着き、ドアから部屋へ首を突っ込む。が、電気は点いているのに人の姿が無い。一時的に席を外しているのか。拍子抜けした気分で堂々と部屋に踏み込んだ。以前服を貸してもらった記憶を頼りに、戸棚からジャージの上下を引っ張り出して遊星に放る。

「それ、着とけよ。ほらタオルも。少しは違うだろ」
「ありがとうございます」
「ん……おっ、ヤバイ」

 早速ジャケットとタンクトップを脱ぎ捨てた遊星を濡れた服ごとベッドに追いやり、間仕切りとの間にしゃがみ込ませて、十代もそれに続いてしゃがむ。物言いたげな遊星の前で人指し指を立て、自分の口元に押し当てて見せた。間仕切りの隅から様子を伺っていると、程なくしてドアが開く音がした。

「天上院先生が急に引っ張って行くから何かと思ったわ」
「すみません、その……慌てて……」
「あの子、ただの軽い脳震盪みたい。すぐに気がつくわ。氷を持って行きましょう」
「良かった……」
「でも不思議ね、実習生って言っても天上院先生、だなんて」
「私も鮎川先生に先生だなんて呼ばれるなんて……」

 ピシリ、自動ドアの乾いた音が響いて会話がくぐもった音になり、やがて遠のき静寂に溶けていく。ほ、背後で遊星が小さく息を吐き出したのが分かった。遊星はここに知り合いは居ないはずだが、見咎められれば騒ぎになることに十代と違いはない。

「危ねー……」
「良かったんですか」
「何がだ?」
「知り合いでしょう」

 目を丸くして振り返れば、遊星はジャージの上着を頭から被ったところだった。首を出して始めて十代の視線気づいた遊星は、衒いなく口を開いた。

「とても嬉しそうな顔だった」

 ベルトに手をかけて考えるような仕草を見せるのでまた背を向けてやる。下着の替えは無さそうだったから、そこは我慢してもらわなければならない。遊星の視界から逸れたと思えば、そこにはユベルが待ち構えていた。何も言っていないのに深々頷かれる。沈黙が居心地悪く肩を竦めた。

「会いたいってあいつらが思うなら、オレはどこにいたって駆けつけるさ」
「今は会いたいって思われていないってことですか」
「さあな」

 振り返ると、丁度遊星がズボンを履き変えたところのようだった。学生用のジャージだが、少し心配だったサイズに問題は無さそうだ。しかし着せておいて何だが、デュエルアカデミアのジャージを着込む遊星というのは少しおかしな感じがする。服装と十代の返答、どちらに思うところがあるのかは分からないが、遊星は困ったような表情だ。なかなか似合ってるぜとひとまず前者をフォローしてみたがあまり効果は無さそうだった。

「……オレが心配してないってことかな、あいつらなら」

 あまりのんびりしていると授業が終わって移動がし辛くなる。濡れた服をひとまとめにして遊星に押し付け、歩き出すよう促す。

「キミも『終われば』分かるさ」

「あら、この子がこの前言ってた風邪の子?」
「そうだぜ、もうすっかり元気だけど」
「十代ちゃんが釣ったんだったっけね」
「そうそう」
「どこの子なの?」
「うーん……ずーっと、後輩デュエリストってとこか?」

 カウンター越しのトメは今更驚いた様子も無く卒業生であるはずの十代を嬉しげな笑顔で認めている。十代の漠然とした説明もすんなり受け止め、遊星を不審がることすらしていない。

「トメさん、なんか無いか?」
「ちょうど良かった。昼休みで忙しくなる前にってお昼を作ったんだけど、ご飯炊き過ぎちゃってねえ」

 トメがカウンターから姿を消し、購買の隅にある勝手口を開け、キョロキョロと周囲を見渡してからウインクをした。手招きに笑顔を返して遊星の背を押して歩き出す。

「じゃ!お邪魔しまーす」
「あの、」
「はいはいどうぞ」

 カウンターに戻るトメに手を振って、十代は勝って知ったるで小さなシンクに据え置かれた炊飯器を開けた。蒸気の向こうに待つ白米に深く頷き、戸棚の茶碗二つにめいっぱい盛る。どちらも遊星に差し出した。備え付けられたコンロには鍋が置かれていて、こちらはフタの下に味噌汁が待ち構えていた。上等だ。汁椀二つは十代が持つ。そのままロッカールームに入ってテーブルに落ち着く。

「良かったんでしょうか……」
「トメさんが良いって言ってただろ?」

 箸や茶はロッカールームに完備されている。湯気の立つ緑茶を受け取った遊星の動作は、まだ納得のいかない様子でぎこちない。

「本当はここの人とはあんまり会わないようにしてるんだ。けど、トメさんにはすぐ見つかっちまってさ」

 冷蔵庫を覗き込むと、冷気が十代を歓迎して立ち昇ってきた。あまり物は入っていないが、十代を更に浮き足立たせるには充分なものと目が合う。

「納豆あるぜ!納豆!沢庵も……あー……何か釣っときゃ良かったな。魚が欲しいとこだよな」

 釣っておけばよかったって釣れなかったんだろ、ユベルの突っ込みは無視する。納豆の白いパックを自分と遊星に配分して、沢庵のタッパーを開ける。よく納豆を混ぜてから白飯と絡み合わせたところで、熱心な十代に遠慮しつつも遊星が声を上げた。

「十代さん」
「んん?」

 中断するか迷ったが、特別話を聞くのに不便があるわけでもない、大きい一口を咀嚼する。遊星は箸すら取った様子は無い。行儀よく並んだ箸をうつむいて見つめていたが、不意に顔を上げた。

「あれから考えました。……明るいところで。だがやっぱり、この前のことはオレ自身が引き起こしたことだ。巻き込んでしまって、迷惑をかけた。すまない」

 遊星が頭を下げると、そんなことどうでもよさげな白飯と味噌汁、緑茶の湯気がもくもくその頭とすれ違っている。十代は半ば呆れた気持ちを納豆と一緒に飲み込んだ。

「キミって……アレだな」
「……アレ?」
「ホント、マジメなんだな。ホラ沢庵、食えよ」
「あ……どうも」

 箸を裏返して沢庵を茶碗に乗っけてやる。思わず顔を上げてしまった遊星と目が合った。ので、小さく笑ってやる。ついでに自分の茶碗にも沢庵を乗せる。

「なんで遊星は自分が原因だって思うんだ?」
「……あなたに、もう一度会いたいと願っている自分に気づいたから」

 遊星は当然のことを当然に口にしただけ、そう言いたげで硬い表情を動かさなかった。十代はまるで生まれて始めて食べる物のように沢庵を噛み砕くハメに陥っているというのに。そうなのか、とりあえずの相槌に、はい、遊星が生真面目に答える。なんだか気が抜けてしまった。

「じゃあ、良かったな。また会えてさ」

 茶碗を置いた手で乱暴に湿った髪を掻き乱すと、遊星は二度目に釣り上げてから始めて少し表情を崩した。

「……はい」

 目覚めると、遊星は自分の部屋で、寝る前と全く変わらない服装のままベッドに横たわっていた。もちろん海水を被った形跡などどこにもない。変わったところと言えばいつもより朝食の進みが遅かったことか。妙な満腹感があった。それが本物か、夢がもたらす錯覚なのかは考えても仕方ない。

 いつも通りの一日を過ごす。WRGPの準備のためにやることは山積で、日々の流れは目まぐるしいほど早い。いつもは遅くまでディスプレイやD・ホイールと睨み合っているが、今日は部屋の机の引き出しに閉まった釣針を眺めていた。

 それが夕方くらいの話か。急ごしらえの釣竿を片手にD・ホイールに飛び乗ったのが宵の口。少し出かけるという言伝を預かってくれたブルーノは、意味深な笑みで手を振っただけだった。

 自分でも、何をしているのだろうと思う。

 ネオ童実野の海は汚い。まともな魚が存在しているのかも怪しい。夜中の埠頭は遠くの灯台の光と足下を淡く照らす安全灯が視界を助けるくらいで、人影はまるでない。こんな酔狂なことを考えるのはネオ童実野では遊星くらい、そういうことなのだろう。しかし、釣糸を垂れてぼうっと夜風に吹かれるというのは、遊星には新鮮な体験だった。

 ネオ童実野の空には星がない。晴れていれば、月明かりがかろうじて宇宙の存在を教える。しかし目をこらせば明るい星のいくつかは見つけることができた。幼い頃見上げてきたサテライトの空では、月影すらあやふやだったというのに。

「……初心者に夜釣りはオススメしないぜ」

 突然足下に生じた声に驚いて、見上げていた視線を急降下させた。いつの間にかすぐ足下で人がしゃがみ込んでいる。この場に現れるはずがない、夜空の星より遠くて明るいはずの人がそこに座っている。

「オレは流れ星じゃないから落っこちてこないぜ?」

 釣れもしないぞ、茶化すように十代が笑った。よっと、掛け声をかけて立ち上がり、視線の橋が随分なだらかになる。未だに動くことすらできない遊星がおかしいのか、十代の笑みはますます愉快げだ。潮風が流れて、頼りない視界の中でも十代の髪の先が浮き、幻覚でないことを伝えてきている。

「言うの忘れてたけど、オレだってお前に会いたかったんだ」

 暗闇の中でも、茶色い瞳の中にはたくさんの輝きが弾けて散っていた。オレはこの人に釣り上げられて嬉しかったんだ。それが分かれば考えていたことの大半がどうでもよくなって、遊星もつい釣られて笑った。

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