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夕陽のヘリオトロープ (遊ジャ)



「ジャック、起きろ。朝飯……」

 部屋に入るなり目が合った。朝だと言うのに、窓にはブラインドがかかっていて薄暗い。なかなか起き出して来ないので寝入っているものばかりだと思っていたが、とっくに起きていたらしい。不意を突かれた形になった遊星はつい言葉を失ってしまった。そんな遊星を、ベッドの上からジャックは暗く翳った紫でじっと観察している。居心地が悪いので、一歩踏み出して部屋の中に入った。パタン、ドアが閉まると、部屋はブラインドの隙間を縫ったほのかな日光だけで濁る。

「……ジャック?寝ぼけているのか」

 なんとなく不穏なものを感じつつも、警戒しきれず一歩一歩と近づく。遊星が無防備にジャックの間合いに踏み込むと、一方では以外にも、そして一方では案の定ジャックは遊星に仕掛けてきた。腕を強く引かれ、足を払われ床に胸を強かに打ちつける、直前で両腕を床についた。詰まった息を吐き出しながらジャックを睨み上げる。遊星を引き倒すだけが目的だったのか、ジャックは仁王立ちでそんな遊星をただ見下ろしていた。

「ジャック」

 体を起こしつつ非難を練り込んでできるだけゆっくりと名前を呼ぶが、ジャックの表情は変わらない。いつもの騒がしさが嘘のようだ。

「オレは、ジャック・アトラスだ」

 まるで重要なことを切り出すように、ジャックは重々しく、瞳に確かな意思を宿してそう言った。しかしそれは遊星にとって何も目新しいことではない。むしろ当然の事実だ。遊星が言葉に迷う分沈黙が長くなっていく。遊星は仕方なく口を開いた。

「……知っている。多分だが、誰よりも」
「フン」

 遊星の答えはどうやら正解から遠かったらしい。ジャックはあからさまに顔をしかめ、大股でのしのしと部屋を出て行った。呆然としつつも、いつまでもジャックの部屋に留まっているわけにはいかない。遊星もその後を追った。

「ジャックの様子がおかしい?」

 ブルーノのオウム返しに頷く。遊星は今日もD・ホイールの調整に明け暮れていた。ブルーノはその隣でエンジン出力の数値を見ている。

「そうかな……ボクにはいつも通りに見えるけどね」
「そうだろうか……」
「ボクが言う『いつも通り』はほんの何週間のことだけど」

 確かにあの後、ジャックには特におかしな素振りは無かった。いつものように朝飯を食べ、いつものようにブルーノにつっかかり、いつものようにクロウと苛烈な口げんかに発展し、どこへやら出かけて行ってしまった。しかし遊星にはその「いつも」に違和感を感じずにはいられない。今朝の妙な行動が気にかかっているせいもあるだろうが。

「まあ、確かに様子がおかしくなっても仕方ないんじゃないかな。あんなことがあった後だし」

 ブルーノの言う「あんなこと」とは、唐突に現れた偽者の狼藉によって、ジャックが冤罪で投獄されてしまったことだろう。偽者のジャックは本物と見紛うばかりで、随分ジャックを追い詰めていた。確かに自分によく似たものが突然現れ、自分だと言い張り攻撃してくるなど常識を超えてしまっている。結果的には偽ジャックはロボットだったのだが、それが分かってもなんとも言えない気味の悪さが残っているのは事実だ。加えて、その裏に居るはずの何かにはまだ全く触れることができていない。

「時間が経てば、そのうち落ち着くよ」
「そう、だな。だといいが」
「相手がハッキリ分かればもっと落ち着くだろうけど……それはそれで、波乱の予感だね」

 しかし手がかりが全く無い以上、今は考えても仕方が無い。それもまた事実だ。ブルーノの言う通りジャックについてはそっとしておくのが一番いいだろう。

「遊星」

 名を呼ばれてハッとした。それがこの場で今聞くことを想定した声ではなかったため二重に驚いた。作業の手を止め立ち上がる。D・ホイールを挟んで数メートル、ジャックが腕を組み仁王立ちしている。

「集中していて気づかなかったか」
「……すまない」
「一人か」

 赤みを増した陽光が長い影を作るガレージには、確かに遊星しか居ない。昼夜が逆転しかけているブルーノが少し仮眠すると階段を上って行ったのをおぼろげに思い出す。集中すると意識の幅がぐっと狭まってしまう遊星だ。

「どうした」

 朝のこともあり、ジャックが一歩でも近づけば警戒しただろうが、ジャックは動く素振りすら見せない。朝に感じた不穏な気配も無かった。ただいつも通りかと問われれば、遊星は首を傾げるしかない。丁度窓枠分の陽光を受けているジャックは、遊星とひたと目を合わせた。

「少し付き合え」

 街中でD・ホイールを使わずジャックと肩を並べるという状況は、考えてみればあまりない状況だ。付き合えと言うからてっきりハイウェイを走るとばかり思ったのだが、ジャックは徒歩でガレージを出た。それを追う遊星も当然徒歩になる。

 何か問いかけようと思いつつ徒に沈黙ばかりとすれ違い、二十分ほどだろうか。体感的な時間で言うと何時間にも感じたが、ジャックはふと立ち止まった。見上げた先には夕陽を遮る高層ビルやハイウェイを背景に、モノレールの駅がある。

「遊星、あれに乗るぞ」
「……モノレールか」

 物心ついてからというものサテライトから遠く離れたことはなく、初めて離れた時もD・ホイールという足を持っていた遊星にとって、公共の乗り物というものは馴染みが無い。シティとサテライトの境界が無くなり、ポッポタイムで暮らすようになってもそれは変わらなかった。やはりD・ホイールの方が早いし慣れている。

「どうやって乗るんだ」
「切符を買うのだ!」
「……切符か」

 意気揚々と断言した割に、ジャックも遊星と同じく不慣れさを隠しきれていない。大の男が二人キョロキョロと周囲を見渡しているのは、傍目にさぞ滑稽に映るだろう。しかしやむをえないことだ。気にしないことにする。販売機を見つけ、ジャックと共に案内板を見上げた。

「あそこまでだ」
「D・ホイールではだめなのか」
「だめだ」
「……何故だ?」
「いいから二人分だ!」

 当然のように遊星に払わせようとしているジャックに呆れつつも、ここまで来たからには引き返す気も起きない。指が示した駅までの切符を二人分買い、まごつきつつも改札を通った。ジャックは何故だか遊星の倍は慎重に改札を通っていた気がする。表示と電光掲示板を頼りに車両に乗り込む。

 どうしても落ち着かないのは、とろとろとしたこの速度のせいだろう。更に言えばなんとなく囚人護送車を思い出して居心地が悪い。向かい合った席に座っているのは夕陽だけだで、車両にはあまり人がいない。地下鉄と比べるとモノレールは観光的な意味合いが強い、とはどこかで聞いた話だったか。

 体感したことの無い浮遊感と共にネオ童実野の景色が滑る。D・ホイールなら十分もかからないところだが、この調子だと数十分はかかるのだろう。静かだ。人々の会話は音量が絞られていてどこか遠い。WRGPまで時間が刻々と迫っていて、毎日が矢のように過ぎ去っていくというのに、こんなにゆるやかに時間が過ぎていく場所もあったのか、そう思った。しかもそれをジャックと共有しているのが不思議に思える。

「ジャック」

 低く名前を呼んだ。しかしジャックは返事どころか目も寄越さない。腕と足を組み目を閉じている。話しかけるなと言いたいのだろう。視線を窓の外にやろうとすると、ジャックの首がかくりと揺れた。

「寝ているのか……」

 遊星の言葉など聞こえないように、薄く目を開けたジャックはまた目を閉じてしまった。遊星に若干体重がかかっている。朝はあれだけ全身で寄るなと主張していたのに、夕方にはこの調子だ。遊星にとってジャックは、誰より分かりやすいようでいて、D・ホイールの構造より難しい気分屋だ。ジャック自身にとっては簡単な事なのだろうか。そんなことは当然だなとそれ以上考えるのはやめた。

 ポートタワー駅に降り立ったのは遊星とジャックくらいのものだった。シティとサテライトが繋がったことで街の中心部の再開発が盛んになったが、その分このあたりは寂れているようだ。閑散とした港にそびえるタワーが遊星たちを見下ろす。

「ジャック」
「黙ってついてこい!」

 モノレールを降りてからジャックは機嫌が悪い。終着駅までうっかりうたた寝し、遊星に起こされたことが気に入らないらしい。こういう時は何も言わない方がいい。経験上遊星は口を閉ざすことにした。

 タワーのエレベーターに乗り込み、展望台へと出る。手すりの向こうで夕陽を飲み込む波の上にサテライトは見えない。角度の問題だろう。わずかにネオダイダロスブリッジの影が見えるくらいか。夕陽とそれが映り込んだ海面と同じ色をした潮風が動く。ジャックがそれに腕を差し広げて見せた。相変わらず何をするにも大仰だ。

「オレはここで変わろうと決めた」

 ジャックは確かに変わった。具体的に何がと言われると難しい。ポッポタイムでクロウと共同生活をしていれば、昔から何ひとつ変わっていないなと幼い頃を懐かしく思い出す毎日だ。しかし今が一番、遊星やクロウと近いところに居る気がする。遊星にとってそれは良い変化だ。けれどジャックはわずかに顔をしかめている。

「だが、変わればそれはオレなのか。それが、ジャック・アトラスなのか?」

 いつも分かりやすいくらいに複雑な感情のジャックが、一瞬だけ分かりやすい感情を複雑な表情でちらつかせた。遊星にはジャックの言わんとするところが正しくは分からない。しかしジャックは迷っていて、それを不安に思っている。それだけならば分かる。

「お前は、難しい」

 うまい言葉が浮かばない。特にジャックやクロウとは言葉が無くとも通じることが多いので、改めて口にするのはおかしな感じがするのだ。しかし遊星は、今、ジャックにかける言葉を惜しみたくは無かった。きつい印象の紫は、夕陽で色が随分和らいで見える。

「……オレにとっては……今、ここに居るのがジャックだ」
「お前の前に居なければジャックではないのか?」
「そういうわけじゃないが……」

 自分の中で明快であればあるほど、それを口にするのは困難だ。口下手な性質が余計に拍車をかけている。言葉に詰まる遊星にいくらか気分が上向いたのか、ジャックは意地の悪い笑みだ。少しムッとする。

「だが、目の前にいれば、オレはお前をジャックと呼べる」

 そして遊星はその声が届く距離にジャックが居ることが、やはり嬉しいのだと思う。ジャックに迷うことがあるなら、今も、昔も、未来だって名前ぐらいいくらでも呼んでやりたい。遊星はそう思うのだ。

「仕方ない。今はそれでいい」
「……ああ」

 ジャックの「今は」が長めに続いてくれればいい、遊星はジャックに並んで沈む夕陽を見送った。

今も昔も遠い未来もすぐ側に(幼馴染みの恋物語-10

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