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忘れてください、忘れないでください
蝶屋敷の庭先で体を曲げたり伸ばしたりしていると、鼻が覚えのある匂いを引っかけてスンと動いた。その方向へ体を向けてぴょんと飛び上がる。
「義勇さーん!こんにちはー!」
炭治郎の大声に一度足を止めた義勇はひとつ頷き、のんびりとした歩みで炭治郎に近づいてきた。我慢できずに炭治郎のほうから駆け寄ってしまう。義勇は穏やかな笑みだ。炭治郎の子供っぽさがおかしいのかもしれない。照れて目を伏せる。
「もう随分良いんだな」
「体を動かさないと。すっかり鈍ってしまっているんです」
あの死闘から三月経ったところでやっと病床から抜け出せたので、今は体力を戻すことに専念している。幸い左手の他は目立って悪いところは無いのだが、とにかく何をやってもすぐに疲れてしまう。
「義勇さんたちはやっぱり凄いですねえ」
義勇も実弥も、あれだけの怪我を負いながら一月前には体を動かせていたと聞く。これが柱との地力の違いなのだろう。二人とも率先して屋敷の仕事を手伝ってやっていたから、働く娘たちも世話をされる怪我人たちもすっかり恐縮しきりだった。
「お前とは違う」
どうぞ構わないでくださいと泣き付かれ、自分はやっぱり嫌われているのかもしれないと零していた義勇を思い返し、緩んでしまっていた頬を慌てて引き締める。義勇にとっては真剣な悩みだったわけで、ほっこりするのはちょっと悪い。
「そうですよね。俺と義勇さんたちじゃ」
「とうとう死ぬかとは思ったが、俺は本当に死んだわけではないからな」
言葉を止めて見上げる義勇の表情はやはり穏やかだ。あたたかい光の宿る蒼い目が優しく炭治郎を映し込む。
「今は望まれるだけ休め。それだけ、心配させてる」
「……はい」
恥ずかしいな、と思った。色々な恥ずかしさがある。先程から残る子供っぽい自分への照れもあるが、それだけじゃない。体が動いたらまず行きたいところがあった。なかなかそこへ至らない自分へのもどかしさと、何もできない時間にじわじわと滲んでは去るさざ波のような寂しさ。それを全部見透かされたような気がして恥ずかしい。
「ほら」
弱った笑みで俯く炭治郎の鼻先に呆れた匂いが触れ、上げた顔を白い紙が迎える。無意識にクンと匂いを嗅げばこちらもよく知る匂い。
「鱗滝さんだ!」
わあ、と左手を差し出して恭しく手紙を受け取る。何度も様子見には来てくれているが、炭治郎は鱗滝の運河のように静かで含蓄のある書きぶりが好きなのだ。後でゆっくり読もうと喜色満面に礼を言えば、今度は愉快そうな匂いが漂う。
「兄妹だな」
まったく同じ顔だった、と言われて少し考えた。そしてすぐに禰豆子も手紙を受け取り同じように喜んだのだと悟り、また照れが深まってしまった。ごまかすように笑えば、義勇もそれ以上は何も言わずただ笑みを返してくれる。
「義勇さんはまだしばらく鱗滝さんのところに居るんですよね」
「ああ。慣れない内はそうしろと言われてる。今の俺の仕事は手助けされることだと」
厳しい声の中にも義勇を労わる優しい匂いをさせる鱗滝の姿がありありと頭に浮かんだ。ふふ、と頬を動かして吐息を揺らす。
「何だ」
「いえ、鱗滝さんの前だと義勇さんも子供みたいになるから、やっぱり鱗滝さんは凄い人だなあと思って」
まだまだ子供の自分に気づいて照れているけれど、鱗滝にかかればこんなに立派な義勇ですら子供の扱いなのだ。そう思うとなんだか、自分の子供っぽさを少しだけ許してやれるような気もする。ただ、まずいことにからかわれたと思ったらしく義勇が戸惑った匂いになった。慌てて両手を振る。
「そのただ、有難いと思ったんです。鱗滝さんが居てくれて」
錨のようにそこに留まって、振り返るところを守ってくれている。それを実感しただけだったのだが、失礼な物言いだったかもしれない。焦って低頭する炭治郎の弁解が通じたのか、戸惑った匂いは優しい匂いに戻った。炭治郎でもちょっと離れればきっと嗅ぎ取れないだろう、義勇らしい控えめな信頼の匂いだ。これに気づいた時が炭治郎は一番嬉しい。笑顔を晴らせ、もう半歩だけ義勇に近づく。
「少し懐かしい。俺は昔手間のかかる子供だったから」
「へえ!義勇さんの小さい頃!」
「どこにいても何をしていてもすぐに抱き上げてくれとねだって困らせた。父は優しい人で、叱ることもなくいつも抱き上げてくれたのを覚えてる」
「へえ!へええ!全然想像つきません!」
「俺も忘れていたが、思い出した」
炭治郎では到底及ばない高みで完成された水の呼吸を、自由自在に操る姿が頭に強すぎる。幼い義勇の姿などとても思い描けそうにないし、ましてや六太のように涙と鼻水をずるずる引きずりながら抱っこをせがむなんて無理だ。まんまるになった目に小春日和の乾いた風が入り瞬きをする。驚く炭治郎が面白いらしく、愉快そうに義勇は続けた。
「ここで何もできず寝ている内、昼も夜もなく夢を見て、この二十年をまるでもう一度繰り返したみたいだった」
遠く弱いところに居れば烈しく強く。近く穏やかなところに居れば静かに少なく。そういうふうに必要なことだけを必要な分だけ落とすように話す人だった。それがいつからか穏やかな小川のように優しく途切れることなく話すようになっていることには気づいていた。
「思ったより色々なことを忘れていた」
「……そうですか」
心がまたあたたかくなるのは、橋の上で頑なに向けられた背が何故かふっと思い出され、あの時の義勇は今ここに居ないと思ったからだ。開いたのかな。あの時、苦しく押さえ込まれていた蓋が。
「例えば、良かれと思って姉の道具箱にどんぐりを入れていたらひどいことになったとか、錆兎が苦いものがだめだったこととか」
「ええ……!?」
「海際の育ちだったらしい。山菜が苦手だった。でもタラの芽は食べられると言っていたな。お前の好物の」
思った以上にもの凄く細かいところまで思い出している……と興味深さと驚きとで反応に困っているところ、更なる太刀が振り下ろされ、ポカンと受け止め損ねる。確かに炭治郎の好物はタラの芽だ。ほんの少し甘いところが大好きだが、一体それを何故義勇が。
「お前のことならたくさん知ってる」
「へっ」
思わず声が裏返ったのを、とうとう義勇は喉を鳴らして笑う。目を細くし、睫毛の影を頬に落とし、小さく肩を揺らす。いつもより匂いが濃くなった。
「全部、お前が自分で話した。手紙もあった」
手紙は未だ一通も返ってきたことは無い。お館様の願いであらゆる話を立て板に流し続けた時もとにかく逃げられ続けた。柱は一隊士とは比べ物にならないくらい忙しいものだし、あの時の義勇はしょんぼりしていたし、と納得していたけれど。
「あの話は面白かった」
ちょっとは笑いを引き出せるんじゃないかと思って、これまでの失敗話もたくさんした。義勇が愉快そうに言うのは、炭治郎がまだ七つにもならない時の話だ。初めて麓の町まで使いに出て張り切っていたが、会う人会う人に物をもらったため山を登れなくなり、懸命に足を進めているところを母親に見つかり、しくしく詫びながら差し出した重たい籠に「あらまあ」と呆れられた話である。確かに話したのは炭治郎だ。だが全く聞かれていないと思っていた話をまるで昨日聞いてきたように話すので、なんだかとても居た堪れない。
「これからは」
なんとか義勇の言葉の隙間に剣を差し入れるようにして話を止めた。兄妹仲良くおねしょをしてうつるのかしら、と言われた話はできるだけ早く忘れてもらわないと炭治郎だけでなく禰豆子にまで被害が及ぶ。
「これからは、義勇さんも知らない俺です!新しい!そう新しい竈門炭治郎ですので!」
「どんな炭治郎になるんだ」
「どんな!?どんな、どんな……?」
必死に返した刀だったので、愉快そうな笑みで受け止められ、更に食いつかれるとは思わなかった。慌てて頭の中を引っ掻き回して答えを捜してみるがすぐに見つからない。
どんな人に。少なくとも大人にはなりたい。父のように厳しくも落ち着いた。それから杏寿郎のようになりたい。自分にできることを突き詰めて突き詰めて、そこにいつも背かない強い心を持っていたい。義勇たち柱のようにどんな状況でも決して折れずに守るべきものの前に居る人にだってなりたい。
ただそれをここで言い切るには大きすぎる目標のような。今の炭治郎にはできないからできることからやっていこうね、頭の中のお館様がにこやかに仰る。できること、できること……。
「こう……鋼鐵塚さんみたいな感じですかね!?」
意気込む炭治郎と、小さく口を開けてぽかんとする義勇。斜めの橋は沈黙の中しばらく崩れなかったが、義勇がまた肩を揺らして笑い始めたことで春の木漏れ日の中に溶けて消えてしまった。
「楽しみだな」
鋼鐵塚のように自分の仕事にどこまでも緻密な人にもなりたい。勿論、それもまだ遠いと思う。けれどせめてあのくらい人の心には残りたい──だって鋼鐵塚さん、一度見たら絶対忘れられないし。思い出す度追いかけ回される時の殺気が蘇ってゾワゾワするし。いや、これは俺にしか分からない話だったかも……。
義勇はまだ笑っている。まずはこの笑みに背かない人でありたいと思うのだ。ずっとこんなふうに好きでいてもらえる自分でいたい。義勇の心の中に確かに残る誰かでありたい。これもまた大それた望みだろうか。蜜璃にまた笑われてしまうだろうか?でもきっとやり遂げたいと思う。
(2020-09-19)