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撞着



明るいところにないが、暗いところにもない

 その日は昼から、空には綿のような雲がみっしり詰まっていて少し薄暗く、湿った匂いがわずかにしていた。もしかすると明日には雨が降るかもしれない。草履で土を擦る音は二つだ。キリギリスが低い音で鳴き、その隙間で鈴虫やコオロギがりいりい鳴き合う。風が強く、さあさあと木々が揺れた。そういう山の音をことさら意識するのは炭治郎も義勇も何も話していないからだ。

「怒ってるのか」

 予め気配も匂いもなく、水が布地に染み入るような静かな声で問われて返事が遅れた。沈黙を気にかけるような人でもない。このまま黙って山を下りることになるのかな、と考えていたところだったので意外だった。

 厚い雲の隙間から辛うじて漏れる月明かりの下、炭治郎は義勇の背中に弱った表情を返す。帰ると言う義勇と引き留める炭治郎とで一悶着あるにはあったが、それにへそを曲げたわけではない。ただ炭治郎にもよく分からない理由で、いつもは次々に浮かび上がる言葉が今、すべて心の水底に沈んで貼りつき掬い上げられなくなっていた。少なくとも怒ってなんかいないことは急いで伝えなければならない。ええと、とにかく声を上げる。

「心配なだけです」
「心配か」
「……義勇さんが強いのはもちろん分かってます」

 咄嗟に捻り出した言葉に、呆れて笑う気配がして気まずい。月星の明かりの一切ない暗い夜道を駆け回ることなんて、この厚い背中の人には日常のことだっただろう。どんな怪我を負っていたって関係ない。侮ったと取られたっておかしくはないのだ。すみません、肩を落として小さくなったが、義勇は特に何も答えずスタスタ先を行く。とりあえず怒った匂いはしない。

「お前と二人で歩きたかった」

 ざああ、と一際強い風が走り葉がパタ、パタ、落ちる音を聞いた後、ポツリと呟きも落ちた。いつもと変わらない声の調子が穏やかな川の流れに似ていて、なんでもないことのように呟きをゆるやかに炭治郎の胸元にまで押し流す。義勇の言葉のひとつひとつを決して逃さずに堰き止めていたい炭治郎はその言葉のあまりの大きさに胸が詰まってしまっているというのに。

「益々何も言えなくなります。そんな風に言われると」

 ふう、息を抜く音がした。ただ息を吐いたのか笑ったのか分からない。しばらく互いにまた黙って夜道を進む。義勇は歩くのが速い。隣に並ぼうとするときっと小走りになる。

「こうして歩いていると、あの晩を思い出す」

 あの晩、あいまいな言葉だがすぐに何のことだか分かった。そしてすぐにああ、と何もかも分かった気がした。あれ以来だったのだ。義勇とこうして二人きりになるのは。

「たった一晩だったが、永遠に続くかと思うくらい長く感じた」
「……はい」

 そしてあの日を境に色々なことが終わり、色々なことがまったく変わった。未だそのすべてを整理しきれているわけではないけれど、義勇は今そこに立ち返るために炭治郎を夜道に伴わせたようだった。義勇の足が次第に一歩、二歩と遅くなっていき、ついに足が止まった。炭治郎も義勇から二歩離れたところで足を止める。風がその間を走って、さわさわ木々が揺れた。秋の虫の声。

「よく戦い抜いてくれた」

 胸に堰き止めていた想いが一気にいっぱいになったようで、一気に空になったような気もする。とうとう決壊したのかもしれない。何も言えないどころか考えられもしないでいる炭治郎を義勇は首だけで振り返った。

「……今更だな」

 ふ、とおかしそうに笑ってまた歩き出す。待ってほしい。止まってほしい。そう思った時、応えるように風が吹いて雲が流れた。分厚い雲に星月が覆われたらしく夜道が一層暗くなる。開いた距離を大きく足を踏み出した。右手を伸ばして義勇の左腕に伸ばす。着物の裾を握り、引き寄せて手のひらを探しぎゅっと握り込んだ。ざらついた皮の厚い手のひら。凛と涼しい面差しの人の手にも、ほのかな熱がある。身じろぐ気配に手の力を強くする。祈るような気持ちだった。今、拒まれたくない。

 義勇は結局何も言わず、炭治郎に掴まれた手を穏やかな力で引いた。それを自分の胸元に当て、柔らかい感触を炭治郎の手の甲に触れさせた。唇だったと思う。驚いて手を開いてしまった炭治郎の間抜けな顔を、雲が動き月明かりが照らしてしまう。見下ろしてくる義勇はおかしそうで、優しい笑みだった。また胸が詰まる。

「ここまででいい」

 義勇はまた炭治郎が小走りにならないと追いつけない速さでスタスタ歩き始める。慌てて口を開いたけれど、やっぱり言葉が水底に貼り付いていて浮かばずもどかしい思いをした。

「また」

 なんとか吐き出した言葉に、もう十歩は先を行った義勇が足を止めた。振り返ったのはやはり笑みだ。

「うん、また」

 草履の音と誰とも違う匂いが次第に遠くなり、秋の山の音ばかりになる。寂しかったのだ、と気づいた。何か区切られたところに互いが置かれるような気がして。振り返った義勇の顔は炭治郎を呆れて安心させるようでもあったし、突き放して激励するようでもあった。何も分からないまま、手の甲に残る柔らかさを何度も振り返る。月がまた隠れたので、炭治郎は自分の手の甲に唇を付けた。

 その日は朝から、空は雲一つ無く晴れ渡り、夜になってもそれは変わらず、星月が目が眩みそうなほど輝いていた。乾いた空気が半月を冴え冴えと光らせている。明日もきっと晴れだろう。空中に満ちた青白い光に照らされているのは二人の男だ。秋の虫がりいりい鳴き合う間、ざっざと草履が土を擦る。

「怒ってないですよ」

 しばらく沈黙が続いていたところで、ふと炭治郎が声を上げた。火鉢の熱のようにあたたかみのある声はどんな人間の心の部屋にもしっくり馴染む。隣を見れば当然のように笑みが返された。

「……分かってる」
「本当ですか?」

 それなりに互いのことを知った今、多少の沈黙が続いたくらいで何とも思わない。怪訝に思って眉根を寄せたが、ここのところ益々遠慮知らずの炭治郎は笑みを深くするだけだ。

「二人で歩きたかったんですよ、義勇さんと」

 いつかのやり取りがふっと胸に蘇り、それなりの気持ちを以て紡ぎ出した言葉をそっくりなぞられたことに複雑な気分になった。正面を向いて大きな一歩を踏み出したが、炭治郎も遅れずに隣を歩いている。

「茶化してるのか」
「そうじゃないことを分かってほしかったんですけど……」
「そうか、うまくいかないな」
「義勇さん」

 話を押し流してしまおうとする義勇の気配を敏感に感じ取り、炭治郎が咎めるような声を上げる。しかし見ればその顔にはただ笑みが浮かんでいるのだ。

 炭治郎という男は少し、変わっていると思う。何かを成す男というのは多少なりとも何かが違っているものなのかもしれない。拾い集めた言葉や行いを炭治郎なりの筋道に沿って検め、考え、煮込んで、そっくり腹の中に収めてしまう。あの日のことも例外なく、そうして炭治郎の臓腑の中に落ちて行ったらしかった。

 義勇さん、今度は囁くように名を呼ばれる。辺りに誰も居やしないのに。右手が真正面に差し出されて、炭治郎の笑みをちらりと一度確認する。よく見る優しい微笑みに見えるが、左目の底の熱が揺らいでもいる。強要するつもりはないだろうから無視したっていいはずだが、結局義勇はいつも手を差し出して炭治郎の手のひらに重ねる。それだけで心底嬉しそうに目を細めるのだから、そうしない理由が無くなってしまう。古傷にざらつく皮の厚い手のひらは熱く湿っている。手を引かれるまま、かさかさと草葉を踏み木陰に入る。月星の明かりから隠れ、炭治郎は義勇の手のひらを自分の胸元に引き寄せた。そうして手の甲に熱くて柔らかい唇を押し付け、義勇を解放する。今度はちらりと炭治郎が義勇の顔を確認してくる。なんとも言えないでいると、ふふと空気が揺れた。

「何がおかしい」
「分かりません。ただ、なんだかくすぐったくて」

 ふふ、うふふ、幼い子供みたいに肩を揺らしてけらけら炭治郎は笑っている。見ているほうの気も抜ける笑みだ。

「義勇さん、また。また来てくださいね」

 ひとしきり笑った炭治郎は、苦笑を浮かべる義勇の顔を覗き込んだ。また少し背丈が伸びたようだった。星明りが入る瞳は左目ひとつでも火の粉が闇夜にぱっと舞うように輝いている。曇った鏡のように濁る右目が少しだけ惜しい。

「またここに」

 先程重ねた手を炭治郎は自分の胸に当てた炭治郎は、返事は分かっていると言わんばかり、弾けんばかりの笑みで手を振り振り、来た道を駆け登っていく。青年らしい逞しさを感じさせ始めた背が見えなくなるまで見送って、義勇はため息をひとつ吐いた。

 なんとも奇妙で、酔狂なことになってしまったな。

 確かに少しくすぐったいかもしれない。自分にか、炭治郎へか、よく分からないまま呆れたような気持ちになり、柔らかい感触の残る自分の手の甲を見つめた。空があまりに明るいせいで青白く光ってさえ見える。ふっとひとつ笑って自分の唇と重ね、堪えられなくなってふふふと笑みを漂わせながらのんびり山を下りていく。

(2020-11-21)

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