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そうだ、ちょっと会いに行こう (炭義禰)



 居ても立っても居られない時、禰豆子は駆け出す。秋の空気でひやりと目鼻や喉を冷やしながら、手足をいっぱい使って駆ける。四年前まではきっと、そういうことをしたりはしなかった。禰豆子には毎日数多くやることがあって、弟や妹たちを置いて駆け出すわけにもいかなかったから。そう考えると昔のほうがずっと大人だったかもしれない。子供に返ってしまったみたいで情けなくて、息も胸も苦しくて、吐息を弾ませながらまた走る。

 とうとういくら息を吸っても体に空気が入らず、痛む肺が空っぽになった。は、は、と浅い呼吸を繰り返しながら足を止める。一度止まってしまうと熱が首元まで詰まって額から汗が滲み出てくる。苦しさに滲んでいた涙を乱暴に拭い、とぼとぼ足を進めた。肺を痛めつけた空風が急に優しくなり熱い頬を優しく撫でる。ふう、はあ、呼吸と気持ちを整えながら歩く。

 世界の何もかもへ茜色を重ねた夕暮れの中、やっと見慣れた門が見えてきた。門扉が開いている。禰豆子が知る限り屋敷の主人が居る時は必ず開いているからほっとした。小走りに駆け寄り、門柱に手をかけそろりと覗き込んでみる。

 庭には人が居た。最近始めてみたという盆栽の前で、左手に鋏を持って突っ立っている。目先にあるのは小さな松ではなく、その奥にある桜の木のようだ。真っ赤に染まった葉が風に揺れるのをぼうっと見上げている。白い面の涼しく整った鼻先でひらり、紅葉が揺れて真っ黒な睫毛の先がひとつ上下した。そうしてゆっくり、こちらに目が向く。絵姿と目が合ったみたいな気分がして、どきりと心臓が跳ねた。すっかり慣れ親しんだはずなのに、この人には時々そう感じさせる不思議な瞬間がある。

 禰豆子に気づいた義勇は手に持っていた鋏を盆栽棚の上に置いた。そして腕をすっと上げて静かに手招きをする。禰豆子が慌ててぺこりと頭を下げると、そこで初めてふっと笑うのだ。奇妙な恥ずかしさを抱えながらちょこちょこ駆け寄る。

「禰豆子」
「……はい」

 名を呼ばれただけ。けれどそこには禰豆子を歓迎する百の言葉がある。本当のところは分からないけれど、優しい光の灯る蒼い瞳を見ていると、そんなに間違った想像でもないと思える。だから禰豆子は大人しく返事をするし、義勇も深くひとつ頷く。

「出かけるぞ」

 いつもなら家の中に上げてくれるところだったので、きょとんとその顔を見上げた。懐を探っていた義勇は、よく見ないと分からない程度の変化だけれど、決まり悪そうな顔になって歩き出す。

「今、家に何もない」
「あっ!」

 言われてハッと気づいた。思わず胸元を押さえたが、風呂敷の感触は無い。次に会ったらあれもこれもと常々考えていたはずなのに。

「私、何も持ってきませんでした……!」

 いつもならこんなこと絶対に無いはずなのに。後先をまるで考えていなかった自分の行いを、兄や自分を導いてくれた一人である義勇に見られたのが恥ずかしい。あああ、落胆の溜息が漏れ出た。

「お前は身一つ持ってきただろ」

 しかし突然の禰豆子の大声に驚いて足を止めていた義勇は、呆れた様子でそう言い、なんでもないことのように歩き出してしまった。スタスタ、義勇の足は速い。小走りで追いかけて横に並ぶと、思い出したように歩く速度が緩くなった。やっぱり義勇の言動のひとつには百の言葉が隠れている。だから、歩きながら続く穏やかな沈黙が禰豆子は好きになる。

 二人分の草履が土をざらざら滑る音、乾いた風が吹いて時折走る枯葉、すれ違う人たちの声。川沿いの道には店が立ち並んでいるから人影も多くなった。茜色の夕暮れが伸ばした影が黒い。

「義勇さん」

 優しい沈黙に包まれている内に、自然と口が開いた。もう誰にも何も話せないんじゃないかと思うくらい切羽詰まっていた心が凪いでいる。これも義勇の不思議なところだった。風のない水面のような静かな目が禰豆子をそっくり映し込む。

「一人暮らしってどんな感じでしょうか」

 鱗滝の弟子らしい寡黙な人ではあるけれど、見慣れると案外表情は分かりやすい。禰豆子の言葉を受け止め損ねて眉根に一本皺が寄り、どんな、と小さな呟き。その鸚鵡返しが小さな子供みたいで少し可愛らしいと思ってしまう。はい、と笑みを呑み込んで頷くと、思案するように首を傾げ義勇は首を前へと戻した。

「それが普通だからどうもこうも無いが……」

 探るように言葉が生まれ、穏やかな川のせせらぎのような声が風に乗って流れ去っていく。黄色く乾いた柳の葉を背に、義勇はひたりと足を止めた。

「娘が一人で暮らすのは難しいと思う」

 じっと見つめられて思わず目を伏せる。義勇には良くも悪くも遠慮がないから、話の核心にも簡単に手が伸びる。もう少し気楽に漠然とした話を続けていたかった気もしたけれど、結局禰豆子はこうなることを望んで義勇を訪ねた気もするのだ。

「やりたいのか」
「いえ……」

 空っぽにしたはずの肺にまた、苦しい空気が詰まってくる。駆け出したい。でも今駆け出したってどこにも行けない。同じところをぐるぐる回るだけだ。

「ただ、時々苦しくなって。みんな私に優しいので」

 頼られたり、叱ったり、あやしたり、励ましたり。楽ではない暮らしだった。でもそれが幸せだった。それがばつり、枝のように断たれて、今はまた幸せの中に居る。ひどく穏やかな幸せの中に。

「兄が、いっとう、私に優しいので」

 禰豆子が何をしても、炭治郎は嬉しげに幸せそうに微笑む。禰豆子以上に大切なものは無いと全身で伝えてくる。禰豆子が喜んでいる時、楽しんでいる時、炭治郎も同じ気持ちを感じている。それが手に取るように分かるのは、禰豆子にとっても炭治郎以上に大切なものが無いからだ。

「毎日の中の嬉しいことやおかしいこと、怒ったり悲しいと思うこと、全部兄の中に終わるから」

 炭治郎が言ったこと、笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと、それが全て生活の、禰豆子の思考のひとつひとつにぴったりくっついて分かちがたい。いつも心の中に兄がいて、優しく微笑みを返される。一人暮らしなんてしたいはずがない。ずっと傍に居たい。もう二度と離れたくない。ぴったり背中にくっついていたい。でも、いつまでもそんな幼子みたいなことを言っていられないことが分かるから苦しい。自分が許せなくなる。

 義勇はすぐには何も言わなかった。顔を上げられない禰豆子には表情も分からない。息の詰まる胸元でただ手を握り合わせていた。しゃらしゃらと柳の葉が乾いた音を立てて揺れる。

 それはどこに居ても同じだろ。ふと秋風の中に声が生まれてまた流れ去る。突き放すような言葉に思わず顔を上げたが、義勇は驚くほど優しい笑みで禰豆子を見ていた。

「一人で居ても、たくさん居ても同じなら、お前に優しい人に囲まれながら暮らせ。俺のためだと思ってそうしてくれ」

 すぐには何も言えず自分の手を一層強く握り込み、むっと唇を引き結んで眉根を寄せる。そうしないといけない理由があったからだった。

「話す人を間違えました。義勇さんは一番優しいんでした」

 苦し紛れに言うと、義勇は一瞬きょとんしただけで気分を害した様子も無くむふむふ鼻で笑い始めてしまった。ますます頬が膨らむ。

「笑ったらだめです! 真剣に悩んでるのに」
「すまない」

 義勇の目は柔らかい。いかにも嬉しげで幸せそうだった。炭治郎にも時々向けるそれは、禰豆子にもこうして度々向けられる。

「そう言うな。お前に頼られるのは嬉しい」
「もー!」

 ずっと同じところをくるくる回って駆けている。いつかは抜け出すのか、永遠に苦しく走っているのかは分からない。けれど今、駆けた先にこの人が居てくれることが心を少し休ませてくれた。

 人生の空模様って、こんなに穏やかではっきりしないものだったっけ。まるで今日の秋の空だ。薄く伸ばした綿のような雲が空いっぱいに敷き詰められていて、時々途切れて晴れ間が見えたり、時々曇って肌寒い空風が吹いたり。戦いが終わっても、一山下りるのだって楽ではなかった昔にまったく戻るわけではない。雪の日、嵐の日、烈しく目まぐるしく変わる天気をいくつもいくつも超えた炭治郎は、時々まるで自分が全く違う人になってしまった感じがする時がある。四年経って、俺は一体何に成ったんだろうか。

 雲一つない秋晴れを恋しく思いながら駆けていたけれど、目的地に近づけば近づくほど雲が少なくなっていく心地がした。義勇の家に足を運んでいる時はそれだけで心が弾む。俺にとって便利なところに住む、と言って義勇が雲取山と狭霧山のちょうど中間くらいに居を構えた時のことが思い出されるからだった。義勇の暮らす世界の中に自分たちが居るのが嬉しい。時折、もう少し近いと便利だなあと思うけれど。さすがにそこまでは口にしない。

 薄曇りの空の下、見慣れた門が見えてきた。門扉が開いている。水柱の屋敷に暮らしていた時はいつも固く閉ざしてあった扉を、義勇は今訪ねてくる人のためにいつも開いてくれている。戦いを終えてよく見るようになった穏やかな笑みが鮮やかに胸のうちに浮かんだ。もう迎え入れられた気になってほっと息を吐いて笑う。こんにちはごめんください俺です炭治郎です入ります、一息に叫んで敷居を超える。しかし、ん? と首を傾げたのは義勇の匂いが庭のほうからしたからだ。最近盆栽を始めた義勇は、庭に居るなら大抵門からすぐの棚の前で見つかる。すんすん鼻を動かしながら犬のように匂いを辿っていくと、納屋に辿り着いた。開いた戸からがさごそ音がする。

「義勇さん?」

 曇り空の弱い光が格子窓から入り、薄暗い納屋を覗き込む。しゃがみ込んでいた義勇が手を止めてこちらを振り返った。ふわ、と優しい匂いが鼻をいっぱいにする。

「炭治郎」

 目元が涼しくて雛人形のお内裏様みたいに顔が整った人だけれど、よくよく見ると黒目がちな瞳が大きくて、柔らかい表情になると幼く見える。炭治郎はそれを見つけるのがたまらなく好きだ。より親しい、より近いところに義勇が居ることを感じられるから。飛び跳ねるようにして義勇の横にしゃがみ込んだ。

「探し物ですか」
「ああ」

 引っ越し祝いにと色々な人から受け取っていた品から何かを探しているようだ。手伝いますよと声をかけたが、もうすぐ見つかるはずだと断られてしまった。仕方が無いので、脇に避けた箱や品を受け取って邪魔にならないように整理する。

「あのう義勇さん」
「なんだ」
「昨日、禰豆子がお邪魔しましたよね」

 沈黙。がさごそと箱を開いたり物を動かしたりする音。あれ? 聞こえなかったかな、と思うくらい義勇の表情も匂いも変わらない。集中していて聞き流されたのだろうか。もう一度尋ねようかどうか迷っている時、あ、と義勇が声を上げた。

「あった」

 取り上げた蓋を棚の空いたところに置いて、義勇は左腕に桐箱を抱え上げる。差し出されたのを覗き込むと、網付きの七輪がすっぽり収まって炭治郎を見返した。

「準備は任せた」
「えっ」
「秋刀魚を買ってくる」
「ええっ?」

 箱を押し付けられたので思わず受け取ると、義勇は颯爽と納屋を出て行ってしまう。しばしぽかんとしていたが、他にできることもなく炭治郎は七輪を庭先に置き、同じく納屋に積まれている炭治郎が焼いた炭をそこに詰めて義勇の帰りを待ったのだった。

 魚屋に下拵えをしてもらったという秋刀魚を網に載せる。火箸を持つのは当然炭治郎だ。網の向こうの炭火を真剣に見つめ、少しでも強いなと思ったら透かさず水を入れたり炭の位置を変えたりする。義勇は網を上げる時にそれを持ってもらう係、後は重要な風除け係だ。脂の多い魚はとにかく火加減が命。風が強いと調節がぐっと難しくなる。でも義勇を秋刀魚を焼く風除けに使ったなんて知れたら色んなところから怒られそうな気もする。ちらり、と炭火から目を上げると、こちらを見ていた義勇とばっちり目が合った。

「心配しなくても米ならある」

 冷や飯だが。何もかも分かっていると言いたげに義勇は深く頷く。

「それはありがたいですねえ」

 もう昼時ですし。魚の焼ける香ばしい匂いに胃をきゅうきゅう絞られている炭治郎は素直に相槌を打った。考えていたこととはちょっと違ったけれど。ちりちり、皮が焼ける音。はちはち、炭火が燃える音。白い煙がしゅうしゅう揺れる。

「義勇さん」

 炭治郎が名を呼ぶと、義勇の目はひたりと炭治郎に向く。どこを向いていても炭治郎のほうへ戻って口から零れる言葉をじっと待ってくれる。このわずかな静寂が炭治郎はたまらなく好きなのだ。なんでも許してもらっているような気になるから。

「禰豆子の相談に色々乗ってくれてるって聞きました」

 義勇の目がまた逸れて、網の上の秋刀魚に移る。予想していた通りの反応だったけれど、魚の焼ける匂いで何を考えているかまでは分からない。焦げ付くんじゃないか、とごまかすように言われたので、一応素直に秋刀魚を菜箸で突いておく。

「……助けになっているかは分からないが」
「助けですよ。義勇さんは居てくれるだけで」

 観念したような小さな呟きにすぐさま返す。そこを疑われたらたまらない。たくさんのものを一度に失った炭治郎たちに寄り添ってくれる人たちの中に義勇が居てくれること、それがどれだけ心をあたかく優しく照らすか。知らないでいてほしくない。分かってくれているだろうか。確かめたいのに秋刀魚の匂いしかしない。そうか、なるほど。

「だから、俺も相談に来たんですけど」

 子供っぽいとは分かっていても頬が膨れた。禰豆子が来たら炭治郎も来る。それが分かっていたから七輪を探していたに違いない。炭治郎が禰豆子のことを知りたがると思って、何を考えているか少しでも分からないようにするために。悔しい、先手を取られた。炭治郎が義勇の思惑に気づいたことに義勇も気がついたらしい。ちらりとこちらを見て、また網の上に目を逸らした。義勇さん、名をひとつふたつ呼んだ。義勇は沈黙より炭治郎に呼びかけられる方が効く。たちまち眉根が寄って苦そうな顔になり、諦めたように溜息を吐いてくれるのだ。その姿にはちょっと嬉しくなってしまうのだけど。

「禰豆子はかわいい」
「そうですね」

 間髪を入れない返事。深い頷き。身内から見たってあんなにできた娘は無い。どこに出しても恥ずかしくない。

「かわいいから、何でもやってやりたくなる。頼られると嬉しい。あいつがやりたいことができるように、もう嫌なことなど何ひとつ無いように助けてやりたい。立派に、美しく生きられるように」

 はあ、炭治郎は思わずため息を吐いた。もちろん感嘆の溜息だ。分かる。凄くよく分かる。四年前までは何の繋がりも無い人だったのに、ここまで禰豆子のことを炭治郎と同じくらい大切に思ってくれる人が居ることが嬉しくて有難くって慕わしい。だからこそ分かってほしい。禰豆子に悩みや憂いがあるなら知っておきたい。ほんの少し前まで匂いを嗅がなくたって分かっていた禰豆子が、最近唐突に遠くなったように感じることが不安でたまらないことを分かってほしい。

「でもお前はかわいくない」
「えっ、は、はい」

 秋刀魚をひっくり返す菜箸を取り落としそうになった。いや、かわいいと思われたいわけではないけど。頼りになるとか逞しくなったと思ってほしいところだけれど、そんなにはっきり言われると少し傷つく。

「お前はかわいくないから、もう何も助けてもやらないし、教えてやらない」
「ええ……」

 秋刀魚から脂が落ちてじゅうと音がすると、義勇の匂いなんて全然分からない。今日は完全にしてやられている。ばつ悪そうに逸らされていた顔が、今は炭治郎の表情を窺うために戻ってきていた。この目、知ってるぞ。いたずらっ子の目だ。

「立派にならなくてもいい。それで、いつまでも俺の隣に居ればいいのにと思う」

 ふふ、愉快そうに義勇が笑った。それをぽかんと見つめる。じゅう、じゅう、脂の落ちる音が大きくなって慌てて網を上げてもらい水を少し入れる。火が強くなりすぎると焦げてしまう。炭火が弱くなるのを見守り、ふうと息を吐いた。また頬が膨れる。

「嘘つきの匂いがします」
「へえ、嘘つきの匂いはうまそうな匂いだな」

 強い。最近の義勇は炭治郎のような鼻も無いのに簡単に炭治郎や禰豆子の行動を読んでしまう。そしてそれを炭治郎は嬉しく思わずにはいられないから八方塞がりだ。

「食べてから続きにしますからね!」
「なら次はお八つだな。芋を焼こう」
「もー!」

 炭治郎は一体何に成って、これから何に成っていくのか分からない。穏やかですっきりしない秋の空もいつかは冬や春、夏の空に変わるんだろうか、それも知らない。けれど今、傍らに穏やかな目でこの人が居ることが炭治郎の空模様を少しだけ晴れやかにしてくれる。

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