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撞着



気付かなければ誰も、知らなければ何も

 気づかないふりをしている。

 炭治郎はやっぱり炭焼き小屋の長男なので、家に戻ったらやることはやっぱり炭焼きだ。ただ一緒について来てくれた善逸や伊之助もしばらくは家で暮らすことになったから人手はある。三人も元鬼殺隊の男が居れば力仕事には困らない。それぞれそこそこの蓄えもあるから贅沢しなければ生活に困ることもない。

 余っているな、そう思う。余っていたら、炭治郎はやっぱり困っている誰かのために分けてあげたい。そういう気持ちで友人や、知り合い、お世話になった人の元をぐるぐる巡っている。片手は動かないから何でもというわけにはいかないけれど動く右手で、人力が足りなければ手伝いをするし、心が寂しければ手を引いて明るいところを探す。炭治郎はやっぱり誰かのためになることが好きだ。人の命が限りあるものならば、尽きるまで誰かのために駆けていたい。それが一番、炭治郎の性根に合っている。

 そういうわけだから、当然、義勇の元も訪ねる。何せ、炭治郎の人生がこうして続いているのは、間違いなく義勇の決断のおかげなのだから。何でも手伝いをして、助かる、ためになったと少しでも思われたい。

 約束も連絡も何もない訪問を、義勇は厭わない。ちょうど一年前頃、戸惑った匂いで迎えられたことが幻みたいに遠い。むしろ待ち構えていましたと言わんばかりに、お前が来ると思ってあれを買っておいただとか、これを人から貰ったが禰豆子にいいと思ってだとか、品々を物売りのように並べたりする。人助けの巡回に来たはずの炭治郎は、気づけばすっかりその物珍しさに驚き釘付けにされるのだった。その隙に茶と茶菓子がスッと差し出されたりしてハッと我に返る。

 いやいや、だめだだめだ。俺は皆に助けてもらってここに居るんだから、俺も皆を助けたい。義勇さんの役には一番に立ちたい。それにしても義勇さんは本当に器用だな。左手で何でもやってしまう。

 なんとか太刀筋を矯正して、こればかりは器用な義勇をも凌駕しているはずの火仕事を買って出る。主には飯炊き、たまに風呂焚き。他は掃除だ。わざわざそんなことまでしなくていい、と言われたこともあるが、趣味なのでこれが楽しくてたまらないんですと伝えてからはあまり言われなくなった。その代わり義勇はいつも炭治郎の近くに居る。時々片手じゃ不便だな、と思う時に手を差し伸べてくれる。炭治郎の楽しいと思うことを心ゆくまでやらせてやらせたいのだ、きっと。嬉しい。けれどこれじゃあ却って迷惑をかけてるような。

 話してくれ。俺はお前ほど話題がない。

 もっと役に立ちたいのだと直談判した時、義勇はそう言った。だから炭治郎は話す。火を起こしながら、鍋をかき混ぜながら、厨の煤を掃きながら、桟の埃を払いながら。家で起こったこと、人助けの最中に起こったこと、笑ったこと泣いたこと。義勇は本人の言葉通り自分の話で返してくることはないし、相槌すらほとんどない。それでも間違いなく聞いていると分かるから、炭治郎は止めどなく話を続ける。

 義勇の匂いがする。炭治郎が何か仕事をして背を向けていると、義勇の匂いは一層強くなる。正面で膝を突き合わせて話している時よりも何故だか濃い。首元から漂ってきて鼻に上ってくる。それがあんまり強い匂いだから、炭治郎はつい錯覚しそうになる。義勇が真後ろに立っていて、親しく背中に触れもっとと話をせがんでいるのではとか、両肩に手を置き、背中にくっついてきたのではとか。でも勿論そんなわけもなく、義勇の気配は少し離れたところから動いていないのも分かっているから、うっかりどもったりしないよう細心の注意を払って、こっそり鼻を鳴らす。すん、吸うとまた義勇の匂い。

 気づかないふりをしている。ずっと、この匂いで背中に優しく触れられていたいから、この匂いを嗅ぐ時に想像する、背中の向こうの義勇の顔を胸の中で壊さず持っていたいから。次はいつここへ訪れよう。次はどんなことを話そう。それでふとした時にこの匂いを嗅ぎたい。義勇の指先ひとつ触れてはいないのに、確かに背中に触れたと思う。それがたまらなく好きで、気づかないふりをしている。

 知らないふりをしている。

 生きるのならば鬼殺隊の隊士として生きる以外にはなく、死ぬのならば闇の中に消えるように死ぬのだと信じていた。それ以外の途上に立つことなど一縷も考えていなかったものだから、戦いが終わり傷が癒えた後、鬼を殺す以外に一体何をしたものかと真剣に考え込んでしまった。食うのも寝るのも鍛錬も、人と会話することすら鬼の頸をひとつでも多く刎ねるため。振り返ってみるとその他には何もない半生だった。

 逆に考えてみると、何もない生活の中に残ったものが冨岡義勇という人間の本質なのかもしれない。ひとまず死なないように生きることを始めた義勇は、穏やかな暮らしの中でそれに気が付いた。鴉の寛三郎の世話をしてやり、ぼうっと空を眺めたり、体の調子が良い時に動かしてみたり散歩をしたり、詰将棋に唸ってみたり表題だけで買った本を開いてみたり。きっとすれ違う誰ともさほど変わらない生活の中に義勇は居た。かつて水柱などと分不相応な階級に居たこともあったが、義勇には何も特別優れたところはない。そして、それと同じくらい特別劣ったところもない。

 そう思うのは根拠がある。炭治郎が度々義勇の元を訪れて来るからだった。炭治郎の満面の笑みを見て、嫌々会いに来ているなどと捻くれた疑いを持てる奴はそう居ないだろう。ここぞとばかりに出す備えておいた品々に炭治郎はいちいち驚いたり恐縮したりして、最後には有難そうに受け取る。楽しそうに家の仕事を引き受けて、義勇が時々零す何の工夫もない言葉を拾い上げては心底嬉しそうに丁寧に扱う。義勇の行いが、この炭治郎という素直な男に何かを働きかけて生んでいる。それが穏やかな暮らしの中では明らかなのだ。それくらいのことは義勇にもできているらしいと分かる。

 そして、もう一つ。

 炭治郎は三月に一度程、うっかり長居をして義勇の家へ泊っていく時がある。そうでなくとも、義勇にもうっかりがあって、炭治郎が少し席を外して暇な間にうたた寝をしたこともある。どうにもそれまでの習慣が抜けず昼下がりには眠気を感じてしまうのだ。何も急き立てることのない心地よい眠りの淵に足を浸していると、必ず何かが前髪に触れる。こわごわ、恐れるように、つむじのあたりから前髪の先までを優しく梳いていく。

 頼りになる鼻が鈍っているのだろうか。もし義勇がぱちりと目を開いたら一体どうやって取り繕うつもりなのだろう。興味はあったが、義勇はいつも大人しく髪の先を撫でられる。眠る義勇の髪の先で何かが生まれている。他ならぬ、冨岡義勇という人間の本質の中に暮らす炭治郎に。

 知らないふりをしている。ずっと、この視線で優しく触れられていたいから、この気配を感じる時に想像する、瞼の裏にある炭治郎の顔を胸の中で壊さず持っていたいから。次は何を用意して迎え入れてやろう。次はどんなことで嬉しそうに笑わせてやろう。それでふっと日常が途切れたところでこうして触れられたい。確かなどんな言葉を聞いたわけでもないのに、確かに炭治郎の想いを知っていると思う。それがたまらなく幸福で、知らないふりをしている。

(2020-10-24)

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