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誰とでもどこまでも行ける、夢の中でなら
チリン、と涼しい音を聞いて薄く目を開く。見ているこちらの目まで染まりそうなきっぱりした青色。みんみんじりじり、蝉が力強く鳴く声の隙間、またチリンと涼しい音が幽かに踊る。風鈴だ。夏、軒端にかけるようにしている金魚の絵付きの風鈴かな。禰豆子が麓の町でもらってきたものだ。じゃあここは家なんだなと思う。家なら夢だな。俺はまだ禰豆子を人に戻せていないから。
懐かしい、寂しい気持ちが突風のように迫って、胸元をきゅうっと押し潰した。もう一度目を閉じて頬を地に擦りつけると、布に擦れる感触がする。そしてその向こうに何か硬いものを感じた。畳や縁側の床ほどじゃないけれど、枕ほどは柔らかくない何か。人の膝かな。祖母に膝枕させてもらった時の夢だろうか。そうでなければ母か。夢なんて人から見られるものではないけれど、なんだか無性に恥ずかしい。すう、といつもの癖で匂いを辿って目を見開いた。
体を傾け、顔を真上へ捩る。そこには軒端に陰って空よりも少し暗い色になった蒼の瞳があった。いつもの隊服ではなく涼しそうな浴衣を身に纏っている。手には団扇。父が竹で作ってくれたものを、家に居るはずもない人が当たり前の顔で握っている。そして炭治郎に優しい風を送っている。
言葉を失って固まる炭治郎を、その人は風鈴の音と同じ涼しい顔でただ見下ろす。優しい風だけは絶えず送られてきて、汗に湿った肌に触れる感触が妙に現実的だ。どきどき心臓が跳ねて血を過剰に巡らせる。今なら痣が出せるかもしれない。でもなんで、俺はこんなに緊張して。
「ゆ、夢、ですよね」
どもってしまった。その上なんてばかな質問だろう。カッと頬にまで血が巡るのが分かる。しかし炭治郎の言葉なんて蝉の声と変わらないのか、蒼い目の人の顔色はさっぱり変わらない。
「義勇さん」
「……何だ」
返事だ。これは間違いなく夢で、現実ではないけれど、ここに居るのが冨岡義勇という人であることもまた確かなようだった。その事実にまた心臓が跳ねる。祖母や母を見るより何倍も恥ずかしい気持ちになるのはどうしてだろう。
「夢なら」
それでも黙っていられずとにかく口を開いた。儚く目覚めてしまう前に何か言わなければと焦る。さっぱり理由は分からないのだけれど。これが夢なら、それなら、何でもできるし、何でも叶うし、どこへだって帰れるはずだから。
「夕方になったら川辺で涼みましょう。きっと蛍が居ますから。あの、何も大したものはないけど、俺美味い飯を炊きますから、それで」
幼い子供が矢継ぎ早にものをねだって親を困らせるみたいだ。情けないところを見せているのは分かるのに、義勇の顔色がちっとも変わらないのをいいことに好き勝手口が動く。
「それで、笑ってください」
初めて、義勇の顔が少し動いた。きょとん、と目を丸めた顔だ。そう言えばこの顔は橋の上で見た。蕎麦の早食い勝負を提案したけれど、それがまったく意外だったようで。あの時と同じようにすぐに顔色は静かに凪いでいく。けれど匂いはあの時と同じように少し変わった。少しだけ親しげな、仕方ないなと受け入れてくれる匂い。団扇を動かす手を止め、口元にそれを添えた義勇はそっと身を屈めた。炭治郎を蒼い瞳が覗き込む。
「じゃあ、早く起きろ」
団扇の風は冬の空風。柔らかい布の感触は頭に添えてくれた丁寧に畳まれた羽織。勘違いで柱稽古を邪魔してしまったことなどまるで気にしていないふうに、実弥との接し方についてあれこれ話してくれる義勇の親しげな横顔を嬉しく思う。ふっと言葉が夕暮れの中途切れた時、夢のことが鮮やかに脳裏に蘇り恥ずかしさがありありと思い出されてしまった。妙にやましい心持ちだ。それを振り切りたくて口を開けた。
「あの、ありがとうございました」
これは夢ではないから、義勇の表情は驚くほど簡単に変わる。大きく変わるわけではないけど、匂いと合わせて炭治郎の言葉の意味を理解できないのだと分かる。それだけのことにまた心臓が早くなってきて何故だか慌ててしまった。
「実はさっき転がっていた時夢を見たんですけど。義勇さんが出てきて。遠路はるばるありがたかったなあと思って」
あわあわ言葉を繋げたせいで、おかしな話になっているのは自分でも分かっている。炭治郎のそんな様をきょとんと眺めていた義勇は折り曲げていた膝の上に自分の顎を乗せ、炭治郎の顔を覗き込んだ。
「変なやつ」
すっかり頭の中までカチコチに固まって、夢の義勇に頭の中でうわ言のように答えた。なるほど、早く起きないといけなかったわけですよね。こんな顔を見られるんだったら。