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夏が終わる



世界がうつくしいのは

 本当に、何も変わらないいつもの一日だったんですよ。昨日も全然違ったとこなんてなくて。ただ、昼から雨が降ったんです。こっちはどうでした?ああ、こっちは夕方に。大丈夫でしたか?ええと、降られたりとか、そういう。……そうですか。良かった。傷も痛まなかったなら、良かったです。

 とにかく雨が降ったので、炭焼きも畑仕事も一日二日くらい休もうかってことになったんです。別に特別な理由があったわけじゃないんですが、たまにはいいかなあ、と思いまして。いつもより時間をかけて夕餉を豪勢にしてみたり、本を読んだりゆっくり過ごしました。いえ、ううん、ゆっくりと言うとちょっと違うかもしれません。八犬伝を読んでるんですけど、伊之助がすごく盛り上がっちゃって。善逸なんか俺も本を書くんだって言い出したり。ふふふ、すみません。ふふ、思い出してみるとおかしくなってきちゃいました。はい、そうなんです。賑やかですよ。うちはいつも。また遊びに来てくださいね!

 そう、善逸。善逸なんです。言い出した通り遅くまで筆を執っていて。我妻先生、もう寝ましょうよおって禰豆子と声をかけたんですけど、生返事しかしないんです。もう寝るから、もう寝るからって。まあ明日は休みにしたし、いいかなあ、と思って俺たちもその内に眠ってしまいました。それで朝に、今日ですね。今日の朝になって、もういつもの時間には障子の向こうが明るくて。明け方にきっと雨が止んだんでしょうね。朝露の草の匂いより濡れた土の匂いが強くしましたから。休みにはしたけど、そろそろ起きなきゃなあって思っていたら、こそーっと布団を抜け出す気配がしました。薄目を開けたら、善逸だったんです。俺が起きてることは耳で気づいていたかもしれないんですけど、振り向かずにそのまま、抜き足差し足で外へ出て行って。どうしたんだろう、何かあったのかなってまず心配しました。けど、匂いはそんな感じじゃなかった。緊張しているような、でも胸が弾んでるような明るい匂いもして……よく分からない匂いで。少なくとも困ったり苦しんだりしているふうでもないので、引き留めませんでした。散歩だ鍛錬だって皆好きに出たり帰ったりするのはいつものことですから。

 けど昼になっても善逸が戻ってきませんでした。せめてどこへ行くか聞いておくんだったなあって後悔したんですけど、禰豆子がそこで大丈夫だよ、書置きがあったから、って。禰豆子宛てに手紙があったらしいんです。「昼餉は要りません。八つ時くらいにしるべ岩のところで」っていうような。そうですそうです、うちに上がって来る時に道しるべになる岩なんですけど。何か準備をして、町へ買い物へ行くのかな?と思いました。善逸はよく禰豆子を連れて町へ行きたがりますから。それにしても妙なやり方でしたけど、あまり深く気にしませんでした。伊之助が待たなくていいならもう昼餉を食べようって急かしていたし。

 昼餉を終えて、片づけをして、禰豆子が山を下りて行きました。俺は雨も上がったし休みも終わりでいいやと思って竹を割ってたんです。伊之助が切ってきてくれた奴を細かくして。でも結局今日は全然働いてませんよ。四半刻も経ってなかったんじゃないかなあ。禰豆子の匂いがして。もう帰ってきたのか、って表に戻りました。

 そしたらですね、禰豆子、腕いっぱいに花を抱えてるんですよ。本当にいっぱい。うちの山中にある花を全部見つけ出したんじゃないかってくらい。赤、白、黄色、青とか紫とか、ユリやリンドウみたいなしっかりした花もあれば、オミナエシみたいに小さな花もありました。善逸からもらったんだろうっていうのは想像つくでしょう?俺もニコニコしてそう言うだろうって思ったんですよ。でも禰豆子、俺のところにまっすぐ駆けてきて黙ってしまって。顔を覗き込んだら、「すごいことだよ」って言いました。真剣で、泣くのを無理やり我慢してるみたいな顔だった。

 善逸は昨日の晩、自分の人生の色々なことを思い返したんだそうです。嬉しいこと、楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、思い返してとにかく文字にした。善逸はこれまで、自分の人生なんて悪いことばかりだったと思ってきたらしいです。文字にしてみたら変わるかと思ったけれど、かえって間違いなく悲惨だったと思えてきて、とうとう泣けて、真夜中にひっくり返って筆を放り出したらしいんですよ。そうしたら、静かだったんですって。夜の山の音以外には何も音がしなくて、聞こえたのは寝息だけだったって。俺たちの寝息です。それで、突然に「でも、良かったよな」って言葉が浮かんだそうなんです。生まれてきて、俺たちに会えて良かったって。それがね、善逸の出かけた理由だったらしいんですよ。とにかくきれいな花を集めて禰豆子に見てもらいたかったって。いつも善逸さんはきれいなものを見せてくれるって禰豆子は言ってました。なるほどなあと思いました。これは確かに凄いことですから。俺たちに会えて良かったって思いながら、善逸は山の中からきれいな花を探してきてくれたんだから。

 そこまで話したら、「二人にもあげないとと思って。でもね、そう言ったら善逸さん真っ赤になって逃げちゃった」って感じで、禰豆子はやっとおかしそうに笑って俺と伊之助に好きな花を選ばせてくれました。

 俺、その時に縁壱さんのことを思い出しました。縁壱さんはですね、ええっと……俺の、遠い恩人で……とにかく凄い剣士なんです。あ、はい。「記憶」の。そうか、話しましたよね、前にも。ありがとうございます。信じてくれて。えへへ。

 その縁壱さんが、俺の御先祖様に言っていました。この世はありとあらゆるものが美しいって。この世界に生まれ落ちることができただけで幸福だって。でもそれにいつでも気付けるわけじゃないんじゃないでしょうか。俺は信じたいです。どんなに深く傷ついても、世界が美しく見える人が独りじゃないことを。誰かが居てはじめて、一緒に笑ったり泣いたりして、その先にあるものも美しく見える、のかも、しれないなあ……って。すみません、よく分からないことを言ってますよね。え、あ……ありがとうございます。また。

 いつも、楽しそうに俺の話を聞いてくれますよね。俺が来ると、どんなに突然でも喜んでくれる。俺、だから、今日じゃなきゃと思ったんです。今日、この気持ちのまま、なんとしても山を下りて、この花を見せないとって思ったんですよ。

 ね、見てください。きれいですよね。義勇さん。

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