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夏は終わるが、夜は続く



「炭治郎はここで寝る」
「えっ」

 思わず妙な声を上げたのは、様子窺いに縁側から顔をヒョッコリ出した禰豆子……ではなく、寝そべる義勇の隣に腰掛けていた炭治郎である。ぎょっと目を下ろすと、義勇は左手で炭治郎の袖に指を添え撫でたり引いたりしているようだった。まるで猫の子だ。それに更にぎょっとして、何故か禰豆子から隠さなくてはという気になり背筋をピンと伸ばし顔を上げた。

「そういうことみたいだ!」

 自信満々に言ってはみたものの、何が一体どういうことみたいなのだろうか。禰豆子はきょとんと炭治郎を見下ろし、その向こうの義勇を見やり、それからにっこり微笑んだ。はあい、と返事をしてとたとた縁側を駆け戻っていく。思わず呼び止めそうになったが、呼び止めても何を言えばいいか分からない。いつもの笑顔のようでいて、全く知らない笑顔にも見え、ちょっと恐ろしい感じがした。静かに怒りを炭の底に秘めた時の笑顔に似ているが、全く怒った匂いはせず、むしろ愉快そうな匂いを嗅いだので混乱している。

「……ううん」

 ひとつ唸り、左腕を持ち上げ腕を組む格好を作って首を傾げた。ぶわっ、強く湿った風が真正面からぶつかってきて、それを避ける仕草でちらりと目を下方へ向ける。義勇は炭治郎の着物の裾を擦るように弱く動かしながら、すまし顔で目を閉じていた。最近体力が落ちてきたらしく、暑さを避けるためもあってよく昼寝をしている。今日もそうして横になっていたようだ。少し寂しくはあるけれど、無理せずできることを探りながら、のんびり毎日を楽しんでいる義勇を見るのが好きでもある。ただ深刻な困り事がひとつあり、そんな義勇の過ごしぶりが、大変に失礼な言い様だとは分かっているものの、やっぱり猫の子に見えて仕方ないのだった。

 今日も今日とて、あんまり唐突なことを言われたが全く真意が読めない。じっと目を閉じた横顔を観察する。あちこちに散らばる黒い髪、墨を入念に重ねたみたいな睫毛。つんと涼しく尖った鼻に薄い唇。

「何やってる」

 ぱたり、瞼が突然開き蒼い目玉がくるりと炭治郎を見上げたので声もなく仰天してしまった。近い。いつの間にこんなに間近で眺めていたのか。慌てて身を引いて謝る。

「いえ、すみません、何か分からないかなーって……」

 何の謝罪にも意味の通る理由にもなっていない。失礼しました……小さくなる炭治郎を、義勇は口元を緩めて笑う。ここのところの義勇は色んな笑い方をする。

「それで、何が分かったんだ」

 多分だが、からかわれている。特に答えを待つ様子も無く義勇はのっそり起き上がり、縁側に出て雨戸を動かし始めた。慌てて後を追い手伝ったが、恥ずかしいやら申し訳ないやら情けないやら、どんな顔をしていいか分からなかった。

 山で採れた物や道中買った土産を交えて夕餉を一緒にし、風呂を借りたり布団を借りたり一通り騒いだ後。義勇の屋敷には電気が来ているので、部屋には電球の穏やかな光が満ちているが、外は鴉たちの予見通り荒れているようだ。雨戸をばちばちと雨が叩き、ガタガタと風が敷居に押し付ける。ゴロゴロ…と鈍い雷鳴が遠くに聞こえるのはまだいいが、バシインと近くで聞こえてくるとどこかに落ちないか心配になる。昔雷に打たれたことのある善逸は安眠できないだろう。心配だ。俺も心安らかに眠れるか分からないけど。

 炭治郎はいつも皆で借りる居間でなく、義勇の宣言通り義勇の寝間に布団を敷いた。背筋正しく正座しているが、一方の義勇は夜着を一枚引っかけてさっさと自分の布団に横になっている。雨から来る水気でじっとりはしているが、おかげで暑さは落ち着いた。朝方はもしかすると肌寒いくらいかもしれないので、確かに夜着があると良さそうだ。それはいいのだ。全く問題ない。

「あのう、義勇さん」
「何だ」
「俺は、何をすればいいでしょうか」

 禰豆子たちには聞かせられない話か、頼みごとか。とにかく何か理由があって炭治郎はここに居るに違いない。そう思って意を決して投じた言葉だったが、義勇はそれを受け取り損ねたらしい。閉じていた瞼を睫毛の先から引っ張るようにゆっくり開き、炭治郎を怪訝そうに見上げる。

「……寝るだろう。夜なんだから」

 上下に見つめ合うこと数瞬。結局、炭治郎の言葉を拾おうにもどこに落としたか見つけられなかったらしい義勇は、首元の夜着を軽く整え直して潔く目を閉じてしまった。

「そ、そうですね。夜ですからね」

 なんだか炭治郎は要らぬことを考え過ぎていたらしい──要らぬことって一体何だ。分からないけど。安堵すべきか自省すべきか。複雑な気持ちを抱えつつ布団に横たわった。炭治郎は暑がりなほうだから特に掛けるものは何も無くていい。小豆枕に頭を乗せ、夕時見下ろしていた横顔を今度は真横から眺める。

 さっきも無意識にそうした通り、すっと息を吸う。自分でも本当は分かっている。ついつい近くに寄ってしまうのは、この匂いを嗅ぎたいからだ。炭治郎たちが居ることを嬉しく、楽しく、親しく思ってくれる優しい匂い。

「炭治郎」

 どきりと心臓が大きく跳ねたので、その音が義勇にまで聞こえたのではと身動きが取れなくなってしまった。返事がないことを不思議に思ったのだろう。義勇が目を向けてこちらを振り返ったので慌てて返事をする。そう言えば電球を灯したままだった。

「悪いな」
「えっ」

 むしろ炭治郎のほうが悪いことをしていたような気がしていて、しかしきちんと考えればそんなこともないようにも思えるのだが、唐突な謝罪に戸惑ってしまって考えがうまくまとまらない。そんな、と手を振りたかったが上げたのが左腕だったせいでパタリと左手が畳に放り出されて終わった。

「俺は、お前が話すのが好きだ。お前が近くに居るのが、好きだから」

 慌てる炭治郎が面白いのだろうか。義勇は目元を少し下げる笑い方をする。真正面から見てはいけない気がして咄嗟に目を逸らしたが、やっぱりそれは別に悪いことでもなんでもないから混乱は深まる。

「ありがとう。おやすみ」

 炭治郎が何かを捻り出す間もない。顔を正面に戻した義勇は何の未練もなく目を閉ざしてしまう。ちょっと待ってくれ。何か。いつも置いてけぼりだ。こんなんじゃ。

 あちこちに散らばる黒い髪、墨を入念に重ねたみたいな睫毛。つんと涼しく尖った鼻に薄い唇。頬には電球が柔らかく色を重ねる。そっと肘を付いて身を起こし、その横顔を眺め──

「何やってる」

 いつの間にかまた、先ほどより更に近いところに目があった。炭治郎が作った影が蒼を陰らせている。

「な、何でしょうか……」

 その自分の影が映る暗い蒼が気まずい。近い距離が気まずい。いつまでも嗅いでいたい匂いが気まずい。愉快そうな口元が気まずい。逃げるように情けなく後退し、炭治郎はぼふりと小豆枕に顔を沈めるしかなかった。忍び笑いと共に再び告げられたおやすみに、他にできることもなく元気に返事をする。はい!おやすみなさい!義勇さん!

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