文字数: 13,544

夏が終わる



一輪の花で鯨を釣る

 昔、女に騙されてずっと沖に行く漁船に乗せられそうになったことがある。結局、「こんなヒョロヒョロじゃ使いもんにならん」と放り出されて助かったわけだが。その時浜辺に大きな魚が打ち上がっているのを見た。人垣の隙間でよく見えなかったし、べそべそ泣きながら逃げ去るところだったから本当のところは分からないけれど、善逸はそれを鯨じゃないかと思った。ざざんざざん、絶え間ない潮騒の音。鼻を湿らす潮の匂い。人びとの騒めきの向こう、白波を跳ねる太陽の光が鈍色の体を艶々光らせていた。あんなに大きな魚、どうやって釣るんだろうか。そりゃあヒョロヒョロは要らないと言われるわけだと思った。

 今、それを思い出すのは、竹編みの枕に頭を預けて縁側に寝そべる人の姿があの時の鯨を連想させたからだ。鬼殺隊を決して倒れさせない支柱の一人。鯨に例えてもまだ足りない強さを極めた大物。それが今、ぐってり手足を投げ出し苦しそうに呼吸している。はあ……肺を無理やり大きく動かす音。それを聞いている善逸の肺もぎりぎり引き絞られている感じがした。

「すまない」

 話すのも億劫なのか唸るような声だ。布で額と目元を覆ったその顔を、傍らに座る禰豆子が覗き込む。眉の下がった心配そうな表情だ。

「謝ることじゃないですよ」

 丁寧な手つきで布を取り上げ桶にさらし、緩く絞ってまた額に戻す。布が冷える度に少し気が休まるのか、ふうと穏やかな息が聞こえた。すぐにまた苦しそうな音に戻ってしまうのだが。長い脚の先に腰かけている善逸には何もしてやれることもない。

「具合が悪くなったのが一人の時じゃなくて良かったんです」

 暦の上ではとうに秋だけれども、肌に暑さがべったり張り付く夏が続いている。蝉もまだまだ元気に騒いでいるのでうるさくてしょうがない。いつになったら秋の虫にその舞台を譲ってやるんだろうと思う。白い雲の形を目に焼き付ける青空の下、いつもは音もなく現れるこの人は、のっそり現れて玄関の框に座り込み動かなくなってしまった。暑気に中った、大したことじゃないと言うのだが、「呼吸を極めた元柱が暑気に中る」なんて「弘法にも筆の誤り」くらいのことわざになってもおかしくない。真っ青になった炭治郎がとにかく涼しいところへとそれを強引に日の当たらない縁側に寝かせ、氷を買ってくるからと転がるように家を出て行った。一緒に行こうかとこちらが声をかける間を一切与えない。まさに霹靂一閃の速さだった。

「気分が悪くても水をたくさん飲んだほうがいいですよ。まだ飲めそうですか?」
「ああ」
「昔、町のお医者さんに塩水がいいって聞いたのでそうしますね。砂糖も入れて飲みやすいようにしますから」
「ありがとう」
「いいえ、これぐらい」

 弱く笑って、禰豆子は桶を取って立ち上がった。ついでに水を替えるのだろう。手伝おうと立ち上がりかけたが、それより先に「善逸さん、お願いしますね」と押し留められてしまった。

 禰豆子たっての頼み、是非ともお役に立ちたいところだがやっぱりできることは無い。息を潜め、余計に具合が悪くなっていないか注意深く耳を澄ませるくらいか。ぐぐ、ぐぐ、と軋むようにぎこちなく動く肺の音。たった二年でこんなに音が変わるのか。そう思うと暗い気持ちになる。たくさん苦しんで、もがいて、それでも諦めず頑張ってきた人ほど報われないのは何故なんだろうという憤り。過去にそうやって失っていった人たちを思い出す寂しさ。善逸にごく近い、生まれて初めての友だちも近いいつか、こうなってしまうんだろうかという悪い想像。そして、この人への純粋な心配ばかりでない自分が嫌になる気持ち。

「伊之助は川へ行ったのか」
「え……、ハイ」

 考え込んでいて返事が遅れた。暑くて調子が出ないんなら冷たいモンだろ!と野菜籠を抱えて飛び出していった。川で冷やしてくるついで、魚なんかも獲ってくるに違いない。ただでさえじっとしてられない奴だ。慕っている人を前に何もできないのは我慢ならないのだろう。ぼうっと座っている自分がやっぱりどうしようもない人間に思えてくる。

「今年は一度も釣りへ行かなかった」

 ぼそっと呟きひとつ。善逸に語りかけているのか、単なる独り言なのか分からない。この人はそういうふうに話す人だ。

「したかったですか。釣り」

 去年は夏にこの人が来る度川へ行った。というのも、伊之助が最初の釣りで大敗を喫してから毎度勝負を吹っ掛けたからだ。無欲な人ほど釣果が上がるなんて眉唾な話もあるが、毎度大漁なので伊之助は地団駄を踏んでいた。その騒がしさが魚を逃しているんじゃないだろうか。ともかく、大概迷惑しているだろうとばかり思っていたから少し意外だ。

「悔しがるのが、面白いから」

 ん?

 一瞬聞き間違えかと思った。鬼殺隊としてほとんど関わったこともなく、炭治郎から話を聞く限り相当な人格者なんだろうなと思っていた。決戦では決して諦めることなく苛烈に立ち向かっていて、厳格な人に見えた。戦いを終えて炭治郎と共に接する内、鬼を前にしなければ穏やかで静かな人だというのも分かってきた。付き合えば付き合うほど、あれ、ちょっとおかしいな?と思う時もあるにはあったが、気のせいだと流すようにしていたが。

 左腕が重そうにのろのろ上がり、額の布をずらす。ちら、と蒼い目がこちらを見てぎくりとする。柱ってもしかして心が読めたりするんだろうか。

「禰豆子が全然気づかないのも、面白い」

 布が戻され目元がまた隠れる。あんまり穏やかな音なので、普通に相槌を返しそうになった。いや待て善逸。禰豆子が全然気づかない?何に。ちらりと見られたのは明らかに善逸の顔だ。

 そうそう、禰豆子ときたら全く気付かない。一世一代と思って花束を贈ったこともあるが、心の清い子だから花束の後ろにある炭治郎や伊之助をひっくるめた想いまで見通してしまって、恥ずかしさで逃げ散ったことを苦く思い出した。何せ善逸自身も気付いていない気持ちだったのだ。ここに居るやつときたらみんな心がきれいだから困る。善逸の心を澄んだ水面にそっくり映し、嬉しそうに笑ってこられたりなんかして、居た堪れない時がある。

「じゃなくて!いきなりなんですかアンタ!」
「ふ」

 今度は明確に笑った音がした。脚の先、白い顎の向こうで口元が緩んでいるのが見える。人の恋路を楽しむ元気があるなら結構なことですよ!これ以上禰豆子ちゃんの看病は要りませんね!正直メチャクチャ羨ましかった!もう夫の俺が許しませんからね!ギリギリ呪詛を歯ぎしりで磨り潰していると、口がまた小さく開いてぼそぼそと低い声を漂わせる。

「ここに来ると、いつも賑やかで、楽しくなる。また来いと言われたらそうしたくなる」

 きっと炭治郎や禰豆子のことが気にかかっているんだろうなと思っていた。実際そういう音も聞いていたから。あの戦いの果てに残った者たちが少しでも辛い思いをしていないか、苦しい思いをしていないか。もしそれを見つけたら何がなんでも助けてやりたい。善逸にも同じ気持ちがあるからよく分かる。加えてこの人は柱なんて呼ばれていたんだから、責任感のようなものは一際強いだろうと思っていた。四角四面な理由でここへ訪れているのだとばかり信じ込んでいた。

「惜しいな……心配させるだけで、今日が終わるのか」

 苦しそうで抑揚のない平坦な声だが、心底残念そうな音が重なって聞こえる。大人が持つ小難しい憂いの音なんてひとつもしない。

「それで無茶して、チビっ子ですかアナタ」

 驚きを通り越して呆れた気持ちが湧き上がってきてしまった。薄々気づいてきてはいたけど、この人は変な人だ。まあ柱って変な人ばっか集まってたもんな。元柱に対して失礼な物言いだというのは重々分かっていたが、音は穏やかなままちっとも変わらない。ふふ、また愉快そうな吐息。

「善逸」

 唐突に名前を呼ばれて驚いてしまった。そんなはずないと思うのだが、初めて名前を呼ばれたような気がする。思えば善逸はこの人を、何かを隔てたところに置いていたのかもしれない。炭治郎と禰豆子の恩人。柱と呼ばれるまで鍛え上げた才能と努力のある人。あの戦いをどんなになっても退かなかった凄い人。けれど今、気づいてしまった。この人──冨岡さんのほうでは善逸をいつの間にか親しいところに置いている。

 ああ、嫌だな。また悲しくなったり寂しくなったりする。昔は親しい人が誰も居ないことが悲しくて寂しくてしょうがなかったのに。逆になってもこの気持ちが無くなるわけじゃないんだな。

「良かったな」
「……何が?」

 どぶんと暗い海に沈みそうになる気持ちを慌てて引き上げ、ちょっと考えてみたが話が繋がらない。ひょっとして意識が朦朧としているのだろうか。耳を澄ますが音に違いはない。休んだことで肺の動きが穏やかになってきた気さえする。

「あ、帰ってきた。ちょうど二人ともだな。ちょっと見てきます」

 澄ませた耳がついでに二人分の足音を拾ったのでともかく立ち上がった。どっちが先に家に辿り着くにしても、手を貸せる何かがあるはずだ。

「俺も」

 玄関に向かう背にまた呟きがひとつ落ちる。まさか手伝う気じゃないよなと振り返るが、義勇は縁側にへたったまま身じろぎする様子は無い。

「音や匂いで近くに居るのが分かればいいのに」

 これは正真正銘独り言だなと思い、何も答えずに部屋を背にした。善逸や炭治郎のように誰が近づいてきているかまで分からないにしても、気配は鋭く読めるはずだろうに。

 先に家に辿り着いたのは伊之助だったようだ。籠の野菜はつやつや光っているから、きっとよく冷えている。おまけに行きがけには見なかった山菜や夏橙が増えていた。もう一方の籠には案の定魚が跳ねている。伊之助は釣りはからっきしでも籠や槍、手づかみまで使った何でもありの魚獲りになると敵なしだ。禰豆子は夏橙が一番嬉しいようで、きっと気分がすっきりするんじゃないかなあ、とニコニコ包丁を取り出した。食べやすいように切り分けるのだろう。

「善逸さん、ひとまず水をお願いします」
「はあい!」

 調子良く返事をし、水桶と白湯が入った水差しとを手に部屋へと戻ろうとした。足を止めたのは縁側にもう一人帰って来た男が居たからだった。声をかけてそのまま部屋に入ればいいのは分かっているのだが、なんとなく様子を覗ってしまっている。

「どうですか?」
「冷たい」

 氷を買ったついでに氷嚢を作ってもらったらしい。額を冷やしていた布を敷き、それに頭を預けた義勇がほっと息を吐く。

「良かったあ」

 その様を見守る炭治郎の目はひどく優しい。夏空の強い光を遮る軒端の薄暗がりの中、そっと指を伸ばして義勇の額に触れる。濡れた布で湿った前髪を整えてやっているらしい。

「少し伸びましたね、髪」
「じゃあ、お前が切ってくれ」

 間髪を入れずに返された言葉からは、なんとも言えない柔らかい音がする。やっぱり小さい子供そっくりに聞こえた。物を親にねだっているみたいだ。炭治郎にはどんな匂いがするんだろうか。意外そうに目を瞬いたかと思えば、すぐに嬉しげな笑みになり、はいとひとつ調子の良い返事。

「ね、義勇さん」

 囁くような小さな声で炭治郎は義勇の気を引いて、氷の入っているだろう櫃をカパリと開けた。そしてそこから一輪、白い布に黄色い芯が縫い留められているような花を取り出す。

「待つ間、どうにも手持無沙汰で」

 恥ずかしそうに苦笑する炭治郎の指の先を、義勇はじっと眺めている。子供をあやすようにくるりと茎を回されてまた笑う気配。

「花か」
「ええ、花です」
「きれいだな」

 炭治郎は何も答えない。ただ幸せそうに笑っている。目を閉じた義勇の枕元に、炭治郎はそっと花を置いた。まるで花を挿頭しているみたいだった。何故だか見ているだけの善逸が恥ずかしくなって、すごすご土間に戻ってしまった。禰豆子と伊之助が不思議そうに首を傾げている。

 はっきりとじゃないが、分かってしまった。義勇が無理を押してもここに来たいのも、ここに居ることが楽しくて仕方ないのも、善逸や伊之助がいつの間にかその懐に放り込まれているのも、匂いや音で近くに居ることを感じたいのも、一時一瞬が惜しくて時が足りないのも、全部全部炭治郎から始まっている。そしてそれをあの人は「報われてない」だなんて思っちゃいないに違いない。

 あんなに大きな魚どうやって釣るんだろうか、鯨を見た日にそう思ったけれど、鯨に例えてもまだ足りないくらいの人なら花一輪で縁側に寝そべる。一番の釣り上手は炭治郎だな。呆れ半分気まずさ半分、夏橙を手にした禰豆子に背を押され、善逸は元の部屋へと戻ったのだった。

-+=

ご不便をおかけしますが、コピー保護を行っています。