夏が終わる
ぱたりと畳の上に横になったのは、空気がやたらに重く感じるからだ。開け放った障子の向こうの空を見上げる。白い雲が群れたり散ったりしながらゆっくり流れていくのが分かった。風が強い。雲の隙間を掻い潜った陽光が鼻の頭に触れたかと思えば、すぐに離れて薄暗くなる。風と影があるのだから少しくらいは涼が取れそうなものだが、汗ばむ肌にまとわりつく風にはたっぷり水気が含まれていて温い。一雨来るかもしれない。
この十年、呼吸のおかげで暑さにも寒さにもさほど不便を感じてこなかった。これまで当たり前に体をすり抜けていたはずの夏が、いつまでも体の中に留まり毒のように体を重くする。一度ひどく暑気に中ってから尚更それを扱いきれなくなってしまった。ごろりと仰向けになって目を閉じる。息を鼻から大きく吸い、血の隅々まで巡らせ、熱を押し出すようにゆっくりと吐く。狭霧山に居た頃、呼吸の鍛錬で一日が終わったことがふっと頭をよぎった。先生に随分腹を叩かれたな、少し笑ってしまい呼吸が揺れた。
瞼の暗がりの向こう、ざわざわと夏草が風に揺らされる音がする。ツクツクボウシがジーワジーワと鳴く音に、空が薄暗いせいかヒグラシの声が混じっている。チヨチヨチヨ……鳥の声が近いのは寝転ぶ義勇と同じように羽が重いからに違いない。強い風がたまにどっと吹き、障子をガタリと敷居に押し付ける。その度、湿った髪の先が浮き上がる感触があった。
湿気た空気を吸い、夏の熱と共に吐き出す。どっと風が吹き、髪が揺れる。それを繰り返す内、瞼の中の闇にひらりと光が閃いた。ひとつ、風に花びらが舞うように浮き上がると、それに続いて三つ四つ光が増え、あっと言う間に数百に至る。緑を帯びた光にぼんやり照らされるのは無邪気な笑みだ。夏草が突風でなくそよ風にさわさわ揺れる。山の中の川辺は、町と違って風が吹くと不思議と首元がひやりと涼しくなった。コオロギがチリチリ鳴き、蛙が時折ゲコゲコ力強く声を上げる。
「あ」
嬉しそうな囁き声。川辺に腰掛ける義勇の手の甲に蛍が止まったからだ。そっとその手を中空に差し伸べてやると、光を明滅させながら蛍は川辺へ戻っていく。去年の夏だ。どうしてかあの時は二人で並んで話していた。禰豆子と伊之助のはしゃぐ声、禰豆子と二人きりになりたい善逸の奮闘が少し離れて聞こえていたのを覚えている。
「俺、夏に生まれたんですって」
じっと義勇の横顔を眺めていた炭治郎が、不意に呟いてまた嬉しそうに笑みを零した。畳の上で寝そべる義勇は、ああこの話かと思う。こんなに鮮明に思い描けるくらい、俺はこの話が好きだったらしい。
「勿論覚えているわけじゃありませんけど、生まれて初めて嗅いだ匂いは夏の匂いだったんですよ」
炭治郎は胸を上下させて大きく息を吸った。昼間蒸された土の匂い。川の水気に湿った草木の匂い。川藻の青臭い匂い。義勇に分かるのはその程度のものだが、炭治郎はもっと多くのものを嗅ぎ分けているのだろう。
「だからか、夏が来ると懐かしい気分になる。夏が好きなんです」
今思い返しても尚、炭治郎には夏が合うと思う。どんなところに置いても太陽のように明るく、決して陰らない強さがある。きっとそれで夏の強い日差しを思い出すのだ。こういう男が、闇の中を駆けずり回るだけで終わらなかったことは、きっとこの男を知る者全ての幸福に違いない。
「義勇さんは冬生まれなんですか。なんとなく分かる気がするなあ」
これは、冬を好きでも嫌いでもないと言った時の返事だ。一体どういうつもりで「分かる」と言ったのか分からないが、少なくとも悪い意味ではないのだろう。炭治郎はやっぱり嬉しそうに義勇を見ていた。この時はとにかく、炭治郎の大きくて丸い目がずっと楽しげに細められていたから、ひどく心地が良かったのを覚えている。緑色の光が瞳の底を美しく照らしていた。
「夏が終わったら、義勇さんの季節が来ますね」
炭治郎がこう言った時、善逸がおおい炭治郎来てくれえと弱り切った声を上げたのだ。確か、蛍を籠いっぱいに捕まえて灯にするという伊之助の案を全力で押し留めているところだった。顔を見合わせ、肩を揺らして笑ったように思う。
だが、いつまで経っても善逸の声は上がらない。それどころかキャッキャとはしゃぐ禰豆子や伊之助の声もしない。ただ川がちろちろ静かに流れる音、コオロギの声。蛍の明滅。心底楽しそうに細くなる炭治郎の目の光。
「今年は本当に、何もしなかった」
泳ぎも釣りも夕涼みも。体が重く感じられて、あまり出歩かず大人しくしていることが多かった。それまで確実にできていたことが櫛の歯のように明らかに欠けていく。やがて全ての歯が欠けたら、義勇に次の季節は巡って来ないのだろう。
「もう少し、その顔を見ておきたい」
嬉しげだった目が丸く開いて、きょとんとした顔になった。他の時ではよく見る顔だが、この時にこんな表情は見なかったはずだ。炭治郎は少し体を傾けて義勇を覗き込む。何かぎゅっと掴まれる感覚があって肩が揺れた。「右手」が掴まれている。炭治郎の「左手」に。顔を慌てて戻すと、そこには満面の笑みがある。
「じゃあ、早く起きてください」
「あ」
いつかも聞いた、嬉しそうな囁き声。変わらずそこにある嬉しげな笑みに混乱しかけたが、すぐに自分が畳の上に横になっていたことを思い出す。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。畳に触れた後ろ髪が汗で湿っている。
「お邪魔してます」
すぐ眼前にある顔で眉が下がった。気まずげなような、申し訳なさげにも見える妙な表情だ。こちらを覗き込んでいたらしい体がゆっくり起こされたので、ちらりと右腕の先を見た。ちょうど手のあるだろうあたりに炭治郎の左手が置いてある。
「鴉たちが騒いでいたんですけど、どうも天気が荒れそうで。義勇さん一人でしょう。心配になってみんなで来ちゃいました」
ずさり、畳の上で頭を動かし見上げた空は、すっかり灰色の雲に覆われて暗くなっている。木々がざわざわ揺れ今にも雨が降り出しそうだ。遠くでバシンバシンバシン、と小気味良く戸を閉める音がする。もっと丁寧にしないとダメ、とお冠の禰豆子の声が続いた。
ここも雨戸、閉めておきましょう。立ち上がろうとした炭治郎に咄嗟に左腕を伸ばす。
「わっ」
ほぼ立ち上がりかけていたところ羽織の裾を掴まれた炭治郎はよろけたが、すぐに体勢を整えてしまった。仕方がないのでのっそり半身を起こし引く力を強める。
「わ、わわわ、わ……ちょ」
どすん、こちらに無理をさせないとでも思ったのだろうが、案外簡単に炭治郎は尻もちをつく。夢の中でも見たようなきょとんとした表情で、義勇を戸惑いながら見下ろした。
「義勇さん?」
ただじっとその大きな目を、小さな鼻を、白い歯の覗かせぽっかり開いた口を眺める。何も返事ができないのは、特に伝える言葉も加える行動も無いからだ。ただ見ていたい、そう思ったから見ている。そんな義勇をどう思ったのか。何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。炭治郎は大人しく見つめられることにしてくれたようだ。少し気恥ずかしそうに目が伏せられた。
「夏が」
もう立ち上がる素振りはなく、畳に腰を落ち着けた炭治郎は障子の向こうへ目をやった。灰色の雲間から強い風が吹いて炭治郎の髪と耳飾りを揺らす。それを見上げながら、義勇も起こしていた頭を畳へ戻した。だらしなく炭治郎を見上げている。
「もう、終わっちゃいますね」
「好きだから惜しいのか」
瞬きをひとつして、炭治郎はまた義勇を見下ろした。そしてあの夏の日も見たように目を細めて笑う。はい、と答える声の柔らかさに思わず目を閉じた。夏が終わる。けれどもう惜しくない。畳に投げ出した右腕の先に何かがまた触れた気がした。くすぐったさに笑ってしまいそうだ。