燕夏準にも言い分はある。アレンは全く分かってない。
並ぶ大窓からは暖かな陽光が惜しみなく降り注ぎ、秋の冷気が足元に漂う大教室を暖める。正面のスクリーンに映るスライドを淡々と解説する教授のフロウは念仏よりも一定だ。昼一番の講義に臨む生徒たちの多くがほぼ眠りの淵で陥落しかけている。この教授は西門などとは真逆のタイプで、単位の数合わせ程度に考えて群がる学生たちには清々しいほど興味が無い。講義は滞りなくつらつら続く。何かのために確保した時間をわざわざ空費する趣味を持たない夏準もさらさら律儀にメモを取る。
存在は現存在によって明かされようとする。
現存在は「そこに在る」ことを自覚している、つまり人間。
人間は自己への探求、他者との関わりの中で己を理解しようとする。
他者、なんとなくそこでペンを止めた。ちらりと横に目を遣れば、頬を手のひらで不細工に押し潰しているアレンとばっちり目が合った。案の定、手元のノートはほぼ真っ白だ。右手が置かれたあたりに渦巻くメモは100%講義と関連するものではないだろう。アレンの表情は一言で言えばアホ面だ。睫毛にくっきり縁取られた目は、目尻が深く切れ込んでいるせいか普段アレンの顔の印象を鋭くさせるが、今は驚きで丸くなっている。顔を少し傾けると、気まずげに目線が下降していった。
「……なんか今日、ずっと見てないか?」
「自分にも言えることだと気づいてますか? それ」
「夏準が見るからだろ?」
スピーカー越しの声に紛れて素早く囁きを交わし、教授の言葉が途切れたタイミングで仕方なく口を閉ざすが、あまり納得はできない。アンから得た良い情報を吟味するためアレンを観察していたが、朝からもう何度も目が合う。明らかにアレンの方こそ夏準を見ている。
「……またからかってるのか?」
「また、と言いますけど。身に覚えが無いんですよね」
相手を特定するためアンには口止め──もとい、うっかり仲間の秘密をバラすなんてアレンが知ったらどんなにショックを受けるか……と話を慎重に進める提案をしているので、アレンはまだ夏準に対して過剰な被害妄想を拗らせているらしい。
「別にボクは、アレンが誰を好きでも興味ないですよ」
実際はそれなりに興味はあるが、ここでは「こんなことを取り立てて騒いだりするなんて馬鹿らしい」というスタンスを見せたほうがいいだろう。こちらに揶揄する気が無いと分かれば、もしかすると自分から情報を出してくるかもしれない。
しかしアレンの表情は変わらなかった。何もかも抜け落ちたような、呆然とした顔になっただけだ。しかしすぐに眉根が寄って口元がぐっと引き結ばれる。歯痛をこらえるみたいな表情だった。
「そんなこと分かってる」
声を潜めることをすっかり忘れると、硬質なアレンの声はどこでもよく通る。静かな大教室を駆け抜けた言葉へ、教授は白けたように「それは良かった」とだけ返した。目を瞬く者、くすくす笑う者、うたた寝から引き戻された者。アレンはしかめ面を片手で隠してうつむいている。巻き込まれ事故で注目を半身に浴びる羽目になった夏準はため息を吐き出すしかなかった。
そこから会話は無かったが、アレンが依然こちらを意識していることは何となく肌で感じていた。講義を終えた教授が足早に教室を出て行くのを眺めたまま、隣の顔も見ず口を開く。
「何をやっているんですか?」
「……ごめん」
少し待ってみたがそれ以上に釈明は無いらしい。この午後は、2コマ続けて学年の必須科目を取っているアンと1コマ空く夏準たちとで講義が被らない。BAEを成立させるピースは少なくとも後90分は戻ってこないということだ。仕方がない。
「少し歩きましょう」
机にだらしなく伏せていたアレンがぴくりと顔を上げた。散歩と聞いた犬の反応に少し似ている。持ち物を手早くまとめて歩き出すと、ばたばたアレンの音も後に続く。考えというものは時に場所や環境に固着する。相手の考えや気分を変えたい時、場所を変えさせるのは一つの有効な手段だ。教室棟をひとまずは出て、特に目的を決めずに外を歩く。速度を少し落としてやると、奥歯に物が挟まったような横顔が横に並んだ。
「何がそんなに気に障るんですか?」
身に覚えのないことでこんなに過剰に反応されては様子を見るどころではない。アンが懸念していたように楽曲にまで影響が出てしまいそうだ。一度きちんとアレンの認識を確認したほうが良いだろう。ところが、アレンはこの期に及んで唇を小さく上下させるだけだ。直線しかルート取りできないせいで不器用に見えるだけで、基本的には語彙も表現も豊かなほうの人間なのだが。アンの言う「恋が人を変える」という言葉が頭を横切って行った。
「繰り返しますけど、「そのこと」についてボクは茶化した覚えは一切無いです」
「けど」
何が刺激になるか分からないので言葉をぼかすと、何やら大それたことを話しているような気分になってくる。未だに心の奥では筋道立てて話せば5分で終わることなのでは? という疑いが燻っていたが、アレンの眉が深刻そうに寄っているので、一応は聞く姿勢を取る。
「なんか、最近……違うだろ」
「違う? 何が」
「お前がだよ」
アレンが足を止めて夏準に向き直ったので、怪訝に思いつつも夏準も足を止め、瞳にいつも宿る強い光を正面から受け止める。
「近いって言うかさ……いきなり手触ってきたり、そういう…」
「はあ、それがそんなに嫌だったんですか?」
「そういうことじゃないって、分かるだろ」
アレンは苛立ちすら込めて当然のことの如く言っているが、正直全く分からない。それぞれの話が数センチずつズレていくような不快な感覚が拭えなかった。かつてこれ程まで話が通じないことがあっただろうか? HIPHOP語りを一方的に浴びせられる時だって、会話が成立しないにしても言っている意味くらいは分かるというのに。
「お前のほうはどうなんだよ」
「どう、とは……」
「嫌にならないのか?……俺のこと」
頭の中で得た情報をひとまず並べてみる。
──アレンは夏準がアレンの想い人について知ったと思い込んでいる。
──アレンは夏準の行動が普段と違うと考えている。
──アレンは夏準がアレンのことを嫌う可能性があると考えている。
びっくりするくらい関連付けできないし全く筋が通らない。無理やり捻り出してみるが、夏準がアレンの初心なところを軽蔑し、からかったと信じ込まれている、とかそのあたりが限界だ。
落胆している自分の感情には気づかないふりをする。こんなわけの分からないことになるとは。もっと二人の手に触れていたい、離す気にならないという子供じみた願望なんて、やはり外に出すべきではなかった──なんて、そんなことは「燕夏準」は考えないはずだ。触れる機会を多くしたのは、接触機会が多くなった相手が意のままに動くようになる効果の応用。考えを一度無理やり無難な返事に圧縮して口を開く。
「ボクはそんな相手に部屋を貸して一緒にチームを組む物好きってことですか?」
「夏準ならやるだろ。目的があったら。実は結構優しいし」
人がどんな想いで。隣に立ち続けられることをどれほどの想いで。
また胸の内で開きそうになる蓋を思い切り押し込み、こめかみを指でさすりながら息を吐いた。そこは今の主題では無いし、二人が知らなくてもいいことだ。
「……分かりました。このままだと埒が明かないようですね」
スマホを取り出してアンに手早くメッセージを送る。間髪入れずにステッカーが返ってきてこちらはこちらで少し心配になった。戸惑うような表情でこちらを凝視しているアレンを鼻で笑う。
「アンには連絡しました。学校はここまでにして出かけましょう」
「は?」
「どこへ行きたいですか? 言ってみてください。どこでも、車を出して差し上げますよ。今日は特別です」
「な、なんで……急だな」
「迷っている時間がもったいないですよ、アレン。ほら、早く」
「ええ……?」
アレンはしばらく突然過ぎる提案に弱い抵抗を続けていたが、夏準が目的地以外の回答を受け付けていないことを悟ってからは早かった。じゃあ、遠慮なく普段なかなか行けないとこで……と指定されたのは、概ね予想通りの行き先だ。
「これ……!」
ぎっしりレコードの詰められた箱からこわごわと一枚引き抜いたアレンの目は、薄暗い店内でも輝きに輝いている。都心からもメトロの駅からも外れた穴場のレコードショップの店主は、そんなアレンを呆れ混じりの笑みで見守っているようだ。もう一時間くらいは経過しているが他に店に入る者は一人も居ない。
「見ろよ、夏準! これ! オリジナル盤だぞ! あり得るか!? まさか、こんなとこで……!」
聴いてみるか、店主のぶっきらぼうな声かけにアレンは歓声を上げた。震える手でジャケットからレコードを引っ張り出し、盤面の状態でまたひとしきり騒ぎ、プレーヤーに針を落としてからは感極まって泣き出しそうですらあった。
「で、買うんですか?」
「無理だよ。見たろ、値段」
きっぱり答えつつ、盤面のクリーニングを行っている店主をアレンはまだ名残惜しそうに眺めている。そのいつも通りのアレンらしさに、呆れもするし安堵もする。
「いいえ、ボクは必要だと思ったら買いますから。値段を見るということがあまり無いですね」
「そういう奴だった……」
見上げてくるアレンは渋い顔だ。似たような表情だったはずなのに、教室で見たものとはまるで違う。その瞳に宿る遠慮の無さに笑ってしまった。
「触れて、音まで聞けたんだぞ。充分満足だよ。……とりあえず」
「とりあえず」、オウム返ししてみれば目が露骨に悔しげな半眼になった。分かるだろ、とまた目で問われているようだが、もちろんこれくらいなら簡単に理解できる。アレンの必死の痩せ我慢を心底憐れんだ。
「俺はアイツを持ってけるような資格、っていうのかな、そういうのがまだ無いってことなんだと思う」
「なるほど? アレンがその『資格』? とやらを得るまであの子が大人しく待っててくれることを祈っておきますね?」
「お前まさか、また……」
「なんのことでしょう?」
以前、アレンが渇望していた武雷管のレア物レコードを「偶然」手に入れたことがあるが、欲しかった一点物がタイミングを逃して手に入らなかったなんて世の中ざらにある話だ。二度あることが三度あるのも世の常だし、きっとそのことを言っているのではないだろう。
喉元で笑いを転がしながら、少しだけ腑に落ちるところを見つけた気がした。レコードが意図せぬ内にダブルミーニングになっている。アレンがアレンらしく突っ走ったところで、話がややこしくなっているのかもしれない。何かがアレンを不気味に変形させたわけではない。
「もうこんな時間か! すっかり夢中になっちゃって……ごめん」
「大丈夫ですよ。どうせこうなるって分かってましたから」
どっぷりレコードの海を遊泳していたアレンが我に返るまでにはもう二時間が必要だった。見るだけ、見るだけと経のように唱えていたはずだが、引っ提げた袋にはそれなりの枚数が詰め込まれている。店の外に出ればもう既に日は沈んでいた。紫紺色の空の下にはもう既に冬の気配のする冷気が満ちている。
「今からでも、どっか……夏準はないのか? 行きたいとこ」
「ボクですか?」
「ああ。俺だけ付き合わせたんじゃ後が怖いし」
そもそもなんだったよいきなり、などとブツブツ呟いているが、感謝の念の方が勝っていることが簡単に見て取れる。呆れてまた笑みが吐息に乗った。
「ボクはこれまで、アレンの行きたいところへ行って、後悔したことはないですよ」
アレンに出会わなければ、HIPHOPや幻影ライブなんてこの世に存在する音楽や芸能の一種類としか思わなかっただろう。アンと交流を持つことも無ければ、同居人すら存在しなかったはずだ。数々のライブで失敗したことも、成功したことも、Paradox liveに出たことも、誰にも見せるつもりのなかったものを曝け出すことも、絶対に失いたくないかけがえのない誰かも、何も存在し得なかった。
「だから、もう少し普段の過剰な自信を取り戻したらどうですか」
冷たい印象が掻き消える間抜け面が、くしゃりと何かを堪えるような笑みに変わる。そしてアレンはレコードを持っていない腕の肘を夏準の腕に軽くぶつけた。
「過剰じゃないだろ? 俺は天才なんだから」
「はいはい。さっさと曲を完成させてくださいね。天才MCスザクさん」
「あっ! ヤバイ! 夏準!」
狭い路地を抜け、ようやく車が止まれる通りに出るなり、アレンは我が物顔で回ってきた車のドアを開けた。振り返るのは満面の笑みだ。
「早く帰ろう!」
夏準にも言い分はある。アレンの手が誰かの手で埋まって握れなくなったら。夏準がどう考えるかなんて、アレンは全く分かっていないのだ。