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Be smitten with me



 燕夏準は人生の内でひとつ、諦めを受け入れることにした。

 誤解されたくないのは、それは決して負けを認めたのではないということだ。戦略的に、勝つために一度後退することもある。肉を切らせて骨を断つ、というやつだ。打ちひしがれて追いやられたわけじゃない。そうする価値があると思わされてしまった。

 それぞれの好みに合わせて焼いたサニーサイドアップに、ベイクドビーンズやソーセージ。文句を垂れられて朝から気分を害したくはないので、仕方なくアレンの皿にはベーコンを足しておき、サラダには手製ドレッシングを和える。トーストは食べる直前が良いだろう。我ながら今日も味と彩を兼ね備えた完璧な朝食だ。キッチンを出て、まずは僅差ながら難易度の低い部屋から始めることにする。コンコンコン、一応はノックをしておく。武士の情けとか騎士道とかその辺りの精神である。そしてもちろん、返事は無い。ためらいなくドアを開ける。

 一番最後に同居人になったアンの部屋は北寄りではあるものの、カーテンでは抑えきれない光が窓から零れている。早朝から今日も爽やかなジョギング日和だったが、遅くまでバイトに励んでいたアンにとっては煩わしい刺激なのだろう。布団に包まって小さくなっている。

「アン、おはようございます。時間ですよ」

 この程度ではピクリともしないので、ドアノブを握ったまま何度か声をかける。まだちゃんとしてないから勝手に入らないでってば、とドアが開く音だけで起きる日もあるが今日は手強そうだ。仕方なく部屋に足を踏み入れる。

「アン、遅れてもいいんですか? 今日の一限は西門先生でしょう」
「ん゛ん゛ー……」

 ようやく返事になりきれない呻きが返ってきた。苦笑して布団を引っ張ると、また呻き声が上がった。やだあ、とかなんとか言っているようだ。そろそろ起き始めたなと冷静に考えていたところ、芋虫から両手がにゅっと生えた。

「Morning, mate……おきる、からおこして……」
「はいはい」

 差し出された両手を掴むと、そこに宿る熱が眠さを訴えかけてきて笑ってしまった。力ない指の隙間に指を差し入れ、ぐっと引き上げれば、瞼の重そうな顔が布団の海から釣れた。

「うん。その顔、いいですね。かわいいですよ、アン。写真でも撮って、西門先生にも見て頂きましょう」
「絶対ヤダ!」

 カッと目が見開いた。この瞬間だけは夏準も西門の力を尊敬している。本人は全く何のことか分からないだろうが。拗ねた顔のアンを鼻先で笑いつつ指にぎゅっと力を込め更に引っ張る。

「もー、今日も朝から腹黒インケン王子なんだから……」
「その王子様に朝食を分け与えてもらえるだけじゃなく起こしてもらえるなんて幸せですね? アン」
「Woo……hoo……うん、まあ、本当にありがとうとは思ってるんだけど」

 複雑そうな顔をしたアンは素直に引っ張られてベッドから立ち上がった。向き合ってもう一度指先に少し力を入れるとその表情が苦笑に変わる。

「最近好きだよね、それ」
「アンも好きでしょう。ボクの手」
「はいはい。もうぜーったい、離しませーん」

 いたずらっぽい笑みに満足して指を引き抜こうとすると左手だけ逆に摑まえられた。引っ張られて部屋を出る。そのまま特に抵抗せずに居ると、アンが握った手を上下に揺らした。

「これさ、アレンにもやってんの?」
「ええ、まあ。たまに。気づいてないみたいですけど」
「絶対気づかない時狙ってやってるじゃん! ビックリさせたいとかでしょ、どーせ。ホントいい性格してるよね!」
「ビックリさせない配慮かもしれませんよ?」
「ものって言いようだよねー」

 ケラケラ笑いつつ「顔洗ってくる」とアンの指が離れていく。艶良く保たれたネイルを朝の光が輝かせた。笑みでそれを見送り、さて、ともうひとつの部屋を振り返る。

 ビックリさせない配慮というのは、あながち嘘でもないと思う。夏準の胸の内で起きた革命的な変化は、当然夏準にしか分からないものだ。いきなりそれを全て曝け出したとして、アンならまだマシでも、不器用なところがあるアレンにうまく扱いきれる気がしない。一番最悪のケースを想定しておくならば、曲やリリック、更にはBAEの存在自体に影響が出ることだろう。

 ただ、配慮ではあっても遠慮ではない。これは戦略の話だ。

 コンコンコン、一応のノック。間髪入れずにドアを開けた。相変わらず物で溢れる部屋にうんざりしつつ、布団の山に近づいた。寝る間際まで何か着想があったのか、ベッドにまでノートとペンが広げられ頬に潰されたページの隅がぐしゃりと折れている。にわかに信じがたいだらしなさだ。いつもの光景なので最早驚きもしないが。

「……呑気な寝顔ですね、アレン」

 鋭い印象のある目が閉じられていると、アレンの顔には幼さが増す。すう、すう、安らかな寝息を繰り返している鼻をひとつ摘まんでやると、んがとしかめ面で口が開いて笑ってしまった。人の気も知らずに。

 昨晩もアレンは夏準に全く気が付いていなかった。ネットで買ったのだろうレコードをコンシェルジュから受け取っていたことを思い出し、部屋に届けてやったのだが。デスクに前のめりになって編集ソフトの画面を睨みつけていた。ヘッドホンに塞がれた耳には絶えず試行錯誤が流れているだろう。レコードをその辺に放って置くことも考えたが、受け取ったことにも気づかずに埋もれていきそうだ。明日の朝に改めてやるのが親切だろう。

 すぐに部屋を出ていこうとして、いたずら心が出てやめた。逆に部屋に入り静かに扉を閉ざす。そっとすぐ隣まで近寄ってみてもアレンは全くこちらに気が付いた様子が無い。もしこれがサイコホラーだったら最初に死んでいるな、などと思っていたのだが。

 アレンがふと、MIDIキーボードをさりげなく右に寄せた。そして左手がデスクの上にただ乗せられる。アレン? 思わず声が出たがやはり返事は無い。ヘッドホンから僅かに音楽が洩れているのが聞こえた。

 ここのところ夏準が気に入っている習慣に、アレンは意識では気づいていない。だがどこか別のところでそれを認識しているのかもしれない、と思うのは都合のよい考えだろうか。そっと指を添わせても、手のひらをその甲に重ねても、アレンの手は行儀の良い犬のように大人しい。時々、リズムを刻むために上下する指の振動が心地良かった。誰かのために、一人分の場所を横に作る。アレンはそれを意識せずに呼吸のようにやっている。アレンはきっとそれを夏準だと思わずにやっているのだろう。けれど、夏準はアレンとアンでなければ駄目だ。

 それこそが、先日情けない醜態を晒した一件から得た「諦め」だった。BAEはただの最善手、そう言い聞かせて自分の心を懸命に守ろうとしていた。だが、理性と感情は全く一致せず、夏準が命よりも惜しんだのは二人との時間と、二人からの信頼だった。二人に救われた命で、その感情を受け入れることにしたのだ。

 もう隠さないし、妥協も言い訳もしない。好きなように表すし、行動もする。だがリスクだけ負うのは性分ではない。持てる全てを使って引き寄せて、離れる気なんて起きない気にさせてやるつもりだ。

 ふ、と知らず笑みが唇の隙間から洩れていた。

「笑えてきますよね」

 どんな本にもアレンとアンの攻略方法はない。二人が夏準の手を離すことを彼らの考えとして決めたとしたら、きっと夏準には阻めない予感はあった。これまでの人生でこんなにも難しいことがあっただろうか。二人の手を離さないでいるために、何ができるかいつも考えている。これまでにない程みっともなく、途轍もないリスクを負って。けれどその感情がどうしようもなく心を満たしてもいた。

 手をそっと引き自分の口元に当てた。まあ二人になら粉々に壊されたっていいだろう。それは諦めた。ただ、この燕夏準の本気から逃れられれば、の話だが。

「……起きませんね」

 さて、今はとにかくアレンを起こす必要がある。意識を早朝の部屋に戻し、鼻を摘まんでも口から吐息とよだれを垂れ流す寝顔を無感動に見下ろした。少し考えて、エプロン越しで口元に手を伸ばす。

「まあ、口も押さえればさすがに起きるでしょう」
「全然出てこないと思ったら殺人現場だったんだけど……」

 タイミングの良し悪しの判断は保留として、ドアから顔を覗かせたアンに、夏準は爽やかな朝に似合う笑みを返したのだった。

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