夕方六時過ぎの雷雷軒。平日だったら、帰宅途中のサラリーマンや学生が気まぐれ営業に遭遇できたことを喜んで、店内は満員になっているだろう。だが日曜日の夕方となれば客足は遠い。休日で駅を利用する人は少なくなるし、日曜日の駅前の商店街は閉まる店もあって、少し寂しくなるからだろう。無理のできない響木はだからこそ店を開けているに違いない。
今その静かな店内には、ラーメンを啜る音と器を匙が叩く音だけひたすらに響いていた。円堂のあまりの食べっぷりに、その両脇を挟む鬼道と風丸は声が出ない。響木ですら呆れた様子が窺えた。
「なるほど、体調不良……では、なさそうだな」
「むしろいつもより食ってる感じだぞ、これ……」
「へっ? はひが?」
「円堂、とりあえず飲み込めって」
風丸が氷水の入ったグラスを差し出せば、円堂は素直に受け取って口を付けた。ごっごっと喉を鳴らして飲み干し、タンと小気味の良い音でグラスを振り下ろす。ぷはあ、とどこか間の抜けたため息つきだ。落ち着いたのを見計らって風丸は口を開いた。
「お前と同じクラスの奴から聞いたんだよ。最近、円堂がおかわりもらいに行かないって」
「考えてみれば、マネージャーの差し入れにも最近はあまり反応がないな。あのマネージャーの差し入れに、だ」
大事に思っている妹もマネージャーとして立ち働いているのだ。鬼道の視線は鋭い。だが円堂はそれに気づいた様子もなく、気まずげに笑うだけだ。
「なんだあ、それで急におごるなんて言ってくれたんだな」
「なんだってことはないだろ」
「妙に大人しい、なんて話も聞いている。何かあったんじゃないのか」
「少林はキャプテン風邪引いてる! とか騒いでたぞ」
両脇から畳みかけられた円堂はますます気まずそうな笑みだ。眉尻をぐっと下げた顔は捨てられた子犬に似ている。風丸と鬼道はひとまず乗り出していた体を元に戻した。
「別に、体はなんともないんだ。家だと絶対おかわりしてるし……こんな時に絶対、風邪なんて引けない。引かないさ」
今はまさにフットボールフロンティアの真っ最中だ。これは最後の中学サッカー公式試合になる。この後には引退が待つだけだから、「雷門中」としての次はない。その覚悟を円堂はどの三年生よりも背負って立っている。それは風丸にも鬼道にも分かっているのだ。何も言わず、続く言葉を待つ。
「ただ……その……今、豪炎寺と同じ班なんだよ」
予想外の言葉だった。あまりに予想の外にあったため、しばらくは誰も言葉を発さなかった。部活中、二人が揉めている様子はまるでなかった。どちらも根は素直だから、ごまかしていたらすぐに分かる。
「……それが」
なんとか言葉をひねり出せたのは鬼道だった。円堂は珍しく歯切れが悪い様子でとつとつと語り始めた。先週の雷雷軒での出来事、それからどうにも食事の時だけ調子が狂うことを。
待ちに待った給食時間、ワクワクしながら机を移動して、トレーを前に手を合わせる。例えばその日は唐揚げだ。なんとなく量が少なく感じることだけが欠点の、永遠の人気メニューである。キツネ色に混じる白い衣があのサクサクした食感を思わせる。教室中に広がる揚げ物の匂いが早く早くと箸を急かしているみたいだ。いただきます、と手を合わせたところで。ふと思い出す。慌てて右隣を確認すると、豪炎寺はやっぱり笑っている。あの顔で。呆れたようで、でも優しくて、柔らかい珍しい笑みだ。それを見るとどうにも、騒がしい給食時間が静かになってしまった気がする。そのくせ体中の血が流れていく音はこれでもかというほど大きい。
「そんなに好きなら分けてやろうか。一個くらい」
「えっ、いや、いいいい! 食べろよ」
「……そうか」
笑みが消えて、手を合わせた豪炎寺が静かに箸を取った。豪炎寺は物音をあまり立てないで食べる。さくり、と唐揚げを箸で一口大にして、小さく開けた口に押し込んだ。手元に向いている目は伏目で、睫毛がかかっている。きれいだな、と思った。なるべく真似しようと試みるが、どうにも自分が豪炎寺と同じようにできているとは思えないのだ。それがどうにももどかしい。
長い沈黙ののち、まず動いたのは響木だった。気まぐれ営業で何を言っているやら、仕込みがあるなどと呟いて奥に引っ込んでしまった。大人は大抵の場合ずるい。仕方なく、残された鬼道が肺の空気を全て吐き出した。分かっている。風丸には荷が重いだろう。
「状況は分かった。円堂」
「ほんとか! 鬼道! さすがだなあ!」
「お、おい鬼道……」
一体何を言ってしまうつもりなんだ。風丸の表情には太字マジックでそう書かれている。鬼道は安心しろとアイコンタクトを送ってやった。ラーメンでなくチャーハンを食べたのだ。ゴーグル曇り対策は怠っていないから通じただろう。
「今の話をまとめると、だ」
「おう!」
「円堂は豪炎寺が見ていると思うと、思うように食べられなくなる。そして豪炎寺を見ていると自分よりも食べ方がきれいだ。しかもだ。まるで弟でも見るかのような目で見られたことまである」
「うんうん!」
「つまり……お前は自分の食べ方が恥ずかしいだけだ!」
「そ……」
円堂が静止している。ついでに風丸も鬼道を凝視して動かない。鬼道の言葉を整理しているのだろう。どこに結論が落ち着くか。賭けでもしている気分だ。
「そういうことだったのかー!」
円堂の表情はみるみる内に明るくなった。どうやら賭けに鬼道は勝ったらしい。安堵を口元に滲ませつつ追撃をかける。
「そうだ。だが安心しろ。これでもあらゆる帝王学を学んだんだ。俺が空いた時間にテーブルマナーを見てやる」
「おお! ありがとな! 鬼道!」
これで家で食べ過ぎって怒られずに済むな、上機嫌の円堂の言葉から察するに、給食時間に摂り損なったエネルギーはきちんと家で補っているらしい。そもそも円堂は、おかわりをしていないだけあって、きちんと一人前は平らげている。ひょっとして心配損だったのだろうか……むしろヤブヘビってやつだったんじゃ……円堂はもうひと練習、と意気揚々で鉄塔広場に向かっているが、後に続く風丸の表情は円堂と対照的に晴れない。
「なあ鬼道、俺たち、あれで良かったのか……?」
同じくしかめ面の鬼道は両手の人差し指をそれぞれ立てた。それから、その指先どうしをくっつけてひとつの線にしてみせる。
「一年でかなり成長したが、元々、円堂は感情とモチベーション、技術までもが直列つなぎのプレイヤーだ」
まあ俺たちの年で並列でやれるヤツなんてそういないが、続けながら鬼道は指と指とを離して今度は並べている。
「どう対処していいか分からないことがあると、プレーに影響する可能性はある。実際、そういうところをつつかれたこともあるだろう。だが……原因が分かっていれば回避は簡単だ」
「納得するような答えを見つける手助けをすれば……ってことか」
「そういうことだ」
満足そうに頷いて鬼道は広げていた腕を組んだ。円堂はすっかり数十メートル前に出て軽い足取りだ。
「ただ、あいつ自身が違う答えに辿り着いたとしたら……」
「と、したら……?」
違う答え、というよりは「正解」になるのだろうか。何が正解かは誰にもわからないが、まるで考えたこともない事態である。不思議なほど嫌悪感は湧かない。ただ、だからこそ心配する気持ちも大きい。
「どうなるんだろうな」
「どうなるんだろうなあ……」
選手分析に長けたゲームメイクの天才も、長年の歴史のある幼馴染も、こればかりは分かりようもなかった。