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「もう桜も終わりか」
湿った無遠慮な風が疾り、桜はただ力なく花びらを散らしていく。足元には土に汚れた花びらが降り積もっていて、昼に誰かが掃けば季節は梅雨へと移っていくことが容易に窺えた。
桜が散る、というのは、何か「ことの終わり」を見る者に想起させる。自分でも何を感傷的なことをと思いつつも、見上げた空も無愛想な灰色で埋め尽くされている。朝陽の見えない一日の始まりというものは、何とはなくとも気が重くなるものだ。
「そのようだ。少し庭が寂しくなったように見えるな」
独り言に返事があったことに驚き、跳ねるように身を翻してしまった。数多の刀剣が共に暮らすこの城にあって、それをすっかり忘れたような間抜けな反応だ。居た堪れなくなり一期は少し目を伏せた。
しかもその返事の主がよくないのだ。一期の考えを見透かしたような緩やかな笑みがよくない。淀んだ曇天の下にあっても凛と空気を研ぐ気配がよくない。一期は実のところ、この三日月宗近という刀が苦手だった。時折、この刀と自分は、何か違うものを斬ってきたのではと疑ってしまう。
「おはようございます」
「うん、おはよう」
さら、さら、衣擦れの音と共に三日月は一期に近づいた。そしてその隣で当然のように立ち止まり、一期の周囲の空気も漆のように艶やかな一色で染め抜いてしまう。そのくせ、素知らぬ笑みで桜の木を見上げるのみだ。風が吹いた。桜がまた散って、目線の先の黒髪のあたりで弾ける。
「何か、私に?」
あいさつでは済まない気配に戸惑いを滲ませて問えば、きょとんと丸い瞳が返ってきた。笑みも渡ってきた時間も取り落としてしまったその表情はどこか幼い。戸惑いを深めていると、くすり、空気が揺れた。細められた目が、また桜へ戻っていく。やはり言葉はない。ただ、吸う空気が、吸い込んだ空気が、全て塗り替えられていくことだけを感じている。ふう、と細くため息を吐いた。
「驚かしてすまなかったな」
「はあ、いえ。こちらこそ、お恥ずかしいところをお見せしました」
「桜を見ると、何か…懐かしい心地がしてなあ」
「何か、とは記憶でしょうか」
記憶、という言葉を吐き出す声は、自分でも思う以上に赤茶けて土に汚れている。落ちてしまった花びらが、後は土に還るほか無いように、それは一期にとってひとひらの「ことの終わり」だ。
三日月は、いつもの伸びやかな声でそのようだ、と返した。一期から何かを気取った感はない。
「いつかの主について…あれはいつだったか…じじいになると、どうにもいかん」
ふ、と空気がまた笑みに揺れた。一期の反応を窺うように三日月は僅かに首をかしげている。つられるようにして一期も笑みを返してしまった。
「どこもかしこも桜とおなごだらけで…ああ、そうだ」
喜色を隠さずに表情に浮かべ、三日月はゆったりと一期へ体の正面を向ける。不思議なことに、あんなに強く吹いていた風を、このひと時まるで感じない。
「そうだ、そうだ…それで。俺はお前が好きだった」
息が詰まっている。動けそうにもない。はっはっは、と伸びやかな笑い声が響いて、桜はまた舞っている。どこかで朝餉だとはしゃぐ声がした。わけもなく焦燥ばかりが鼓動と共に走る。
「桜が散った。じきに夏が来るなあ」
三日月が腕をすっと伸ばして、翡翠色の若葉をつけた桜の枝に触れた。いつの間にだろうか、あんなに空を埋め尽くしていたはずの雲が割れて、かすかに朝陽が下りてきている。
一期もいる夏か、月夜を秘めた瞳を細めて、三日月はいつものように緩やかに笑う。やはり、この刀はよくない。
いちみかワンライ「フリー」