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(100-99)% (十星)



 鼻先に朝の気配を感じて、目を開けた。根付いた習慣が何の苦もなく遊星の身をベッドから起き上がらせる。まだ薄暗い部屋の、黎明をひそかに透かすブラインドを眺めながら今日一日でやろうとしていることをまとめる。そうして体に追いついていない脳の覚醒を促すのだ。次第に脳細胞が活性化してきたのを感じてベッドから出る。夜のひやりとした残り香の中着替えを済ませ、ブラインドはそのままに部屋を出る。二階に降りて、湯を沸かしているうちに身繕いを済ませる。パンとコーヒーの簡単な朝食を食べ終えてもまだ陽は昇らない。寝坊がちの太陽を待つ、白んだ紺色の空を窓から眺めた。あたりは静かだ。階段をのんびりと降り、体を軽くほぐし、D・ホイールにかけたシートを取り払った。広々としたガレージをたった一台だけで占有する愛機は、いつもと変わらず遊星を大人しく待っている。それを押してガレージから出て、遊星は夜明け前の街を走り始めた。歩道も車道もひと気のない快適なコースを進む。体中に風を感じるのはやはり心地良い。ハイウェイから公道に降りる途中、日光がやっと東の空に手をかけて起き上がろうとしているのを見た。街のすべてに陽があたり、影ができる。ありきたりな光景だが、ありきたりは平和という土台が無ければ成立しない。いい気分でガレージに戻った。シャッターを上げ、日光を浴びながら愛機の洗車を始める。次第にあたりに人の気配が充満し始めるのを肌で感じた。噴水広場付近は住宅が多いので、朝と夕方、休日は特に賑わう。子供の声がいくつか、近づいては遠のいていく。

 洗車を終えてガレージに愛機を戻した。一階を吹き抜いている構造上、ガレージ内はどうしても薄暗い。頑丈な造りが静寂を守ってもいる。つくづく、一人には広すぎる空間だ。しかし広い空間があるのはいいことではある。誰かがいくら転がり込んできても困ることはない。もちろん、見知った誰かがいくら帰ってきても問題なく受け止めることができる。

 買い集めているジャンクを放り込んだ箱の前に椅子を置き、部品をより分け、状態を確認して選別する。どうせなら全く新しい何かを作るかと考え、しかしまだ具体的な何かが決まっているわけでもなく、最近の休日はほとんどこうして過ごしている。休日と言っても決まった日数が割り当てられているわけでもないが。ネオ童実野を技術面でバックアップする、顧問などという大層な役職を押し付けられたはいいが、やっていることはほとんど市長やセキュリティ、MIDSが困った時に泣きつかれる雑用のようなものだ。それでも自らの手でこの街がまたひとつ変わっていくのを手助けできるのは楽しく、病みつきになる。遊星の毎日は充実していた。

 しかしふと、何をしていてもふと手が止まる時がある。そういう時に考えているのは大抵仲間たちのことで、そんな自分に苦笑してしまう。強がる気はない。自分や誰かを責める気もない。ただ、遊星はやはり寂しく思っているのだろう。

「情けないな」
「何が?」
「いや、みんなを送り出しておいて……」

 ついまともに答えてしまってから、はたと気づく。つい先ほどまでこのガレージには遊星しか居なかったはずだ。人が入ってきた気配も無かった。しかもこんなに間近で声がするとは。体ごと背後を振り返る。視界いっぱいに薄紅が広がった。一瞬、何か分からず戸惑う。桜だ。薄紅が淡く色づく五枚の花がいくつも、枝に沿って咲いている。

「久しぶりだな」

 遊星のその反応が気に入ったようで、差し出された枝の向こうから笑顔が出てきた。しかしそれは遊星の驚きをより大きく深くするだけだ。何故ならそれは、この場に気安く現れるはずのない顔だった。爛々と光る茶色の瞳をまじまじと見つめる。

「十代さん……?」
「やるよ。これ」

 眼前にあった桜の枝が手元に押し付けられたので、反射で受け取る。ネオ童実野の桜並木はまだどれもつぼみだった。一体どこの桜なのだろう、ひょっとして過去のものなのだろうか。今年の春は寒い。いや、そんなことを考えている場合ではない。

「一体どうしてここに……! もしかしてまた世界に危機が迫っているんですか?」

 驚きが考えより先に出していた自分の言葉にハッとして姿勢を正した。しかし今遊星の腕の中にある桜の花はあまりにのどかだ。十代には焦った様子はない。ひょっとしてこれは遊星の白昼夢なのか。とうとう自分の正気を疑い始めたところで、十代はふっと目元と口元を緩めて笑った。

「野暮だなあ」
「は、……?」
「お祝いだよ。お祝い」
「お祝い……ですか……?」

 しかし遊星には時をわざわざ超えてまで祝ってもらえるようなことに覚えがない。考え込む遊星を、物分りの悪い子供に言って諭すように十代は覗き込んだ。

「そう、あとはお疲れさんってとこかなあ」

 覚えがないはずなのに、十代に言われると妙に腑に落ちるような感覚がする。じわりと心に染みて、何かひとつ大きな荷物を降ろしたような気分になった。どんな表情をすればいいかも分からない。

「意味は分からないが、心では分かっているような……不思議な気持ちです」
「うん。オレもそうだよ」

 十代は遊星に何かを急かすでもなく笑みを崩さないでいた。よく見ればハッキリしたクセのある顔立ちをしているのだが、十代にはそういう柔らかい表情が不思議と合う。

 周囲を確認すれば、大所帯の名残で椅子はいくつでも目についた。自分だけ座ったままでいるのも気まずい。粗末なものではあるが十代に勧めた。

「ありがとな」
「十代さんは、どうやってここへ」
「まあ……ちょっとな。精霊界とこっちの世界じゃ流れてる時間が全く違うんだ。だからうまくいけば時を超えられるんじゃないかって……思いついちまったらできたってわけだ」

 遊城十代、デュエルモンスターズの精霊の力を自在に使うことのできる過去のデュエリスト。一瞬の奇跡から断片的なことを知っているだけに過ぎないが、それでも尊敬に値するデュエルを持っていることだけは確実に知っている。

「あなたはやっぱり……すごい人のようだ」
「よせよ。ただの無名デュエリストさ。それに、キミの方がすごいじゃないか」

 呆けたような遊星の言葉を苦笑で一蹴し、十代は遊星をひたと見つめた。すごい、と言われても遊星にはピンと来ない。十代を前にしていると尚更だ。

「街で遊星のこと知らないかって聞いたら、すぐここが分かったぜ」

 みーんな知ってんだぜ、十代は感心した様子でしきりに強調している。なんだかそれがおかしい。と、同時にくすぐったいような気恥ずかしい思いだ。その「すごい」なら、確かに多少の自負はある。

「オレがこの街にいることがこれまでもこれからも変わらないからでしょう」

 途中だった作業をもう切り上げることにして、桜の枝を一旦膝の上に置き埃と油で汚れた手をタオルで乱雑に拭き取る。せっかくの客人だ。茶ぐらいは出そうと立ち上がったところで声をかけられた。

「それで、何が『情けない』んだ?」
「え……」
「何か言いかけてただろ?」

 覚えていられたことに少なからず驚くが、十代には何の気負いもない。気になったから聞いただけ、目がそう語っている。しかし遊星は言いかけたその言葉を、この尊敬すべきデュエリストにこぼしていいものか迷った。

「聞いちゃマズかったか」

 遊星の反応があまりにぎこちないからだろう、十代はばつの悪そうな顔をする。慌てて椅子に戻った。そんな大それたことではないのだ。ただ、誰もいないからこそ自分のだめな部分の塊が零れ出てしまったような気がして、それを十代に聞かれたことがどうにも恥ずかしい。

「……仲間たちはみな、自分の未来に向けて歩いて行った。オレはそれを自信を持って送り出したんだ。だが、オレは前に進めているだろうか。時々、そう考える。それが、情けないと」

 十代は遊星の言葉に安直な反応を返したりはしなかった。思案するように目を伏せ、それからわずかに首を傾げる。

「キミはもう自由だ。別に今まで自由じゃなかったってわけでもないけどさ」

 十代が、言葉が届いているか確かめるように遊星と目を合わせる。慎重に言葉を選んでいるのが静かなガレージの空気を透して伝わってきていた。頷く。

「振り返る道は一本しか無いけど、前には無限の道がある。それは仲間もオレたちも変わらないはずだろ? だから好きなことを好きなだけして、好きなように生きていけばいいんだ」

 十代の言葉は、遊星の吐き出した思いとは一見関係のない話にも思える。しかし、それは反芻するごとに確かな実感を持って遊星の心を軽くした。思わず、己の胸のあたりに手を当てる。

「不思議だ。なんだか……とても、納得させられている」
「そりゃあオレは、時代で言えば先輩だからな」
「……ありがとうございます、先輩」
「いーや、後輩の力になれて嬉しいぜ?」

 おどけた様子に合わせて笑うと、十代も嬉しそうに歯を見せて笑った。そして、遊星の片手にある桜の枝に軽く触れる。

「会わなきゃなあって思ったんだよなあ、これ見てると。会えて良かった」

 コップか何かに生けていればしばらくは枯れずに咲いているだろうか。遊星はこの儚い花が散ってしまうのをとても惜しいと思った。

 蝉の声がガレージの高い屋根にまで反響して響く。うす暗いガレージから、開けたシャッターの向こうのスロープを見ればまるで別の世界だ。光量がまるで違って、何の変哲もない道が白く光っていた。昼過ぎ、太陽の光も、その熱も、蝉の合奏もピークを迎えている。趣味で着手している新たなD・ホイールのそのフレームすら曲がってしまいそうだ。息を吐き、額を拭ってグラスを掴む。麦茶の中で氷がカランと躍った。茶色が窓からの光で淡く透き通っていかにも涼しげだ。テーブルにグラスを戻し作業に戻ろうとしたが、後方でまたカランと氷が鳴って手が止まる。勢い良く振り返った。

「っあー、どの時代も夏は暑いもんだな。もらったぞ」
「……っ十代さん!」
「お前顔、汚れてるぜ」

 全力で驚く遊星が面白いのだろう、十代は楽しげだ。慌てて顔を拭いながらも、遊星は少し不本意な思いを抱えた。本来ならこんな奇跡、二度あることが三度もあるような簡単な物じゃない。驚いて、喜んで何が悪いというのか。しかし力を込めて口元を引き結ぶ遊星が十代は益々面白いようだった。

「元気してるかなって思ってさ。どうだ」
「オレは……見ての通りです」
「そりゃあ良かった」

 くっくっく、とついには喉を鳴らして笑い始めた十代に非難の視線を送る。汚れた機械油はなかなか落ちない。さぞ愉快な顔になっていることだろう。ジャンクや機械に触れる時、我を忘れて没頭するのは悪い癖だという自覚はある。一度目に出会った時はとにかく明るく強く輝いているイメージだったが、二度目に再会して少しイメージが変わった。時代も背景も全く遠い人のはずなのに、なんだか少し近い寄り添ったところに十代を見ている気がする。

「キミ、暑くないのか?」

 考えに沈みかけていた遊星を引き上げるように十代が覗き込んでくる。ジャケットを腕にまとめ、シャツの袖をまくり上げている十代はかなり暑さに参っているようだ。手で風を送ろうとしているが、恐らく効果は無いだろう。

「暑くないわけじゃないが、ここは陽も当たらないし……慣れですね」
「信じらんねえ、オレは最近、涼しいとこばっかりだったからなあ」
「どこへ行っていたんですか」
「色々だな。最近はまたヨーロッパの方」

 初めて十代と出会ったのもそう言えばヨーロッパだったか。最近歴訪した箇所を指折り数えている十代に驚く。基本的にネオ童実野から出ることのない遊星には想像もできないほどバラエティーに富んでいた。聞けば、デュエルモンスターズの関連した事件を聞きつけて駆けつける内、自然と世界を渡り歩いているらしい。興味を隠さない遊星の好奇心をうまく刺激しながら、十代は道中のあれこれを語って聞かせてくれる。

「キミもたまには旅行にでも行ったらどうだ?」
「そうですね。……だがネオ童実野の夏も、悪くはない」

 十代は遊星の言葉を呆れるでもなく、素直に受け取ったようだった。ひとクセある人だが、決して斜に構えたところがない。年齢は近いと思うのだが、十代は時折子供のようだ。

「ちょうど今日の夜、毎年恒例の花火があるんだ。良かったら見に行きませんか」
「花火か! いいな!」
「花火も随分進化している。きっと驚きますよ」

 まだ昼過ぎだが、デュエルをしていればあっという間に夜だろう。春に再会した時もそうだった。

 花火には人が多く見物にやって来るから、部屋の窓から見えれば見ようというくらいの気持ちでいたのだ。しかし見に行くと決めれば妙に浮き足立ってしまう。十代にまでそれが伝わってしまっている気がして、落ち着こうとするのだがどうにもうまく行かない。人のことを子供のようだなんて言う資格は遊星には無さそうだ。夕暮が西の向こうでくすぶり、夏の長い昼もやっと終わろうとしている。既にざわめきが感じられる広場に出た。人々の流れに沿って川辺までのんびり歩く。むっとした湿気も、夜の風が流れれば多少は過ごしやすい。見やすいポイントや露店の立ち並ぶ通りには人がごった返していた。何度か互いを危うく見失いかける。

「十代さん?」
「いや」

 姿を探すと、十代は背後で考え込む素振りだ。無いよな、と突然聞かれて戸惑うが、勢いに押し切られてそうですねと答える。ドン、その時背後で乾いた音が空気を震わせた。前方に向き直れば光の粒がネオ童実野の夏を明るく彩っている。間髪を入れずに様々な色と光が夜を縫った。人々の流れが緩やかになる。

「うん、きれいだ」
「はい、オレはこれを見るととても誇らしい気持ちになる」

 丸められた瞳に花火をそっくり映す横顔に視線を送る。すると、十代も遊星に目をくれた。何か言おうとしたようだが、新しい花火に一度気を取られている。

「お前って、」

 言ってから、それがあまり良い表現だとは思わなかったらしい。十代は口をつぐんだ。遊星のことは「キミ」と呼び続けていた十代だ。しかし遊星にとっては些細なことである。首を振ると、十代は口元に笑みを刷いて夜空に視線を戻した。

「お前って本当に好きなんだなあ」
「はい」

 何が、と言わずとも分かるのが、分かってもらえるのが妙に嬉しい。それは相手が時を超えた偉大なデュエリストだからだというのはもちろんだ。だが今は、それだけではない気がしている。

「こんなにきれいなんだ。見なきゃなあ、そう思うのも仕方ないよな」

 ブラインドが線で区切って作る一枚の窓絵は、ネオ童実野にしがみつこうとする燃え上がるような秋の夕日だ。昼はまだ暖かいのだが、陽が傾いてくると肌寒い。遊星は椅子に引っ掛けていたジャケットを羽織った。パソコンのディスプレイから目を離すことで、薄暗い部屋をようやく知覚する。デスクのライトにスイッチを入れた。手元がぱっと明るくなる。それが思いの外疲れていたらしい目を攻撃した。痛む目を手で覆って目を閉じた。

「忙しそうだな」
「っ、!」

 体を跳ねてぱっと顔を上げると、机に手が置いてディスプレイを覗き込んでいる人が遊星を見下ろしてしてやったりと微笑んでいる。遊星は止めていた呼吸をゆっくりと吐き出した。瞬時の緊張状態から解放された体が弛緩する。

「……いつも驚かされてばかりだ」
「驚かしてんだよ」
「一体どこから……いつも気配を感じない」
「オレは精霊界を通じてここに来てるんだぜ? お前の大体の居場所はもう分かってるんだ。後は『これ』があればいいってことさ」
「なるほど……」

 『これ』──触れられたデッキケースを眺めつつ相槌を打ってはみたが、感覚的にしか理解できない話だ。そもそも精霊界の不思議な力について人間界の物差しで測るのは無茶というものだろう。特に今の遊星には赤き竜の力も無い。だが、見知らぬものを見れば構造を知りたくなってしまうのが遊星の性質だ。

「難しく考えてもしょうがないだろ? そうなってるんだよ」
「……それもそうですね」

 しかし今はその問題について長々考えている余裕は無いのだった。後でまた考えることにする。十代が不思議そうな顔で画面の中のコードを眺めている。

「今は何をしてるんだ?」
「頼まれ事です」

 セキュリティが大規模なサイバー攻撃に見舞われたのがつい先月のことだ。遊星たち技術者が力を結集したこともあって、騒ぎは比較的速やかに収束した。しかしこの事件が社会に与えた影響はあまりにも大きい。これを契機に国家規模で情報管理の見直しが行われることになり、遊星は極秘に新システムの開発に加わっているのだった。極秘ではあるが、十代は信頼できる、しかも過去のデュエリストである。少しくらい画面を見られても構わない。

「急がなきゃまずいのか」
「何か決まりがあるわけじゃない。が、早い方がいい」
「そっか」

 その時はたと気がついた。ここ数週間その仕事に没頭しているとは言え、十代はめったにない大事な客だ。今までの作業を保存し慌てて立ち上がった。

「いえ、だが、今日はあなたが居るんだ。少し休憩にします」

 遊星のその反応はまるで予想外だったようで、十代は一瞬目を丸めた。だがすぐにそれを苦笑に変え、遊星の肩をポンと叩く。

「そうか? ……まあ疲れてそうだし、それがいいかもな」
「そんなに疲れて見えますか」
「ああ。ほら、休んどけよ」

 ベッドに向けて背中を押される。抵抗するのも悪い気がして素直にベッドに腰かけたものの、どうも言いたいことが正確に伝わらなかったようだ。途方に暮れた顔で見上げるが、十代は構う様子も無い。

「……休憩って言うのは、そういう意味じゃなかったんだが……」
「オレとのデュエルを休憩にしようなんて、生意気な後輩だぜ」

 そう言われてしまうと、遊星には最早言うべき言葉が見つからなかった。確かに十代とのデュエルはいつも長期戦かつ激しい闘いになる。高度な戦術を要求されるので身も心も湧き立つが、それは万全のコンディションで臨んでこそだ。十代ほどのデュエリストに小手先で立ち向かっては一瞬で返り討ちだろう。遊星は未練を奥歯で噛み締めつつもその場に横になった。ちょっとした仮眠のつもりだ。十代はベッドに腰掛けて遊星を見下ろしている。夕日にほのかに照らされた部屋では影が濃く、十代の目鼻立ちをぼかしていた。

「起きる頃には……もう居ませんか」
「さあ、どうだかな」
「……せっかく会えたのに、もったいないな」

 十代は笑ったようだった。遊星もなんだか笑えてくる。もったいないだなんて、まるで子供のような言い分だ。やはり体は睡眠を求めていたのだろう。横になった途端に瞼が重い。

「いや、こういう季節だからな。顔が見たかっただけみたいなもんさ」

 それはやはり、分からないようで分かるような不思議な言葉だ。しかし同意も何もできない内に遊星は眠りに落ちてしまった。

 新システムもベータ版の評判は上々だ。遊星はようやく画面との格闘から解放された。しかしいつものことだが、手塩にかけた創作物が自分の手から離れていくのはどこか寂しくもある。ひょっとすると親の心境というやつなのかもしれない。そんな馬鹿げた考えに苦笑しつつ遊星は早朝にベッドから抜け出す。ここしばらくは不規則な生活を送っていたが、ようやく本来の生活リズムが戻ってきた。室内だというのに鼻の頭までひやりとした冷気が迫ってくる。裸足で触れる床も冷たい。いつもよりも少し厚めに着込み、階下に降りて身支度を済ませた。窓の外はまだまだ真闇で朝の気配など微塵も無い。夏であればもう少し明るい空が拝めるのだが。ガレージに出てシャッターを上げ、遊星は思わず小さく口を開けた。雪だ。ちらちらと白い雪が暗闇を軽やかに舞っている。積もるような振り方ではないが、どうりで空気が冷たいはずだ。スロープを靴で踏んで確かめるが路面が凍った様子は無い。しかし今日はスピードに注意する必要があるだろう。D・ホイールを押して広場へ出た。

 いつものコースを普段より時間をかけて周回したが、空模様はやっと白んだかという程度だ。雪雲が太陽の眠りを長引かせる布団になっているとでも言ったところか。風邪を引かないよう汗をよく拭き取って愛機の洗車を終える。長らく中断していた新しいD・ホイールの気筒の配置をあれこれと試している内、やっと朝の気配を窓の向こうに感じ始めた。だが雪は一層激しくなったようだ。ただでさえ遅い冬の朝がより速度を落としていた。窓枠に雪が積もり始めている。

「さっ、さみー!」

 バタン、勢い良くドアが開き、冷たい風が音を立ててガレージに雪崩れ込んで来た。それに髪を乱されながら飛び込んできた人は、急いでドアを閉じ小走りにスロープを駆け下りてきた。両手でしきりに腕のあたりをさすっている。驚きで目を見開く遊星の前で急停止だ。

「おいおい、家ん中も寒いぜ?」
「…………今日は、ドアから入って来たんですね」
「そうなんだよな、こんな日に限って失敗しちまったみたいでなあ」

 ドアから入ってくるのが普通なのだが、普通でない登場の方に慣れ初めていて逆に驚かされる。さすがだ、つい的外れなところで感心してしまった。乱れた髪を大雑把な手つきで直している十代を横目に立ち上がる。部屋の隅に乱雑に積んだ荷物に手をかけた。

「待っていてください。確かストーブがあったはずだ」
「こんなに寒いのに出してなかったのか?」
「昨日までは耐えられないほどじゃなかったんです」

 暑さ寒さに不自由を覚えたことはない。特に旧サテライト出身者は皆そうだろう、と言うと言い過ぎかもしれないが。案外すぐに愛用の電気ストーブを発掘し、十代の近くに置いてスイッチを入れる。古い割に性能は良いから、すぐに半径何メートルは暖まるはずだ。古めかしい造りのポッポタイムには煙突があるが、家の中には飾り暖炉しか無い。

「うおお……やっぱり、あったかいな」
「あなたが来たから暖かくなった」
「これの持ち主も、それ見つけたのも、スイッチ入れたのも全部お前だろ」
「でもその持ち主がそうしようと思ったのはあなたが来たからだ。ありがとうございます」
「変なヤツだな」

 遊星の言葉を冗談としか思わなかったのだろう、十代はオレこそありがとうと苦笑した。しかし、それは紛れもない遊星の本心だ。一人の部屋なら、こんなに暖かいとは思わなかっただろうから。十代はストーブの前で手を擦り合わせつつ首を伸ばした。

「これ、ひょっとして夏にずっと作ってたやつか? 結構サマになって来たな」
「中身はまだまだです。初心者にも乗りやすいようにしたいが、妥協はしたくない」
「初心者用か。誰かのために作ってるのか」
「ええ、まあ」

 遊星が言葉を濁すことがそんなに珍しいのか、十代は遊星をじっと見つめている。だがそれから先に踏み込む気まではしなかったらしい。それ以上何かを聞こうとはしない。

「喜んでくれるといいですが」
「大丈夫だぜ。お前がこんだけ丹精こめて作ってるんだからな。相手にも伝わるさ」
「そうですか」

 喜んで欲しい本人にお隅付きをもらえたなら当面は心配ないか。小さく笑ったが、幸い十代はそんな遊星に気付かなかったようだ。

「でも今日はこれで中断だ。この前のリベンジが残っている」
「体調もデッキも万全だろうな? いつも楽しみにしてるんだぜ!」

 愛機からディスクを分離させ、デッキをセットする。十代も愛用のディスクを装着した。結局秋のあの日、早朝に目覚めた時には誰の姿も無かった。疲れていたとはいえ、あれは随分悔しい思いをした。

「寒いのは好きじゃねえけど、秋まで来たら冬もなきゃなあ」

 春になり新しい研究員も増えたからか、MIDSにチーフとして戻ってきてほしいと一層強く請われるようになった。様々な人間が遊星のために懇々と説得にやってくる。と、さすがに遊星も放っておけなくなった。最近はほとんど毎日のようにMIDSに顔を出している。しかし正直に言えば、遊星は自分に人を動かすような役職はあまり向いていないと思っていた。それが自分のフィールドであればあるほど、できるかぎり独力で済ませてしまっている自分に気付く。困ったものだと他人事のように思いつつ人の少ない廊下を小走りに駆けていた。

「よっ、急ぎか?」
「じゅ、十代さんっ?」
「いい加減慣れろって、嬉しいだろ」

 突然背後から並走してきた人に驚いてしまうのは仕方ない。ここはMIDSに所属している者でも限られた人間しか入れないエリアだ。よくここまで、と思わず漏らす遊星に、十代はデッキ、とだけ返す。なるほど、どんなに忙しい毎日でもデッキだけは肌身離さない。

「ん?」

 小走りをやめ立ち止まった遊星を、十代は三歩通り過ぎて振り返った。その不思議そうな顔が少し愉快だ。

「あなたがいるなら今日は急がなくてもいい」
「お、おいおい、いいのか? 出直すぜ?」
「損した気分になるよりはマシだ。この前みたいに」

 根に持つなあ、困ったような声ではあったが、十代の表情はやはり愉快げだ。モーメントの管理を柱としつつ、様々な研究を平行しているMIDSの構内はひたすら広く殺風景だ。長い廊下に小さな一歩を踏み出す。

「少し歩きましょう」
「おう」

 これすげえなと白衣を引っ張られて何とも言えない気分だ。フォーチュンの開発に関わっている時にクロウに散々似合わないと笑われたものだった。今では少しくらい様になっていることを願いたい。

「この季節になると、やっぱり行かないとなって思うぜ」
「去年の夏も秋も冬も、同じようなことを言っていた」
「あー……うん。けど、春はやっぱり特別だろ」
「そうですね」

 しかし、MIDSの窓の無い廊下では、春を感じる要素がひとつも無いのが惜しまれる。今の時期なら、すぐ近くを流れる川辺の桜並木が満開だろうに。忙しさなんて忘れてそこに飛び出してしまおうか、そう思うのは一瞬だ。

「最近また忙しいんだな」
「こういう時もあります」
「でも、楽しそうだ」
「楽しいですから」

 顧問やチーフなどという大層な役職に覚える違和感はいつまで経っても消えないが、柱から、土台から街を支える仕事はやはり楽しい。そして楽しいだけでなく、今はそれに重すぎず軽すぎず自分に相応な責任を感じてもいる。

「もう、『情けない』なんて思う暇も無さそうだな」

 十代はまた柔らかく笑う。昨年の春のことが昨日のことのように蘇り、その後の一年を鮮やかに思い起こさせた。

「思えばこの一年はあっという間だった。あなたがいると、時間が早く過ぎるみたいだ」
「そりゃあ忙しいお前に悪いことしたな」
「いえ、オレはいつでも、あなたとこうして過ごしたいって言っているんだ」

 十代は自由自在にこの場に忽然と現れているわけでは無さそうで、時空を超えても季節は共通しているようだった。もしそこに制約が無ければ十代は恐らく春ばかり――もしくは冬以外の季節を選んでやってくるだろう。時空を超えても同じ速度で一年が巡っていることにきっと違いはない。それでも、十代は季節ごとに遊星を思い返して時を超えてやってくる。それが奇跡ばかりのこの巡り合いの最も大きな奇跡だと遊星は思う。

「あのさ、」
「はい」
「……いいや」

 十代は困ったような顔で笑った。それは苦笑とはまた違った表情だ。思わず立ち止まり、生真面目にその顔から隠された言葉を探ろうとする遊星を十代は相変わらず構わない。すたすたと前を行き、振り向かないまま手を振った。

「また会おうぜ。その時にするよ」
「はい。きっと」

 また会えるなら、急ぐこともないか。振り返った道が一本でも、目の前の道が無限にあるなら、未来に向かって後悔するなんて馬鹿なことはない。

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