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無用の心配



※ Pixiv掲載: https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11971222
※ 胡蝶姉妹と義勇など関係性の過剰妄想が多めです。

霧中にて待つ

 蕎麦の匂いが薫る湯呑を持ち上げ口を付けると、どこか甘さのあるような味が舌に染みた。蕎麦で膨れた腹を落ち着けるようにふっと息を吐く。そこで視線を感じて隣に座る男を振り向けば、赤みを帯びた鉱石のような瞳が爛々と輝いて義勇を見上げていた。

「どうした」

 唐突にざるそば早食い勝負だのと言い出し張り切っていた炭治郎だったが、満腹になって満足したのか勝敗にこだわる様子はない。軒の陰に入っても曇らない笑みが心底嬉しげに義勇を見つめている。

「いえ、なんだか義勇さんから困った匂いがしなくなったので嬉しくて」

 これまで義勇は我ながら冷たく炭治郎を捨て置いてきたと思うのだが、それを気にした素振りがまるでない。呆れもするが、安堵もする。この男は今日、義勇にとって何よりも重要なことを思い返させた恩人となった。この男のひたむきさが、遠い友の鋭い言葉に重なった。そのひたむきさを辛うじて傷つける存在でなかった自分に安堵する。

「お前は諦めないだろう」

 義勇とは全く異なり、炭治郎の性根はどれだけ捩じっても叩いても戻る鋼のような真っ直ぐさだ。そんな炭治郎の言葉には正しさがある。暖かさと好ましさがある。今後はそのひたむきさを傷つけるような真似もしたくないし、義勇はそれを尊重したい。守ってやりたいとさえ思う。

「だから、もう構わないと思っている。お前ならなんでも」

 義勇としては己の中で当然のように行き着いた結論だったが、炭治郎の顔は笑みを消してぽかんと呆けてしまった。何か妙なことを言っただろうかと片眉を上げたが、いつものようにすぐに言葉が返ってこない。

「……なんでも」

 幾らか沈黙を挟んで、炭治郎は確かめるように義勇の言葉をなぞった。それからぱっと表情を明るくする。先ほどまでの笑みを更に日光にかざしたような眩しさだ。錯覚だとは分かっているのだが思わず瞳を瞬いてしまう。

「なんでもですか!?じゃあ稽古つけてください!」
「だめだ。怪我が治ってない」
「うわあなんでもじゃない!じゃあ怪我が治ったらお願いします!!」

 どうしよう、どうしよう。頬を紅潮させた炭治郎は落ち着かない様子で両手を握ったり開いたり擦り合わせたりする。義勇の言葉がよっぽど嬉しいらしいが、何がそんなに喜ばしいことなにか義勇にはさっぱり分からない。

「そんなに喜ぶことか?」
「はい!」

 勢いよく返事をしたところで、炭治郎は怪訝を深める義勇にようやく気付いたようだった。照れたように頬を掻いて、すみませんと眉尻を下げて笑う。

「兄弟が多いとどうしても、なんでも最後になることが多いんです。だから、『なんでもいい』って言われるとなんだか新鮮で。しかも義勇さんに」

 『なんでもいい』とまでは言っていないと咄嗟に思ったが、よくよく考えれば同じことかもしれない。幼いながらに人に譲り、堪え、自分の空けた場所に生まれる幸福を慈しむことのできる心の正しさを好ましく思う。そんな男をこれほど喜ばせるのなら確かになんでもしてやって構わないなという気にもなる。ひとまず蕎麦屋の勘定は固辞する炭治郎を目上の特権で押し切って持つことにした。

 蕎麦屋を出てからも炭治郎は義勇に相変わらず付いて回った。ただ、取り留めのない言葉をかけるばかりだったこれまでとは異なり、あれがしたいこれがしたいと「我儘」らしきものを口にするようになった。しかしよくよく聞けば、道場の掃除をしたいだの書斎の整理をしたいだの飯を炊きたいだの将棋の相手をしたいだの、義勇にとってはむしろ有難い願いばかりなのだ。目上を気遣っているのかとも疑ったが、炭治郎がどれもこれも嬉々として取り掛かるものだから止めるわけにもいかず、精々足の怪我に響かないよう気をかけてやるくらいしかない。

「今日は帰らないのか」
「はい!」

 いつもはさすがに日が沈む頃には蝶屋敷へ戻っていくのだが、今日の炭治郎は寝床までついて来ていた。止める間もなく押し入れを開けて瞬く間に床を整え、その脇に腰を下ろして姿勢を正している。気合充分というところだろうか。

「俺が待機していますから!安心して休んでください!」

 いつまでも寝支度を始めない義勇を不思議に思ったらしい炭治郎の問いに馬鹿正直に答えたのは失敗だったかもしれない。鬼は夜動き、仮初であろうとも「柱」は有事の最後の砦だ。他の柱も似たり寄ったりだと思うが、義勇はいつも夜の内は隊服を着込んで座ったまま体を休めている。仮眠は日が昇ったところで少し取る。最初の内は苦しいと思っていたような気もするが、八年近くこんな生活をしていれば体も慣れるものだ。

「いや、だがお前は怪我が」
「俺がしたいんです!そうしたいんです!言ってくれましたよね、構わないって!」

 確かに言ったが、夜通し義勇の傍に控える小姓の真似事が炭治郎のやりたいことだとはとても信じられない。鬼殺隊の誰もが、己にできることを己にできる限界でこなしているだけで、義勇のやっていることは特別なことではないのだ。それを過剰に受け止められているとしたら不本意でもある。

「分かってます、すみません。義勇さんは今また少し、困っていますよね。でも俺、義勇さんのために何かがしたいんです。義勇さんが俺のためにしてくれたことを、少しずつでも返していきたい。義勇さんが好きなので、義勇さんにも好ましく思われたいです」
「何を」
「それに今、俺は怪我で他の人たちみたいに頑張れないんです。何か、誰かのためになっていたいです、俺は。こんな風でも」

 立て板に水とはこのことか。義勇さん、縋るように名前を呼ばれれば義勇に返せる言葉は最早ない。一切合切まとめて炭治郎は「そういう」男だと納得するほかなかった。義勇が布団に横になっているだけで心が晴れるというなら、そうしてやるしかないだろう。奇特にも程があるが、義勇が信じたい男がそう言うのならそうなのだ。諦めに近い気持ちで羽織を脱ぐと、さっと受け取られて丁寧に折り畳まれて枕元に置かれた。抜かりが無い。立て襟の釦をひとつ外してため息を吐き、枕に頭を預けた。それが限り限りの妥協点だった。

「義勇さん、おやすみなさい」
「ん」

 短く返事をして目を閉じた。習慣から外れた行動だ。眠りがすぐに訪れるとは思えなかったが、炭治郎が伸ばしてきた手が覆う目蓋が温かくて心地良い。

 深い霧の中にぼうっと立っていたら、風が強く吹いて髪が乱暴に弄ばれた。霧が一瞬薄くなって視界が開ける。視線の先に人がいる。目を引く鮮やかな宍色。口元に大きく走る古傷。勝気だが優しい微笑み。

「さ」

 目を大きく開いて固まる義勇に、錆兎は容赦なく飛びかかって来た。慌てて腕を上げる。有難いことに手の中にはいつの間にか木刀が握られていて、なんとか錆兎の攻撃を受け止められたが、勢いを殺せず思い切り尻餅をついてしまった。小さく呻くと、憎たらしい程愉快げにハハハと声を上げて錆兎が笑う。

「相変わらず受けが甘いな、義勇」
「分かってる!今は驚いただけだ!」
「鬼は男らしくない言い訳を聞きはしないぞ」

 頭をぐらぐら揺するように髪を混ぜ返されて、むっとしていたはずなのに義勇も笑ってしまう。錆兎はそれを仕方無いなとでも言いたげに笑うのだ。同い年のくせに錆兎はよく兄貴風を吹かす。だがそれを嫌味に思わないくらい心も技も全てが義勇を凌駕しているのだ。ほら立て、と引き起こされて立ち上がった。それからは山を駆け回った打ち合いだ。木々の隙間から互いに剣戟を繰り出しては防ぎ、受け、転がし、突き飛ばし、どこもかしこも土と苔で汚れる。

「俺は刀をみだりに振るうのは好きじゃない!」

 息も切れ切れに錆兎の木刀を弾き返しながら義勇は叫んだ。上段ががら空きになった錆兎の間合いに思い切り踏み込む。

「でもお前と、錆兎と打つ時が俺は一番楽しい!」
「……そうか」

 錆兎が笑う。優しい、しかしどこか寂しげな笑み。滅多に見ることのないその表情に動きが一拍遅れてしまった。それはそれは、期待に答えないとな、と勝気な笑みに戻った錆兎に吹き飛ばされて大木に背中をぶつけて止まった。背中が痛い。負けて悔しいはずなのに呻きと共に笑いが零れてしまった。やっぱり強いなあ、錆兎は。すごいなあ、笑いながら褒めると錆兎はいつも仏頂面をわざと作るが、満更でもないふうだ。

「少し休もう」

 錆兎は義勇の返事を待たずに隣に腰を下ろした。竹筒の水筒を取り出してぐいと煽ったが、義勇に分けてくれる気はないらしい。じっと見ているとお前はだめだと言われる。負けたからだろうか。相変わらず錆兎は勝敗に厳しい。

 しばらく風に流れる霧を二人してじっと眺めていた。義勇も錆兎も口が上手いほうではないからそういうことはよくあったが、この沈黙が義勇には不思議と心地良い。だが、それを割り入るような硬い声でひとつ錆兎は義勇の名を呼んだ。

「……参った。俺もこういう話はさっぱりだ……」
「錆兎?」

 錆兎の性格は元来、何もかも白黒はっきりしていないと気が済まない。歳の割に物や筋道をよく知っていて、そこから外れた行いを何より厭っている。その錆兎が言葉に迷っている様は未だかつて見たことがないので、義勇は思わずまじまじと眺めてしまった。しかし義勇に錆兎を救うような知恵が浮かぶはずもなく困惑していると、錆兎は意を決したように強い力で義勇の両肩を掴んだ。

「炭治郎のことだ」
「炭治郎?」

 何故ここで突然炭治郎なのか。不思議だと思ったが、錆兎があんまり真剣な顔をしているのでひとまずは話に集中する。

「俺は炭治郎を認めている。あいつは凄い男だ」
「ああ、俺もそう思う」

 答えながら、義勇は胸の奥で感心を深くした。やはり炭治郎は錆兎程の男でも認める男なのだ。

「俺は何もできないが、あいつの成し遂げたいことは、せめて気持ちだけも援けたいと思っている」
「ああ、俺もだ」

 全く同じ気持ちだった。性格も才能もまるで違うが、錆兎とは時々驚くほど物の見方が似ている時がある。だからこそ最も親しい友として感じられるのだろう。なんだか己の信じるものが錆兎にも受け入れられたようで嬉しく、思わず微笑んでしまう。

「義勇、お前は素直だな」
「……そうか?」

 昔はよくそんなことを言われていた気もするが、最近はそのような言葉をかけられたことはない。嫌われているとまで言われる始末だ──いや、誰に言われたのだったか。

「お前は強くなった。だから侮るわけじゃないが、友として少し心配している」

 何かとてつもなく大きなことに気付きかけた気がしたが、「心配」という言葉の重さに意識が錆兎に戻った。義勇と錆兎との間にはどうしても力量の差がある。しかしそれでも互いに高め合って共に鍛えてきたことをよく知っている同輩だ。ところが何か今の義勇には錆兎が危ぶむような弱さがあるらしい。思わず眉根を寄せると、そこに指をひたりと当てられた。確かに触れているのにあまり感覚が伝わってこない。

「義勇、考えるのを已めるな」

 何故だかその言葉が深く胸に突き刺さって苦しくなる。錆兎はそれを見越したように苦笑してぐりぐりと義勇の眉根を指でつつく。

「苦しい時、辛い時、無心で鍛えることは悪いことではない。むしろ強い鋼をつくる。だが、そうでない時は考えてやれ」

 曖昧な物言いだと思うのだが、今度は何故だか許されたような気になって体から力が抜けた。だがそれだけだった。錆兎が何を伝えたいのか今ひとつ分からない。これもまた錆兎には伝わってしまっているらしく、相変わらずだな、と呆れたように苦笑を深められてしまった。

「これだけは覚えて帰ってくれ。何でもかんでも許すんじゃない。時に厳しく当たることこそ相手を想うことだ」
「……分かった」
「本当か?」

 頬を張ってまで義勇の思い違いを正したのはこの友の真心だ。そんなことは言われずとも分かっている。深く頷いたが、錆兎は全く信じた様子に見えない。まったくもどかしいな、とひとつため息を吐いて諦めたように立ち上がる。

「そろそろだな」

 また霧が濃くなってきた。風が止んだのだろうか。錆兎は笑っているが、またあの少し寂しげないつもは見せない顔色をしている。

「たまには会いに来いよ」
「ああ、だけどお前はどこに居るんだ」

 先ほどまで同じ高さにあると思っていた顔が随分下にあった。錆兎は義勇を見上げて片手を上げる。

「約束したところで皆と待っている」

 ああ、これは夢だ。そこではっきりと気付いてしまった。俺たちがそこで待つと言えば、意味はひとつしか無いのだから。

 額のあたりの髪を梳かれているような感触がして、目をゆっくりと上げた。すぐ間近に覗き込んでくるのは逆さになった炭治郎の顔だった。申し訳なさそうに眉尻が下がっている。

「すみません。すごく、寂しい匂いがして」

 触れたことか、起こしたことか、何の詫びかよく分からない。どちらも別に気にすることでもないので何も答えずあたりに目をやった。目を閉じる前は橙に照らされていた部屋が白く暈けている。鳥がピイピイと鳴く声も微かに聞こえた。

「夜が明けたか」
「ええ、明けました」

 眠るつもりは全く無かったというのに、いつの間にか眠りこけてしまったらしい。これほど眠ったのは久々で却って頭がぼうっとしている気がする。禰豆子が陽光を克服してから鬼の出現がピタリと止まっているのは幸いだった。ここで事など起これば醜態を晒していたかもしれない。

「久々に夢を見た」
「そうでしたか」

 浅く眠れば夢を見る。そんなことも忘れていた。だから夜の間は鬼を斬り、体だけを休め、泥のような仮眠を取りと繰り返してここまで来たのだった。眠ればいつも夢に見るのは後悔を煮詰めたような夢ばかりだったから。だが、久々に見る夢は少し毛色が違っていた。

「悪い夢じゃなかったが、変な夢だった……」

 そもそも錆兎が炭治郎を知っているわけもないし、錆兎の言葉は曖昧で意味が掴めず過去の記憶にないことばかりだった。一説には夢は何かの示唆だと言うが、ここから一体何を読み取れば良いのだろうか。

「義勇さん」

 まだぼんやりと重たい頭を何とか巡らせている義勇を、炭治郎の赫い瞳がじっと覗き込んでいた。憂う表情だ。きっと何か辛い夢でも見たのだと誤解されている。寂しいと言われれば確かにそう感じたのかもしれない。しかし本当に悪い夢ではなかった。不思議に心が凪いでいる。まるで本当に旧友に再会して笑みを交わしたかのようだった。大丈夫だ、と声をかけてやろうとしたところで炭治郎の節くれだった指が目元に触れ、両頬を柔らかく包まれてしまった。

「俺のことを考えてください。寂しい時、苦しい時、辛い時、いつも」

 見上げる炭治郎の表情は真剣だ。義勇の瞳がどこにも行かぬよう見張っているようでもあった。言われた言葉をゆっくりと胸で反芻する。

「このお願いも、聞いてくれますか」
「分かった。そうする」

 相変わらず無欲な男だと思う。義勇のそんな返事ひとつでたちまち笑顔になって、心底嬉しげに瞳を細めている。包まれた両頬が柔らかく、思わず目蓋を閉ざして擦り寄った。

「少し眠りたいです。義勇さんは、もう起きてしまいますか」
「いや、もう少し寝る」

 片腕を上げて炭治郎の腕を掴み少し引いてやると、炭治郎はふふと鼻の先から笑みを零して笑った。それから堪えられないという風にくすくす笑いながら身じろいで義勇の布団に潜り込んでいる。

「嬉しいなあ。本当になんでもだ」

 ぎゅっと背中に抱き着かれた温度が高く温かい。これくらいなら許しても構わないだろう、何でも許したわけじゃない。こいつはあんまり無欲だ。夢の中の錆兎にそう答えつつ、義勇は深い眠りに落ちた。今度は炭治郎と揃って夢を見ることもなく、掛布団を呆れた様子で直してやる手にも気づくこともないまま。

(2019-11-13)

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