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無用の心配



拝して道を別つ

 チチチ…、開け放たれて秋の日和に浸された澄んだ空気を取り込む窓からは、軽やかに遊ぶ鳥の声が聞こえる。室内の重い沈黙とは全くの正反対である。診察室の大きな文机を前に、何を考えているのかさっぱり分からない笑みで義勇を見つめていたしのぶは、顎に人差し指を当てて小さく首を傾げた。

「柱合会議であれだけ揉めたのに、あんまり唐突じゃありませんか?」

 声は柔らかいが明確に毒が仕込まれている。しのぶの剣技そのもののようだ。どうやら口火は切られたらしいな、と義勇は他人事のように思った。これまでの経験から言って、こういう時の相手はやり過ごすのが正しい。黙っていると勝手に気を済ませて去ってくれる。

「そのこと自体は、ええ、喜ばしいと思います。でも約束もなく突然訪れて常備薬を寄越せいうのはあんまり不躾ではないですか?何か大事があったかと知らせを寄越したあの子たちの慌てようといったらもう……」

 義勇の認識としては、蝶屋敷へ戻る炭治郎を送りがてら胡蝶の所在を尋ねただけだ。しかししのぶの屋敷に住み込む者たちは、柱が柱を直接訪ねてきたとあらばそれなりの用向きだと考えたらしかった。確かに任務や重傷の怪我以外で頻繁にあることではないが、それはただ単にこれまで互いに多忙だったために機会がなかっただけだ。

「なんとか言ったらどうなんですか。ねえ、冨岡さん?」

 うちのことを便利屋か何かと思ってますか、皆さん。しのぶの口ぶりは明らかに苛立っている。困ったことにやり過ごす手が封じられてしまった。ここで黙り込んでいるとしのぶは更に機嫌を悪くするのだ──そこまで考えて、このやりとりが懐かしいものであることに気が付いた。

「そうして怒っているとお前らしい」

 かっとしのぶの目が見開いて部屋中に殺気が充満したが、一瞬もせずにしのぶは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して肩を落とす。それからいつもの三つも年下とは思えぬ大人びた微笑みで義勇を見上げた。

「冨岡さんの余計なお言葉のおかげで少し落ち着きました。人は限界を超えると却って冷静になるというのは本当ですね、うふふ」
「余計……」
「何か?」

 義勇は心外を押し殺して黙った。せっかく納められた矛をわざわざ再び構えさせることはない。正直言って何がここまでしのぶを怒らせているのかがよく分かっていないが、道理もなく怒り出すような相手ではない以上義勇に非があるのだろう。しのぶの言葉を甘んじて受ける覚悟でじっとその笑みを見つめていると、その表情はやがて苦笑へとほつれていった。

「すみません。今この時だけは許してもらえますか?今の私は、冷静さを欠いているんです」

 どうやら苦笑は自嘲のために浮かべられたものらしい。昔のように怒り露わにする姿以上に、こうして心の奥底にしまっておきたいだろう本音を晒すことは珍しい。思わず眉根を寄せると、どんな顔ですかそれはとまたいつもの笑みに戻った。

「かつて炭治郎君が柱合会議で言った言葉を覚えていますか?善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら柱など辞めてしまえ、と」

 覚えている。しかし、何故しのぶが唐突にその話を持ち出したのかがよく分からない。しのぶにも義勇の疑念は正しく伝わったらしく、これが冷静さを欠いている原因に近い話でして、と目が伏せられた。窓を背にして俯くしのぶの顔には影がかかっている。

「あの場に居た誰もが何を馬鹿なことをと思ったでしょう。鬼になったら、させてしまったら、それが誰の咎であれ善いも悪いも無いことは私たちが一番よく知っているから」

 冨岡さんだって言っていましたよね、鬼と仲良くするなんて無理だって。しのぶの言葉に何の異論もなく義勇はただ黙ってそれを聞いている。しのぶの言いたいことが見えてこない。そんな義勇がもどかしいのか、しのぶがぱっと顔をあげる。そこから表情は消えていた。

「冨岡さんは、禰豆子さんを初めて見た時にどうして「許せた」のですか」

 許したわけではない。鬼さえいなければという怒りや憎しみ、虚しい空想の生み出す痛みが消えるわけもない。無惨を討ってこの世から全ての鬼を消し去るまで、その想いは今後も決して曲がることはない。

 だが、その「原動力」は心をひどく摩耗するのだと度々知った。鬼を斬って、斬って、斬り続けても、怒りや痛みが浅くなることはない。それを核に生きる以上は、その傷を広げ深くしながらでないと前へ進めない。だから結果的にあの日炭治郎たちを「許した」ことになったのは、単に息切れを起こした義勇に一瞬生じた弱さだったのかもしれない。

 炭治郎も禰豆子も自分さえもどうでもよく、自分の願望を仮託しただけなのかもしれなかった。我が身を擲って誰かを守る人間こそ、報われるべきだという願いを。

「冨岡さん」

 深く思惟の海に沈んだ義勇を、しのぶはどこか申し訳なさそうに引き上げた。尋ねているくせ、答えを求める素振りはない。そこで義勇はしのぶが「今この時だけ許して」ほしいことをやっと察することができた。しのぶは義勇を通して自分の気持ちに整理をつけようとしている。

「私は姉を失ってから次第に自分の死を確かに想像できるようになってきた。今ではもうはっきりとそれが見えるようです」

 しのぶの笑みには最早自嘲も苦さもない。どこまでも澄んだ紫がかった大きな瞳が静かに義勇を見上げている。嫌な表情だな、と思う。これまでにも去る人の顔で幾度か見てきた。

「姉が生きていた頃、いつかは戦いで命を落とすとしても、明日、いや今日死ぬのではなどとはきっと考えていなかったと思います」

 でも今は、「それ」が見えている。

 囁くような声音だったが静かな部屋にはよく通る。カナエの生きている頃、しのぶはよく義勇たち隊士を呆れたように叱った──私たちを忙殺させる気ですか、とんでもない怪我をしたと思えばすぐに無理をして。自分を粗末にするような戦い方はやめてください。

「死ぬなとは言ってくれないんですね」

 心底おかしげに笑うしのぶは、義勇が何故黙っているかを知っているのだろう。義勇は人とできるだけ言葉を交わしたくないのだ。わざわざ当人が本心から望んでいない言葉をかけてやるわけもない。

「私が冨岡さんのことを嫌いじゃないのは、姉さんがいつも気にかけていたからです」

 初めて耳にする話だった。思わず目を瞬くと、しのぶは勘違いしないでくださいねと指を立てた。姉さんは底なしに優しい人だから、しのぶの言葉にはどこか懐かしい勝気さが潜んで聞こえた。まるで今もカナエがこの場にいるかのように。そうして義勇を覗き込むようにわずかに体を前へ傾けた。

「冨岡さんにも見えていたんじゃないですか、「それ」が。今日明日訪れても構わないものとして」

 義勇はやはり黙っている。やり過ごすためではなく単純に言葉を失っていた。そうだったのかもしれないし、それはただ単にカナエやしのぶの妄想でしかないのかもしれない。もうよく思い出せないのだ。「原動力」を頼りにひたすら走ってきた。周りにどんな景色が流れていったか知覚する余裕もなく。知覚してしまったら今の自分を保てない予感もあった。

「でも今は違う。そうじゃないですか?」

 何のために走っているのか──それは繋ぐためだ。繋ぐには義勇は生きて闘っていなければならなかった。ただそれだけだったはずだ。だが今、その意味が変わったことに気付かされてしまった。動揺に目を見開いてしのぶを見つめ返してしまう。ふ、と針で突いて漏れだしたようにしのぶが噴き出した。

「炭治郎君は凄い子ですね。本当に」

 おかしそうに呟いて義勇から離れ、椅子から立ち上がる。なんだか見知らぬ土地に放り出された気分になった。しのぶの笑みから顔をそむけるが、これが一層しのぶの笑いを誘発したらしくくすくす笑っている。

「稽古で手当に使う薬や品はうちの子たちが持ってきます。私はもう出かけますから、これで」
「胡蝶」

 義勇を置いて部屋から出ようとするしのぶを振り返って呼び止めた。声をかけられるとは思っていなかったらしく、しのぶは不思議そうな表情で素直に足を止めている。

「武運を」
「……ええ。冨岡さんも」

 やはりいつもの微笑みで義勇の言葉を受け、しのぶは静かに戸をくぐっていった。診察室に一人残された義勇に何もできることはなく、しのぶとの会話をただただ反芻せざるを得なかった。心を静めるのに久々に苦心している。

 ふと気配を感じて振り返った。細く開いた引き戸の隙間からこちらを覗き込む丸い瞳と視線がぶつかる。春を閉じ込めたような薄紅が猫の目のように透き通っていた。戸にかかった指には長い爪。だがこちらも薄紅に色づいているせいか普段感じる嫌悪を不思議と感じない。思わぬ遭遇にどうしたものかと思案している内に、禰豆子はするりと部屋に入ってきた。少しは警戒してくるかと思ったが、特にそんな素振りもなくとたとたと義勇に近寄る。

「こん、にち、は」

 義勇の傍らまで近づいた禰豆子が微笑む。窓から入る陽を全く気にしない様子に、人を一人も喰わずに紡がれるたどたどしい言葉。話には聞いていたがやはり驚かずにはいられない。

「こんにち、は!」

 禰豆子を凝視して動かない義勇に焦れた様子で、禰豆子は義勇の顔を覗き込んでいる。とりあえず頷いてみせたが、それでは満足に至らなかったらしい。むっと口を引き結び、禰豆子は義勇の膝に横から覆い被さるように両腕を預けてしゃがみ込んだ。そこが陣地と言わんばかりに占領してもう一度たどたどしく挨拶をしてくるが、何がしたいのか全く分からない。それくらいしか話せないのかもしれない。

 こんにちは、こんにちは、とまるで歌うように繰り返している内に何故だか今度は機嫌が良くなったらしく、床に付けた膝の先の足が節に合わせて床をぱたぱたと蹴っている。

「……温かいなお前も。兄妹だからか」

 鬼は皆ぞっと怖気が走るほど白い肌をしている。触れようと思ったこともないから分からないが、きっと血まで冷たくなっているのだと思っていた。しかし膝に触れる禰豆子の体温は高い。どの鬼もそうなのか、太陽を克服した鬼だからなのか、あの男の妹だからなのかよく分からない。義勇の言葉に禰豆子がぱっと顔を上げた。花が綻ぶような明るい笑みは、本当に兄によく似ている。

 鬼となってもう随分久しいだろうに、この娘はどこまでも「炭治郎の妹」だ。人を傷つけず、兄と共に人を守るため闘い、ついには太陽の光さえ克服してしまった。あの日、確かに何かが違うのかもしれないとは予感していたが、ここまでのことを想像していたはずもない。全てこの兄妹の想いの強さが成したことだ。

「よく支えている。お前も兄を」

 満面の笑みについ手が伸びていた。宙に迷わせた手を、しかし結局は禰豆子の頭に置く。艶のある黒髪が柔らかい。

「偉いな」

 ぎこちなく撫でてやると、禰豆子は嬉しげに目を細めて義勇の膝の上に組んだ両腕に頭を乗せた。手を止めると足がパタパタと動くのは止めるなということらしい。撫で続けてやる。長い睫毛が下りて、右膝に重みがかかった。あたたかい。

 繋ぎたい。しのぶと言葉を交わして気付かされた想いが何故だか今、強く胸に迫った。

 この娘を人間に戻す炭治郎の願いを援けて、手を取り合って喜ぶ様を見たい。せめてそこまでは繋ぎたい。それを果たせないまま狭霧山には帰れない。それが限りあるものとしても、何の憂いもなく晴れやかに、感極まって涙混じりに笑う炭治郎の顔が見たい。

 そうか、と腑に落ちた。義勇はあのひたむきな少年を心から愛しく思っている。

(2019-11-17)

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