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無用の心配



打ち払って拓く

 道場はしんと静まり返っている。しかし、壁際でこわごわとこちらを見つめてくる隊士たちの落ち着かない気配が肌に触れてもいた。その興味と畏れの入り混じる熱気のような視線はとても快いとは言えないものだが、この道場の主たる無一郎が人払いをしなかったので義勇は口を挟まなかった。正面を見据えると、霞の滲み入ったような青みがかった鈍色の瞳が静かに見返してくる。

「お願いします」

 かけられた声にひとつ頷くと、無一郎の気配はたちまち『ぼやけた』。確かにこちらに向けて木刀を構えているのだが動き出す気配がまるで読めない。ゆらりと体が揺れたものの、正面から打ち込んでくるのか脇から狙ってくるのか咄嗟の判断ができなかった。掬い上げるような一閃を後手に回って弾く。しかし追撃を加えようとした場所に無一郎はもう居ない。

 速い。そして間合いも広く、相手の動きをよく読んでいる。義勇の「勘」は只管に経験が積み上がったものだが、このまだ幼い剣士の「勘」は生まれついての才が働かせているものに違いない。それは似ているようで全く異質だ。才能は半ば本能のように経験の内に無いものさえも補って凌駕する。

「霞の呼吸、伍ノ型──霞雲の海」

 無論、才だけがあるわけではない。そこに何千何万の鍛錬がなければ、霞と見紛うほどの速さで技を繰り出すことなどできない。速いだけでなく重い一撃一撃は十四の幼い身体では到底出せるはずもないものだ。限界を超えて鍛え上げられた筋力と呼吸が大きな隊服の裾の下に隠れている。

「水の呼吸、拾壱ノ型。凪」

 全てを受け切れるかどうかは五分五分だった。隊士たちの目で捉えられているかは分からないが、数十の攻防が一瞬の内に繰り返される。永遠に続くかと思われる斬撃の中、ほんのわずかの隙を見出すことができたのは義勇のほうだった。上段で無一郎の木刀を抑え込み、その反発に逆らわず切っ先を喉元に突き付ける。道場の何もかもの動きが止まった。

「ありがとうございます」

 目で会釈をした無一郎の言葉に木刀を引く。その瞬間、ひとまとめにしているはずの髪の一房がぱさりと肩に触れた。違和感のある首に触れ、すっぱりと断たれた髪紐を絡まった毛先から抜き出す。義勇は思わず感嘆した。この年若さでこれほど熟達しているのだ。これから先どれほど伸びるのだろうか。

 距離を取り、目を合わせて互いに礼をする。切れた髪紐の口同士を結び合わせて再び乱雑に髪を括った。そのまま道場を辞そうと振り返ると、冨岡さんと呼び止められた。少し目を見開く。無一郎に名を呼ばれたのは初めてかもしれなかった。

「もう次へ行きますか」

 振り返るよりも先に無一郎は義勇の前に歩み出ている。問いの意図が読めずに片眉を上げるが、静かに義勇を見上げる霞の瞳から汲み取れる表情はない。

「何か用向きがあるなら聞くが」

 多くの隊士が悲鳴嶼の元までさえ辿り着けていないのが現状だ。着々と稽古の準備は進めつつあるが、その他は己の鍛錬以外に義勇にはすべきことがない。今は鬼も鳴りを潜めているので、何か用事があるというなら聞き届ける余裕があった。義勇の言葉に無一郎は初めて表情を動かす。しかしわずかに眉根が寄ったなんとも言えない表情だ。

「……無いんです。それが」

 率直に意味が分からなかったので義勇は無一郎を凝視する。無一郎も言うべき言葉を言い切ってしまったのか義勇を凝視している。打ち合いが終わっているにも関わらず、あたりの隊士たちは妙な緊迫を抱えたまま押し黙っている。静かだ。しかししばらく無一郎を見下ろしていて義勇が気が付いたのは、無一郎の表情が年相応な困った表情に似ているということだった。無一郎は困っているのか。ならば目上の義勇が何か助けてやるべきなのか。しかし口下手の義勇にできることなど何もない。仕方がない。

「……蕎麦でも食うか」
「!、はい」

 無一郎の表情がやや明るくなったので、どうやら間違った選択ではなかったことを確信し義勇は内心安堵した。義勇が静かに歩き出せば無一郎も素直にそれに続いてくる。後に残ったのは「なんで?」の渦巻く道場だったが、さっさと歩き去った二人の柱がそれを知る由もない。ひとまずは昼休みが取れそうなことを喜ぼうと残された隊士たちはぎこちなく動き出した。

「好きなんですか?蕎麦」

 目に留まったので適当に選んだ蕎麦屋の軒で、たぬき蕎麦にふうふう息を吹きかけながら無一郎が口を開いた。既に山かけ蕎麦を啜っていた義勇は、すぐに口を開くことができず首を傾げるしかない。好きは好きだが、特別というほどでもない。なんとなく、こちらを見上げて動かない無一郎に炭治郎の面影を感じたのだ。丁度昼時ともあって、それなら蕎麦だろうかと思い至ったに過ぎない。

「炭治郎から聞きました。早食い勝負をしたけど勝負が決まらなかったって」

 思わず目を瞬くと、無一郎は他にも色々聞きましたよと続けた。無一郎の鍛錬を難なくこなした炭治郎が邸に留まったのはほんの数日だったらしいが、朝から晩までに随分賑やかにしていたらしい。その姿が簡単に脳裏に描かれる。思い返して語る無一郎の口元には笑みが滲んでいた。

「どうしても話したくて厠までついていったらすごく嫌な顔をされた話とか、将棋でこてんぱんにやられた話とか」
「何でも話すなあいつは……」
「何でもではないと思う」

 やっと蕎麦を呑み込んだのでここにはいない男にぼやきのような苦言を呈すと、また無一郎が困ったような表情を浮かべて見せた。つ、と静かに瞳が義勇に向かう。

「あんなに楽しそうに話す炭治郎が、最後には笑顔で黙るから」

 思わずまともに無一郎の顔を見つめ返してしまった。どれだけそれを眺めても、その時の炭治郎が何を考え、どんな表情をしていたか知る術はないというのに。一体何故、と思うがこの少年に聞いても仕方のないことだろう。蕎麦の椀に目を落とす。無一郎も同じように蕎麦に目を戻したようだ。ずず、と啜る音がする。

「冨岡さんと少し話してみたかったんです。少し似ているかもしれないと思って。僕たち」

 一体どこが。咄嗟にそう思い、ひとまず思い止まって蕎麦を啜り、咀嚼しながら脳裏に「似ている」という言葉を放り込んでみる。溢れる才覚に見合う血と汗の滲む努力。十四とはとても思えない柱に相応しい気迫と胆力。いや、やはりどこも似ていない。首を傾げ怪訝な顔で見下ろせば、無一郎はふ、と小さく笑みを零した。

「俺は今までこの世界の何もかもが遠くて、霞の向こうにあるような気がして、そんな幻みたいなものに触るのも馬鹿馬鹿しくて、でも何かに追い立てられるように不安で、ただただ生きているだけだった」

 たった今しがたのことすら覚えていられない。無一郎は上弦の鬼と戦うまではそんな男だった。今はその頃のほうがまるで幻だったかのように、霞の滲む瞳に光を灯らせてどこか大人びた笑みを浮かべている。

「分かっていたから。そうしないといけないことだけ、分かっていたから」

 「そうしないといけないことだけ、分かっていた」。それは確かに腑に落ちる言葉だ。恐らく鬼殺隊の隊士の多くの胸にも落ちる言葉なのではないだろうか。鬼に奪われたものは決して戻らない上に、そこに確かにあった幸せさえ憎しみと苦しみに塗り潰されて振り返れない。それでも「そうしないといけない」。それだけ分かって生きている。

「心配をかけますよね、いつも。僕たちは誰かに」

 無一郎の笑みは静かだ。そうだな、言葉もなく義勇は胸の裡で相槌を返した。ちゃんと真直ぐ立っているようで、俺たちはいつも誰かに危ぶまれているような気がする。その心優しい心配に見合った人間でもないのに。つい目を伏せた義勇を、冨岡さんと無一郎が留めた。

「霞が晴れて良かった。今心からそう思います。辛くて悲しくて、悔しくて憎くて、どうしようもなく寂しいことも思い出さなければならなかったけど、それ以上に大切な、何より大切なことが鮮やかに蘇ってくれたから」

 無一郎は己の胸に手を当てて、じっと義勇を見上げた。

「これからはこれを頼りに、戦っていけるから」

 戦いに臨む時のような真剣な表情だ。用向きが無いわけではきっとなかったのだと思う。うまい言葉がなかっただけで、無一郎は義勇にこの話をしたかったのだ。義勇もそうなのだろう、とこの聡い少年は勘づいている。

「……お前は強い」
「いえ、僕は弱いです。とても弱かった。だから……俺は、もっと強くなる」

 卓の上に置かれた拳がぐっと握られた。その覚悟の表情に目を細めた。自分より若く才覚のある者が、自分とよく似た苦しみをより力強く、より聡明に乗り越えようとする姿はなんだか胸がすく。自分にできなかったことを託せたような気になるのだろうか。胸に小さな火が点るようだ。

「……お前は、俺を嫌っているか?」
「え」

 大人びた表情で俯いていた無一郎は、義勇の言葉できょとんと大きな瞳を丸めた。ぱたぱたとくっきりと濃い睫毛が上下し、困惑をまるで隠さない様子で口がまごまごと開く。

「ええっと……前はきっと誰とも分かっていなかったです。だから嫌いという気持ちもなかったかな」

 申し訳ないけど、無一郎は気まずげな顔をして、それから義勇の顔を見つめたまま首をわずかに傾げて何かを思案し、最後にはどこか愉快げな笑みになった。

「でも今は少し、貴方と話したい炭治郎の気持ちが分かってきてるかもしれない」
「……そうか、助かる。お前とは話しやすい」

 しのぶの言うように嫌われているわけでなく、馴染んでいないだけだという推測が正しかったようで良かった。炭治郎よりも年下の少年に何を言っているのかとも思うが、紛うことなき本心だった。自分や他の物事を見極めながら探りながら話していく無一郎の話しぶりは、口下手な義勇にとってどこか落ち着くところがある。自分は年下とのほうが話しやすいのだろうか?などと義勇が思案していると、ふふとまた呼気が漏れる音がした。

 年相応の満面の笑みは、やはりどこか炭治郎を思わせる明るさだった。

 喧嘩と早とちりした炭治郎が実弥に殴り飛ばされ、それが起き上がるのを待つうちに辺りはすっかり夕陽に包まれていた。竹林の隙間で茜色に熔けた太陽がちらちら光っている。炭治郎と二人でおはぎを懐に忍ばせる算段をつけていると、嫌な予感に敷き詰められた毎日のほんの隙間に見つけた穏やかで平和な妄想がくすぐったく愉快で、思わず忍び笑いを零していた。炭治郎はそれを相変わらずはち切れんばかりの笑みでにこにこと見上げている。その丸く赫い瞳を最後に見てから一月も経っていないだろうに、随分懐かしい気分だ。不思議だった。炭治郎が目覚めるまでじっとその寝顔を見つめているだけだったが、体の余計な力が勝手に剥がれていくようだった。以前からこうだっただろうか、よく思い出せない。

 寛いだ心のまま炭治郎の笑みを見下ろして、ふと先日見たよく似た笑みを思い出した。

「時透が」
「時透君?」

 脈略のない登場人物に、炭治郎がきょとんと目を丸める。

「ああ、稽古で会った。お前によろしくと」
「はい!そうか、不死川さん以外とも稽古してきたんですよね!」

 見たかったなあ二人の打ち合い、きっと凄いんだろうなあ、炭治郎は興奮した様子で義勇と無一郎の稽古を空想しているようだ。その素直で心底楽しげな笑みを眩しく、そしてやはり不思議に懐かしく思う。

「ぎ、義勇さん……?」

 戸惑うような声で初めて、義勇は己の両手が炭治郎の両頬を包んでいたことに気が付いた。

「ああ、すまない」

 未だ幼い柔らかさがそこにはあって、指でつまんだりつついてみると簡単に変形した。夕陽のせいか赤らんで見える頬はとても温かい。そして、この温かさにもやはり懐かしさが宿っている。

「本物だなと思って。お前のことばかり考えていたから」

 先に口が動いて、後から心が追い付いてきた。我が事ながら義勇はなるほどと思う。毎日のように炭治郎のことを思い返していたから、実物が懐かしく思えるのだろう。むにむにと頬を引き延ばす古傷だらけの手にそっと硬い手のひらが触れた。短い間によく鍛えてきたことのよく分かる、傷とタコだらけの炭治郎の手だ。

「俺のこと、ばかり」

 呆然と義勇の言葉をなぞる姿には見覚えがある。やはりたちまち表情が明るくなって、夕方が突然真昼に変わったかのようだ。炭治郎が勢いをつけて身を乗り出したので、頬から両手が外れた。笑顔がすぐ目下にある。

「どのくらいですか?いつもですか!?朝陽が昇って、昼高くなって、夜に沈むまでですか!?」

 そこまでは言ってない。咄嗟にそう思ったが、考えてみると確かにそうだったかもしれない。朝陽が昇れば炭治郎は起き出した頃だろうかと思い、背中に感じた体温を思い返した。昼が近くなれば蕎麦屋で見た心底嬉しげな笑みを思い返したし、夜が深くなると目蓋に感じた温かさを思い返した。

「……まあ、そうなる」
「うわあ……!」

 喜色を滲ませたままおろおろと視線を彷徨わせた炭治郎は、すっかり言葉を失っている。何がそんなに嬉しいのかついには涙ぐむ有様で、がっしりと両腕を掴まれた。

「義勇さんは凄い!凄いです!!」
「何だ、突然」
「本当になんでも俺の願いを聞いてくれますから!なんでも、叶えようとしてくれる」

 凄い、凄い。それしか言わない炭治郎を、義勇はやはり理解できない。何度考えても己が炭治郎を喜ばせる言葉を吐いたとはとても思えなかった。日記でもつけるように現実在ったことをそのまま口にしただけだ。

「何が叶ったんだ」
「え!?」

 思わず問うが、今度は何故だか驚きで炭治郎が狼狽えている。益々謎が深まり首を傾げると、炭治郎はいよいよ慌てて立ち上がった。

「ほら、そうだな例えば、怪我が治ったら稽古をつけてくださいってお願いしましたよね俺!」

 稽古しましょう、今すぐしましょう、ぐいぐいと腕を引かれて仕方がないと立ち上がる。実のところ義勇も炭治郎の成長ぶりを見るのは吝かではない。

 まあいいかと思う。夢の錆兎は考えろと言ったが、何度考えても同じだから無用の心配だ。結局この笑顔のために義勇は炭治郎をなんでも許してしまうのだから。

(2019-11-18)

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